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08




 王女は言っていた。
 幸せな夢を見ると胸がぎゅうっと切なくなって朝が来てしまったことが悲しくなるのだと。不思議だった。帰るべき家も、愛する友も、きれいなドレスも温かなスープも、何もかも。すべてを持っているあの姫が、いったいそれ以上のどんな幸せを望むのだろうかと。イジュはとても不思議だった。

 


「ふー、できた」

 イジュは完成させた数式を見直し、ミスがないことを確認すると、羽根ペンを置いた。最初はボードに置いた石ころの数で勉強をしていたイジュも、近頃は難解な数式を解けるまでになっていた。きれいに並んだ数字を見るのは気分が良い。イジュは紙に重し代わりの石を置くと、インク壷に蓋をする。そうして、ふぅと大きく息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。
 何気なく右腕に目をやる。打ち身のせいで一時期ひどい青紫色をしていたそこは今はうっすら赤みを帯びているくらいである。昨日マルゴット先生と話をしたら、貧血のほうももう大丈夫なんじゃないかとのことだった。マルゴット先生の許可が出たので、明日からは朝の水汲みに混じらせてもらえる。いつの間にか水汲みがびっくりするくらい待ち遠しくなっているイジュだった。

「イージュ。休憩だ! 昼ごはんにしようぜ」

 窓下から声を投げかけてきたのはヒヒたち衛兵仲間である。

「今、行きますっ」

 イジュは開いた窓から声を返すと、ぴょんと立ち上がって部屋を出た。
 外で待っていた皆と、ひときわ背の高いセコの樹の下で厨房からくすねてきたサンドイッチ入りのバスケットを広げる。朝と夜の食事をしっかりとって、昼はごくごく簡素なもので済ますのがユグド流らしい。イジュはヒヒたちの談笑に耳を傾けつつ、恐る恐る受け取ったハムサンドに口をつけた。かりっと焼き上げられたパンと水気を含んだレタス、分厚いハムにぴりりとした芥子。これがどうしてなかなかおいしい。次第にヒヒたちの声を聞くのも忘れて夢中になって食べていると、不器用なイジュの手からはぼろぼろパン屑が落ちた。それをやってきた小鳥や大きな鴉がつつく。興味深げに目を瞬かせたイジュがハムを一切れ投げてやっていると、ヒヒが怪訝そうな顔で「いらねぇんなら俺がもらうぞ」と的外れなことを言った。

「そういえば、ヒヒ。カメリオを知ってます? もうずっと会ってないんですけど」
「あー、カメリオのじいさんなら、南の宮殿のほうに行ってるんじゃなかったか」
「南のきゅうでん……?」
「皇后が静養してらっしゃる宮殿だよ。じいさんも小さな姫君リトル・プリンセスももうずっとあっちに行ってる」

 聞いて、得心する。
 かれこれひと月以上、カメリオにもルノにも会えなかったのはそういうわけか。どこを探しても影も形もなかったので、いったいどうしてしまったのだろうと不安になり始めていたのだった。居場所だけでもわかって、ひとまずイジュは安心する。

「よくわからないけれど、ご旅行みたいなものですか?」
「うーん、旅行じゃあ、ないんだがな。……ただ、もうひと月だろ? いい加減ルノ姫も一度こちらにお戻りになるだろうから、そのとき聞いてみればいいんじゃねぇか」

 その口調は暗にイジュのこれ以上の詮索を拒んでいるようでもある。
 こう見えて、ヒヒは生真面目で口が堅い。ちぇ、と軽い落胆とともにヒヒから聞き出すことを諦めて、イジュは昼ごはんのあと、数式を見せに行ったイライアにも同じ質問をする。だが、やはり「もうすぐお戻りになるでしょうから」とだけ言ってイライアも首を振った。そのあと、リラや時折勉強を教えてもらっている使用人たちにも訊いたが、みな答えは同様だった。
 漠然とした疎外感に駆られて、イジュは口をへの字に曲げる。
 窓の外からは木枯らしが吹きつける音がぴゅうぴゅうした。イジュは夜の勉強をするのもやめてしまって、枕に顔を押し付けて、シーツを頭からかぶる。自分はどうしたってのけものなのか、と、沸き上がった気持ちはイジュの小さな胸を塞いだ。




 ドンドンドンドンッ!

