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09




 ユグド暦八八九年の、雪のちらつく寒い朝のことだ。
 ユグド王スゥラ=コークランを十年以上に渡って支え続けた皇后シュロ=コークランは三十三の短い生涯を閉じた。シュロ=コークランもとい、シュロ=ノーネームはその姓が示すとおり、もとは西方のシャンパニュエル地方に住む親無しの村娘であったが、その聡明さを買われて、シャンパニュエル地方を治めるグミュント伯の養女となった。そして十六で王立教会付属の大学へ。そこで当時同じように神学を学んでいたスゥラ=コークランに見初められたという、童話の灰かぶり姫をまこと具現したかのような皇后であった。皇后は類稀なる美貌を持つ女性であったが、王を惹き付けたのはむしろその明晰さや生来の明るい気性のほうであったと、のちに侍従長カメリオは回想録にて語る。
 シュロ=コークラン。建国神に仕えたとされる神獣・聖音鳥と同じ名を持つ皇后はその人柄からユグドの民に慕われ、葬列の日には王都から遠いノースランドの村々に至るまでが皇后のために黒い旗を飾り、白薔薇を道に捧げ、悲嘆の涙に袖を濡らしたという。この日ばかりは長く王宮を空け、大学寮で生活をしていた第一王子ウルも仏頂面に微かな鎮痛の情を滲ませた。




 悲しみの暗い波は月白宮にも訪れ、いつもは明るい笑い声の絶えないその場所を嗚咽とすすり泣きとで覆ってしまっていた。
 イジュは両手首を縄で縛られた状態でぽつんと窓辺に腰かけ、扉の向こうから細々と聞こえてくる女たちのすすり泣きに耳を傾けていた。皇后に直接面識がないどころか、つい先日まで皇后という存在自体を知らなかったイジュであっても、何とはなしに気分が沈む声だった。――さりとて、イジュの心を重くしているのは皇后の死ばかりではない。両手首を縛るこの縄だ。
 皇后逝去という常にあらざる事態に際し、王兵たちはイジュを月白宮の一室に見張りをつけて軟禁しておくという形でひとまず場を収めた。地下牢にぶちこまれなかったのは、駆けつけた侍従長カメリオの取り計らいがあったからで、カメリオは懐から古びたユグド王国の法典を取り出すと、嫌疑だけで我がユグドの民を牢に入れるとはなんたること!と顔を真っ赤にして怒ってくれたのだった。善良な侍従長の訴えに、王兵たちもしぶしぶといった風に槍を下ろした。

「――イジュ、起きてる? 入ってもいい?」

 軟禁されている間のイジュの世話役にはリラという顔なじみの少女があたった。外は王兵たちで固められているため、イライアやカメリオ、ヒヒたちと会うことはできなかったが、この若い使用人だけは朝と夕の食事を運んだり、着替えを持ってきたりするのに必要だったので、許されたのだ。
 イジュがうんともすんともいわず、ぼんやり窓の外に視線を送っているので、リラは苦笑したようだった。

「イジュ。誰もお前が宝石を盗んだだなんて思っていないからね。大丈夫よ、安心して」

 イジュの、もうずいぶん長いこと梳かれていないヘイズルの髪をくしゃくしゃと撫でると、リラは着替えを入れた籠を両手に抱えて出て行った。あとで櫛を持ってくるわね、という声を残して、ぱたんと扉が閉まる。イジュはほんの少し名残惜しげにリラが消えていった扉を見つめたが、やがて窓のほうへ目を戻した。
そうしてどれくらい灰色をした空を眺めていたのだろう。あたりが陰鬱な宵の闇に沈み始めた頃、下のほうでにわかにざわめきのようなものがあり、白い石の敷かれた道に黒レースの喪服に身を包んだ王女が現れた。イジュは、心配を、たぶんしていたのだけども、王女は毅然としており、やっぱり例の五歳児とは到底思えない洗練された所作で差し出されたカメリオの手を取って馬車に乗った。横顔を凝視する。ルノの白磁器のような頬に涙の痕跡はなかった。




 朝と昼と夜が何回も何十回も回った。
 それでも、月白宮の日当たりの悪い奥の一間がノックをされることはなく、イジュは椅子にぽつねんと座ったまま、少し濁った窓硝子に額をくっつけて外を眺め続けていた。誰とも喋らない、何もしない日々が続くと、イジュの身体を満たし始めていた生気はすぅっと嘘みたいに抜けていった。ひとの声が遠い。ぬくもりが遠い。窓の外を移ろうだけの景色は無味乾燥としており、どんなに美しい薔薇色の夕焼けを描いてみたところで、イジュの心に何の感慨も与えてくれない。
 つまらない、と思った。さみしい、と思った。そう思って、胸を切なくすることにも疲れて、イジュは瞼を閉じる。冷たい窓硝子に頭を預け、耳に慣れた教会の鐘をからっぽの身体に響かせる。

 コンコンコンコン

 ドンドンドンドンッ!よりはるかに控えめなノックが外からしたのはたぶんイジュがこの部屋に閉じ込められてからひと月かふた月が経ったあとだった。何せ、窓の外に広がっていた冬枯れた庭はいつの間にか深い雪に覆われ、そしてその雪もまたいつの間にか溶け去り、残った斑な地面には春のうららかな光が差し込もうとしていたからだ。――そう、それだけの長い時間。イジュは忘れられていた。忘れられて、時間のひずみに迷い込んでいた。
 イジュが重い瞼を持ち上げ、音のしたほうへ目をやると、静かに木製のノブが回った。さらりと月光を織り上げたかのような銀髪が流れ落ちる。扉から顔を出したのは、蒼い眸をした小さな少女だった。

