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06




 血はとても苦手だ。
 ナイフを傾けてやると、みるみる白い腕に幾筋もの赤が伝って、体温が抜け出たみたいに身体の芯のほうが寒くなる。そして、『彼女』が、泣く。恐ろしく、でもどこかで愛しくもある『彼女』が顔を覆って泣くから。イジュも悲しくて、苦しくてたまらなくなる。イジュは血が苦手。悲しくて、寂しい気持ちになるから。


 


「イジュ?」

 鈴が響き合うような涼やかな呼び声がして、イジュはうっすら眸を開けた。
 頭が重い。動くのも億劫で視線だけを少しずらすと、ベッドの白い天蓋と、青い空の広がる窓とが見えた。そしてすぐ近くには小さな、白い手のひら。ルノ姫は、なんだかやけに心細そうな顔をしてイジュの頬に手をあてていたが、イジュがゆっくり翠の眸を瞬かせると、いつもの不敵な笑みを口元に浮かべた。それがあまりにも自然な変化であったので、見間違いだったのかな、とイジュは思う。呆けたイジュに気付く風でもなく、ルノはぺちぺちと血の気を失っていた頬を叩いた。

「まったくお前ったら。血を見ただけで失神するだなんていったいどこの箱入りお坊ちゃまだったのよ」
「……私は『お坊ちゃま』じゃありません」
 
 気だるくて、口を動かすのも面倒だったのだけど、律儀にそこだけは言い直しておく。ルノはくすりと笑って、「それなら『お嬢さま』のほうかしら?」と意地悪く言った。

「ルノさま」
「怒らないで。いいじゃないイジュ。私だって父上にはよく『お前はまるで王女というより王子だな』って言われているんだから」
「たぶんそれとこれとは意味が違うと思います」
「そうかしら? 私はこれでも女の子らしくしようとしおらしく髪を伸ばしてみたり、ひらひらした服を着てみたりしているのよ。いじらしい努力だと思わない?」
 
 ルノは幼さに似合わぬ苦笑をし、イジュの額に手を置いた。

「まだ冷たいわね。もう少し眠りなさい。イライアに言っておくから」
「……はい」

 素直にこくりとうなずくと、ルノは「いい返事ね」とイジュのヘイズルの髪をくしゃくしゃ撫ぜ回した。ルブランから一本取れたらなでなでしてあげるわ、という約束でも思い出しているのかもしれない。あのときは子犬パピーと馬鹿にされたことが悔しくてたまらなかったのだけど、いざ小さな手で髪に触られてみると、さほどに悪い気分はしなかった。

「そうそう、さっきお医者さまのマルゴット先生がいらしてね。右腕は軽い打撲だから、大丈夫だそうよ。骨も折れていなかったみたい」
「あんなに痛かったのに……?」
「ルブランはああ見えて心がまっすぐすぎるくらいのひとよ。あなたみたいな子供をいたずらに痛めつけたりなんかしないし、剣の使い方だってちゃんと知っている」

 あの粗野で乱暴なヒヒの心根がまっすぐであるとはイジュには思えなかったが、ルノの声がいつになく穏やかで優しいので、不思議と反論する意思は沸いてこなかった。そうですか、と曖昧にうなずき、瞼を下ろす。髪に触れていた手が降りてきて、目元を覆った。といっても、ルノの小さな手では、右目を覆うので精一杯だったけれど。

「泣いていたわね、イジュ」
「はい?」
「気付かなかった?」

 ふふっと笑い声混じりに問い返し、ルノはイジュの頬のあたりを指先でなぞる。いわれてみれば、泣いたあと特有の塩気が肌に張り付いているようなかんじがした。

「……怖い夢でも見たのかしら? それとも幸せな夢だったのかしら。私は怖い夢を見ても決して泣かないけれど、よい夢を見ると、胸がぎゅうっとなって、朝が来てしまったことが少し悲しくなることがあるわ」

 そんな言葉を。この勝気な姫はいったいどんな顔をして紡いでいるのだろう。いつものように不敵に、無邪気に、天真爛漫に、あっけらかんと笑いながら言っているのだろうか。それとも、イジュの右目に目隠しをして、別の横顔を見せているのだろうか。目を開けてみたかったけれど、勇気がなくてできそうになかった。長い沈黙のあと、小さく、それでいて夜の深さを思わせる吐息が落ちた。不意に垣間見えたその暗い深淵は、イジュに驚きや好奇心よりも、もっと血の通った同調のようなものをもたらした。言葉で説明することは難しい。しかし、イジュが胸のうちに飼っている、他人とは分かちがたい何かをこの王女は同じようにその蒼く澄んだ眸に映しこんでいるのではないかと、つかの間期待した。

「おやすみなさい、イジュ」

 瞼上から手がのく。ひょいっとルノがベッドから飛び降りたので、イジュはもう行ってしまうのかと少し残念に思った。そう思っただけで、イジュも王女のほうには背を向けてまた眠りにつくつもりであったのだが、気付けば、イジュの手は勝手に伸びて、ルノのひらひらしたスカートの端をちょこんとつまんでいた。端っこのほうを引っ張られていることに気付いたのだろう。ルノが不思議そうな顔をして振り返る。イジュは目を合わせるのが嫌だったので、すすすと白いシーツを引っ張り上げてそれで頭までをすっぽり隠した。きっとおかしく思われたに違いない。この姫のことだから、またいつものからかいや皮肉を投げかけてくるのだろうと思ったが、返ってきたのはもっと優しい、まろんだ沈黙だった。

「イジュ」

 その名がすでに自分の名前として認識され始めているのが悔しい。

「イジュ」

 その声に名前を呼ばれるのが心地よくなり始めているのが悔しい。

「イジュ」

 なんだか、この少女に負けてしまったような気がして。
 とっくり少女の鈴の音のような声の余韻を噛み締めてから、イジュは目だけを出して、「なんですかルノさま」と無愛想を取り繕って言った。

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