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07




 それから、イジュは二日ほど寝込んだ。
 貧血の症状がそうひどかったというわけではなく、単にたまっていた疲れが一気に出たのだろう、とのマルゴット先生の見立てだった。ルノは何かと忙しくしているようであれ以来現れなかったが、代わりにイライアとヒヒたち月白宮の面々はたびたび見舞いに訪れてくれた。ヒヒの股間をぶっ叩いて失神させた少年としてイジュは衛兵たちに名を知られる存在になったのだった。

「もしも王宮で働くことがあったら俺たちんとこ来いよ。しごいてやる」

 ヒヒは大きな手でばしばしとイジュの肩を叩き、激励した。怖いひとなのかと思っていたら、それは見た目と言葉遣いだけの話であって、存外気安いひとなのらしい。王宮でなんか…、と条件反射のようにイジュは思ったが、口にはしなかった。近頃、王宮でなんか、という気持ちが自分の中で急激になりをひそめていっていることにイジュも気付き始めていた。それだけでなく、そうなったきっかけにもイジュは薄々気付いていたが、こちらは未だ認めようとしてはいなかった。それに、張本人であるルノ姫がずっと城を留守にしているらしいことがイジュをむくれさせていた。前はやれ朝ごはんだお茶の時間だと嫌になるくらいに構ってきたのに。何かを期待して、ぶらぶらと城の中を当てもなく歩くのだけど、時折ルノが放し飼いにしているシャム猫と顔を合わせる以外は何もなかった。イジュはカラスに苛められていた弱虫のシャム猫を助けてやってビスケットを分け与えてやりながら、ちぇ、と思う。ルノさまはきっと私のことなんか忘れてしまってるんだ。
 そういえばカメリオもずっといないな、と思って、イジュはまだ冬の冷たい風に背筋をぶるっと震わせた。




 ある日のことである。
 いつものように遊びに来て、街で買ったとかいう大量の胡桃を置いていったヒヒが椅子に群青の上着を忘れていってしまった。午後からは鍛錬場で剣の練習に励んでいると言っていたが、上着がないことに気付いたら困るであろう。イジュは椅子に無造作にかかっていたそれを畳もうとして、その胸元についた銀色の王家の紋章に目を留めた。銀糸で縫い取られたそれは、窓の外に見えるユグドラシルの樹に酷似している。イジュは翠の眸を細めて、紋章を指でなぞった。いいなぁ、と少し思って、畳んでいたそれをもう一度開き、こっそり袖を通してみたりする。ヒヒの巨漢にあわせた上着はイジュにはぶかぶかだったけれど、鏡の前に立ってみるとそれなりにさまになっている気もした。

「――王兵の隊服が欲しいのですか?」
「っ!?」

 唐突に声をかけられ、イジュは上着を羽織ったまま固まった。
 悪戯が見つかった子供のような気持ちになって、恐る恐る振り返る。扉の前に立っていたのは、栗毛を結い上げた女官長イライアだった。

「それ。少し背丈は合いませんけど、お似合いですよ」

 どうやら叱るつもりはないらしい。
 ほっとしつつも、イジュはイライアの言葉を反芻して、律儀に首を振った。

「剣は、嫌いです。血を流すのは痛いし、血を見るのも苦手だから、私は軍人にはなりたくない」
「そうですね。私も流血は嫌いです。いつか軍人がいないですむ国になったらいいのにって幼い頃から思ってました。ノースランドの外れの出身なんですよ、私。あそこは農奴と教会とのいさかいが多くて、逃れるようにして王都に来ました。もう十年以上前のことです」

 イライアは小さく微笑み、イジュの後ろに回った。背中によっていた皺を伸ばして、前の釦も丁寧に止めていってくれる。

「使用人はこのような上着ではなくて、もっと柔らかい生地の動きやすいものを着ます。色はダーク・グリーン。森と同じ色」

 イジュはイライアと同じ、霧がかった深い森の色と同じ上着を着ている自分を想像する。それは思ったよりも悪いものではなかった。

「ヒヒが試験はとても難しいと言ってました」
「それはそうでしょう。ですが、やってできないことではありません」
「イライアさんはやって、できたんですか?」
「スゥラ王は私たち、女でも学べる学校を作ってくださいましたから。毎日水汲みをしながらその日習ったことの暗唱をしました。私には紙もペンも買うお金がなかったので、頭で記憶するしかなかったのです」
「すごい」
「それもこれもスゥラ王に近づきたい一心だったのですけどもね。乙女の恋心というのは奇蹟を起こすものです」

 イライアはくすりと笑い、イジュに向かい合った。

「ベッドにいるだけでは、お暇でしょう。簡単なユグド文字と、算数のお勉強でもしますか? 空き時間なら、付き合いますよ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。お望みなら、黒板とそろばんを用意しておきましょう」