「――イジュ。いいかしら」

 そう尋ねるルノの眸には一瞬微かな怯えのようなものがよぎった気がしたが、その声はしっかりと芯が通っていたし、歩みも澱みないものだったので、イジュは気のせいだったのだと思うことにした。
 椅子に力なく座るイジュの前にルノが立つ。小さな小さな姫君はそれでもイジュをわずかに見上げる形になった。王女の頭越しに扉の外へと視線をやると、警備の王兵とともにこちらをうかがうカメリオやイライアの姿が見えた。

「イジュ、こっちを見て」

 ルノの白く小さな手がイジュの頬に伸びる。指先が触れると、肌が少し強張った。まるでずっと外にいたみたいにひんやりした冷たい手のひらだと思った。

「ずっとあなたに会いに来れなかったこと、ごめんなさい。悪かったと思ってる」

 ルノはそれ以外の言葉を尽くそうとはしなかった。『母親が』とか『葬儀が』とか、そういうことを口に出す気は一切ないようだった。ルノはただ職務が忙しかったというだけのそぶりをして、イジュに詫びる。その眸に揺らぎはないし、白磁器のような頬にやっぱり涙の痕跡はない。声に湿り気はなく、むしろ乾きすぎているくらいだった。

「イジュ。カメリオに聞いたわ。宝石の話」

 宝石、と口にされ、茫洋としていた意識が一気に呼び覚まされる。
 イジュはルノがこの部屋に来てから初めてきちんと目を開き、ルノの顔を見た。そこに疑いがあるのか、信頼があるのか。それが気になった。けれど、ルノの蒼色の眸は夜の静かな海のようで、そのどちらをも見出すことはできない。

「王兵の話だと、お前の机からはルビーが、シャツのポケットからはカメオが出てきたんですってね? 覚えはあるの?」
「……だから、それは、」

 久しぶりに出した自分の声はがらがらと醜く枯れている。
 イジュは軽く咳払いをして、だから、ともう一度続けた。

「キェロ=ツェラという名の男に渡されたのです。あなたに渡して欲しいと」
「私に?」
「悪かった、と、そう伝えて欲しいと言ってました」

 ルノはいぶかしげに寄せていた眉をさらにひそめる。心当たりはないようだった。しばらく口元を抑えて考えこんでいたルノは、「……そう」と黙考の末にうなずくと、顔を上げた。最後に、とルノは言う。

「お前は、本当に何もしていないのね、イジュ」

 蒼い双眸が自分を見つめる。
 澄み切った空のような、穢れのない、真摯な眸だった。
 おそらくイジュが是といえば、ルノはそれを信じるのだろう。だけど。だけど。イジュはそんなことを、望んではいなかった。本当は聞くまでもなくお前がやったのではないと言い切って欲しかった。イジュは奥歯を噛む。小さな、それでいて激しいさざなみが胸を揺さぶった。たぶん、嗚咽のようなものだった。イジュはきっとこのとき泣きたかった。

「………なんでずっと、来なかったんです」

 イジュはだから、やっていないと首を振る代わりにまったく別のことを口にする。王女の鉄壁を誇っていた表情がほんの少し揺らぐ。厚く張られた氷がわずかにひび割れるように。それがイジュの心に凶暴な衝動を生んだ。

「ずっと……、忘れていた? 私のことなど、ずっと今の今まで忘れていた? そうでしょう? どうせそうなんでしょう? ルノさま。カメリオに言われてやっと思い出した、ちがいますか? わ、私が、こんな、こんな知らない場所で、知らない人間に囲まれて、知らない言葉で、知らない疑いをかけられて、そうしている間、私がどれだけ、どれだけ――」
「イジュ!」

 怒声が轟いたのは刹那だった。頬を紅潮させたカメリオがつかつかとこちらに向かってくる。あの痩身でどうやったのかは知れないが、止めに入ったはずの王兵たちは軒並み倒されていた。カメリオが手を振り上げたので、イジュはびくっと身をすくませる。

「やめて」

 ぴしゃりと鋭く、毅然とした声が鼓膜を打ったのは直後。おそるおそる目を開けると、イジュの前には小さな王女の背中があって、その両腕はイジュを庇うように一心に広げられていた。ルノはカメリオを見据えて、「やめて」と繰り返す。それは五歳の駄々っ子の命令ではなかった。コークラン家の王女の命令だった。触れれば切れそうな、抜き身の剣がごとき鋭さがそこにあった。
 ルノの声で我に返ったらしい、カメリオが若干罰の悪そうな顔をして振り上げかけた手を下ろす。それを見取って、ルノも腕を下げた。

「……いじゅ」

 イジュに背を向け続ける王女の肩は少し震えているように見えた。
 長い沈黙のあとようやく落とされた声は、嘘みたいにか細く頼りない。

「ごめんなさい。それは、そう。……私のせいだわ。お前の言っていることは正しい」

 小さな肩があまりにも弱々しく震えているものだから、イジュは王女が泣いているのかと思った。なじられて、身勝手に責められて、この勝気な姫もついに耐え切れず泣き出してしまったのかと。だが、ルノは次の瞬間一息にイジュを振り返った。その眸は出会ったときと同じ、澄み切った、空を貫く光にも似た蒼。

「でも、お前を忘れていたわけじゃないの。これだけは覚えていて。お前を忘れていたわけじゃないわ、私も、カメリオも、月白宮の者は皆」

 王女の強い眸に射抜かれたイジュは小さく怯えた風に首を振ることしかできない。しんじられないと、そう頑なに心を閉ざして。

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