 オーク材の扉が叩かれたのは翌朝の、まだ早い時間だった。
 とっさにルノ姫が帰ってきたのではないかと、イジュはまだ夢うつつの頭で考えた。ベッドから這い出て、まだふらつく足でドアのほうへ向かう。以前はノックされたとたんに飛び起きて、ためらいもなく外に逃げ出そうとしていたのに、寝惚けまなこのイジュの頭にそうした考えはちらりともよぎらなかった。ドアの前にたどりつくと、ノブを回す。

「ルノさま?」

 だが、薄闇から現れたのはしかめ面を作っている愛らしい少女ではなく、無骨な兵服に身を固めた王兵たちだった。ユグドラシルの紋章が肩と胸に入っていたが、見ない顔ばかりだったので月白宮の衛兵ではないはずだ。見知らぬ来客に、イジュのぼんやりしていた意識は冷や水を浴びせかけられたかのように急激に覚醒した。

「イジュ=ノーネームだな?」

 この国では、姓がない人間を呼ぶとき後ろに「ノーネーム」をつける。ノーネーム姓はつまり孤児であることを意味した。

「そ、そうですけど」
「――隊長! ありました! ルビィです!」

 突っ立っているイジュを押し分けるようにして部屋に入ってきた若い兵が窓際の机を指差して声を上げる。見れば、閉めたと思っていたはずの窓は開け放たれており、机にはちょこんと小さな赤い石が転がっていた。眠る前に、あんなものはなかったはずなのだが。いったい何が起こっているのかわからず、イジュはいぶかしげな顔で自分を取り囲む大柄な男たちを仰ぐ。

「まだあるかもしれん! 探せ!」
「は!」

 兵たちは敬礼をすると、四方に分かれてイジュの部屋をあさり出す。イジュは半ば呆然として、ひっくり返されるシーツや荒らされる本棚やめくられる絨毯を見ていた。あまりのことで、止めることすら忘れていた。

「ありました! 青い……カメオです!」

 兵のひとりが掲げた小箱と青いリボンに気付いて、イジュはあ、と息を呑む。シャツのポケットに入りっぱなしであったその小箱には見覚えがある。鍛錬場のいさかいのせいですっかり忘れてしまっていたが――、キェロ=ツェラとかいう黒髪の男から「ルノ姫へ」と言付かって渡された贈り物だった。

「やはりな」

 イジュの表情をどういう方向に解釈したのか、王兵は顎鬚を撫でて意地悪そうに笑う。童話に出てくるずる賢い狐みたいな目だった。

「このひと月、月白宮で宝石の泥棒を働いていたのはお前だな、イジュ=ノーネーム」
「……どろぼう?」

 耳慣れぬ言葉に、イジュはぽかんと口を開くことしかできない。
 『泥棒』って? いったい何の話をしているのだ?

「これに見覚えはあるか」

 言って、男はこちらに青いリボンのほどかれた小箱を突きつける。少しの間イジュの反応をうかがって、「覚えはあるようだな」と重々しく首を振った。なんだかどんどん間違った方向へ話を進められてしまっている気がして、イジュは慌てて首を振る。

「知ってはいます。でも盗んだわけじゃない。ひとから、渡されたのです」
「ひと? それは誰だ?」
「黒髪に金目の……」
「名は?」
「……き、キェ、ロ……ツェラ。そう、確かキェロ=ツェラです」