 うれしくなって、思わず「ありがとうございます」とイジュは弾んだ声を返す。目が合ったイライアは年の離れた弟でも見るような優しい眼差しをしていた。




 イジュはそれから午後の休憩時間、寝る前などのわずかな時間を使ってイライアに文字と算数を教わった。子供に勉強を教えるくらいの気持ちであったイライアに反し、イジュはユグド語のかなり高度なレベルまでの読み書きと数字の概念とを知っていた。試しにイライアがユグド王国の、今では昔の歴史書や聖書に残るのみの古い文字を見せても、難なく読みこなせてしまう。一介の孤児にしては、イジュの語学レベルは異常だった。そして本人はまったく己の異相がわかってない様子で、大きな丸い翠の眸を瞬かせている。

「ねぇ、イジュ。お前、これらの言葉をいったいどこで習ったんです?」

 イライアが試しに聞いてみると、イジュは少し困った風に眉間を寄せる。だが、それは嘘を考える時間というよりは、頭の中に思い浮かんだ人物にふさわしい名前を探している時間のようだった。じっくり数秒考えこんでから、イジュは口を開く。

神父さまファーザーに」
「ああ」

 言われて、納得をする。教会の神父が孤児たちを集めて読み書きや算数を教えているということはこの国ではままあった。半ば趣味でやっていることなので、植物学に造詣のある神父は子供たちと種植えや花の観察ばかりをするし、絵画に心得のある神父はスケッチブックを持ち出してきて絵を描き出したりする。ユグド王国の神父は単なる聖職者ではない。ありとあらゆる学問に通じた学者であった。だからこそ、王都の王立教会付属の大学では神父自ら教鞭をとって、近い未来聖職につく神学生たちを教えている。
 おそらくは、とイライアは思った。イジュに言葉を教えた神父というのは昔大学で言語学か何かを教えていたのではなかろうか。

 イジュは言語、神学に関しては王都の大学生並みの知識を持っていたが、算数のほうは幼子と変わらないようなレベルであったので、イライアの手にもなんとか負えた。イライアは自分の、今年十になる息子を呼んできて、しばしイジュと一緒に勉強をさせた。一見ぼんやりしているようで、どこか勝気なところのあるこの少年は、近くに競争相手を置くとよく伸びた。

 この頃になると、月白宮の面々もイジュを家族と同然の存在として認め始めており、手があいた使用人たちは入れ代わり立ち代りイジュの勉強を見た。中には昔王都で司祭を目指していたコックなんていうのもいて、イジュに少し高等な文法や修辞学の基礎を教えた。少年は芽を出したばかりの若葉がすくすくと水を吸って育つように、よく伸びた。

 そうしてルノ姫不在のまま、ひと月がたった。




「イライアー!」

 ある晩である。イライアが息子に飲ませるミルクを淹れた壷を持って廊下を歩いていると、ネグリジェ姿の使用人が泣きながら飛びついてきた。

「まぁリラ、どうしたの。その姿」

 少女の緩く結われた栗毛の三つ編みはほどけかけ、ネグリジェもずいぶんと乱れてしまっている。何かあったのだろうかとイライアは眉をひそめて、ひとまず彼女の肩を抱き、自室に誘った。

「イライア。イライア。イライアー」

 まだ十八になったばかりの少女は栗色の大きな眸からぽろぽろと涙を流している。息子に飲ませるはずだった温かいミルクを彼女に渡し、「どうしたのです。話してごらんなさい」とイライアはつとめて優しい声で問いかけた。リラ、という名前の、女というよりはあどけない少女のような横顔をした使用人は、砂糖を入れたミルクに口をつけると、こく、と自分の気持ちを落ち着かせるように一口飲み下した。潤んだ眸からまた涙が一粒落ちる。

「イライア。あのね、わたしのね、エレモンドさまから送ってもらった宝物がなくなってしまったの」
「宝物? ってまさかあの、ルビーの?」
「そう。アンリに自慢したまま、机に置いておいたらなくなっちゃった。ドアも窓も開けっ放しになっていて。どうしようどうしよう、誰が持っていっちゃったんだろう」

 この宮殿に無断で宝石を持ち去るような不届き者はいない……とイライア自身は信じていた。しかしこのあどけない、善良なる娘が嘘をつくようにも思えなかったので、まさかそのような、と言うこともできず、震えているリラの背を優しくさすってなだめる。そのさなかにふと先日侍従長のカメリオから聞かされた話が蘇って、イライアはうずいてきたこめかみをもんだ。それはひと月前からたびたび現れている『泥棒』の話だった。

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