 イジュがなけなしの記憶を必死にたどって答えると、男ははっと笑った。

「キェロツェラ? クレンツェ語で『悪魔の酒』? ごたいそうな名前なこった、嘘はもっとうまくつくもんだな」

 男は小箱を部下らしき別の男に渡すと、代わりに装飾の施された蒼い象牙の宝石箱とルビィとをこちらに見せた。宝石箱はともかくルビィのほうはさっぱり見覚えがない。どうしてこんなものが自分の机の上に転がっていたのか見当もつかない。

「盗みが始まったのはひと月前。ちょうどお前が王宮に入った時期と一致する。ちょっと部屋の中を見させてもらうくらいのつもりだったが、アタリだな。――ったく、こんなどことも素性の知れぬ者を王宮に入れるなんざ、カメリオのじいさんもどうかしてやがる」

 男はちっと舌打ちをすると、「捕えろ!」と部下のひとりに言った。そのとき宝石箱を持たされていたまだ新米の兵士は、自分の手の中にある宝石箱の後ろのほうにつけられた突起を見つけており、これがただの宝石箱でないことに気付きつつあったのだが――「捕えろ!」という再度の上官の怒声におののいて、「今すぐに!」と叫んだ。抵抗する間もなく、イジュは王兵たちに手を縄で縛られ、シャツやズボンのポケット、しまいには髪の毛の中や下履きに至るまでをまさぐられる。外のほうで騒ぎを聞きつけたらしいイライアやヒヒといった月白宮の者たちが小競り合いを起こしていたが、王兵のほうが数も多かったし、何より王女に仕える月白宮の面々より王直属の兵隊である王兵のほうが格は上であるようだった。なすすべもなくイジュは王兵たちに引っ張られていく。腕が痛い。いったい自分はどこへ連れて行かれるんだろう。どうなってしまうんだろう。
 激しい恐怖が襲ってきて、イジュは弱々しい抵抗をしたが、すぐにがっちりした太い腕にはばまれた。――誰か。イジュは身をよじってあたりに視線を彷徨わせる。とっさに思い浮かぶ名はなかった。誰か。自分を助けてくれる誰か。自分のこの声に応えてくれるような、誰か。けれど、何も持たない自分にはそんな者はいない。いるようには思えなかった。それがイジュの心を締め付ける。誰か誰か誰か誰か!

「シ――」

 その声が。
 その悲鳴が。
 ほとばしってしまうその前に。

「イジュ!」

 懐かしい顔が王兵の前に飛び出した。
 カメリオ。
 イジュは一瞬ほっとして、口をつぐむ。実に一ヶ月ぶりに顔を合わせた老翁の眉間は珍しい憔悴の色があり、いつもは綺麗に整えられている口ひげもてんで変な方向を向いている。カメリオとともに走って来た使用人のひとりが恭しく手を上げて叫んだ。

「皇后逝去! たった今、皇后さまが逝去なされました!」

 
 王兵たち、月白宮の面々が一様に息を呑む。
 その中でたったひとりイジュだけがぽかんとした表情をしていた。




 あとになって気付いた。
 ルノ姫とカメリオがひと月に渡って王宮を留守にしていた理由はこれだったのだ、と。




 ――同時刻、ユグド王国中心部、王立教会。
 およそひとの力では登ることのできないであろう教会の尖塔に悠然と腰をかけて空を眺めている黒ローブの男の姿があった。気持ちよさげに風に髪やローブの裾を遊ばせていた男は、ふっと閉じかけていた睫毛を震わせ、眸を開いた。

「声がしたね」
「声?」

 もうひとり、寄り添うようにたたずむ影がそれに応える。

「忌々しい『眠り姫』を呼び起こす声だ。困るねぇ。どうしようかオテル術師」

 男が顎でしゃくると、同じように黒ローブに身を包んだ黒髪の少女は不機嫌そうに眉根を寄せる。少女は男の何がしかが気に食わなくて仕方ないらしい。それがわかっている男は微苦笑とともに軽く肩をすくめて、少女から視線を解いた。

「まぁ、しばらくは様子見か」

 ――ぱちん、と懐中時計の閉じられる音がする。

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