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05




 ヒヒの視線をたどって初めて気付いた。
 白亜の柱の影に、いつの間にやら戻ってきたらしいカメリオと、その隣にたたずむ小さな影がある。ルノだ。王女は膨らんだドレスの端を両手で軽くつまむと、ちょこちょこと足を動かしてこちらにやってきた。イジュを残して、衛兵たちがみな芝生に跪く。そうしてみたって、ルノの小さな身体は大柄な衛兵たちの中に埋もれてしまいそうだ。まさしく、リトル・プリンセスの名がふさわしい小さな姫君は腕を背中で組んで、イジュを見上げた。

「話はそこで聞いていたわ。お前ったら本当に諦めの悪い男ね、イジュ。それとも、臆病者チキンと呼ぶべきかしら」
「な……!」
「悔しい?」

 にこ、と花色の唇に微笑を載せて、ルノ姫は首を少し傾げた。
 そうすると、王女の背中ほどの銀髪が小さな肩をさらりと流れる。

「だって、いたずら猫のパースなんかと一緒にされて、お前は腹が立たないの? 馬鹿にされて、笑い者にされて、お前は悔しくはないの?」

 そんなの悔しかったに決まっている。だから、喉が潰れるくらいの声を上げたのはないか。そんなイジュの気持ちを見透かしたのか、ルノは愁眉を開いた。

「なら戦いなさい、イジュ」
「は」
「誇りは戦って取り返すものよ。そうでしょう、ルブラン」

 ルブランと呼ばれたヒヒ顔の衛兵は嬉しそうに相好を崩した。

「そのとおり。我が姫は我らの流儀をよくわかってらっしゃる」

 喋りながら、しゅっと鞘を鳴らす。
 その音と剣が突き出されるのは同時だった。差し迫る剣先に、イジュはとっさ転ぶようにして左によける。剣戟は重いわりに大ぶりであったため、何とかかわせたが、さりとて今のはイジュによける間をわざともたせてやった突きであった。不意打ちってのはよくねぇからな、とヒヒがにやりと笑って剣を構える。

「ほら構えろよ。新入り」
「……ど、」
「ど?」
「どうやって……?」

 この言葉には周りにいた陽気な衛兵たちみなが腹を抱えて笑った。

「ヒヒ! わかんねぇってよ! 教えてやれよ」
「ばぁーか! 剣なんざな、師匠にぶっ叩かれて、殺されそうになって覚えるもんだ。死んだら運がなかった、それだけの話だ。お前も男なら自分で考えろ!」

 そんなことを言われても、とイジュは抜けない剣を抱きかかえたまま立ちすくむ。だが、ヒヒはカメリオのような親切心は星屑ほどにも持ち合わせていないようで、手取り足取り剣の指南をしてくれるようにはとても見えなかった。ちらりとルノのほうへ目をやる。だが、王女はすでにカメリオによって子猫を捕まえるみたいに抱き上げられて見物席のほうへ移動しており、目が合うと、ひらひらと蝶々のような白く小さな手を振った。くそうとイジュは樹上の神と薄情な姫君の両方に悪態をついて、剣を見よう見真似で構えた。

「抜いてないぜ嬢ちゃん」

 抜けないのだ、しょうがない。
 剣は絵画で見るような肉厚のものではなく、比較的細身のソードと呼ばれる類のものだったが、イジュのやわい腕では構えたまま停止することすら困難だった。ふらふらと左右に剣先が揺れる。

「かかってこいよ」
「お、お先にどうぞ!」

 と言ったのは、剣を持ったまま歩くことなどイジュには到底無理そうであったからだ。たぶん一歩歩いたら、バランスを崩して転ぶ。それくらいはイジュにだってわかった。イジュは想像してみる。男が襲い掛かる。それをさっきみたいに鮮やかにかわす。たぶんイジュにかわされるなどと思っていなかったヒヒはたまげてぽかんとするにちがいない。そこにこの重い剣を落とす。――なんだ、完璧じゃないか。
 イジュは口端に小さな笑みを浮かべた。とにかく最初が肝心だ。最初さえうまくよけられれば道は開ける。最初さえよけられれば――
 
 だが、軽い足音を残して男の姿が目の前から消えた。
 イジュはぎょっとして、陽光が穏やかに射している青い芝生を凝視する。いない。いない。どこへいった。どこへいったのだ? 焦って左右を見回していると、刹那、唐突に右腕に重い衝撃が来た。思わず剣を取り落とす。大きな音を立てて剣が転がっていったが、イジュは右腕に走った激痛のせいで、それを拾うどころではない。何が起こったのかわからないまま、よろめいて、芝生に跪く。腕はまだびりびりいっていて、感覚が戻ってこない。もしかして、剣をぶつけられたんだろうか。わからないけれど、どうしよう、半端なく痛い。本当に、痛い。血は出ていないが、もしや骨が折れてしまったんじゃないか。そう思ったとたん、さぁっと頭から血の気が引いていった。
 動かない右腕を抱えてイジュが唸っていると、ひやりとした剣先が頬のすぐ横を通った。白濁とした視界に割り込んできた太い足を見つけて、イジュは顔を上げる。ヒヒが恐ろしい形相で立っていた。――よけるだなんて冗談じゃない。イジュはヒヒの動きがまったく見えなかった。格が全然違う。ころされる、と思った。

「もう降参か?」

 ごく、とイジュは唾を飲み込む。
 もう一度こんな痛い思いをするくらいなら、今のうちに降参してしまったほうがいいんじゃないかとイジュの中に住んでいるチキンが囁いた。何よりも怖い。こんな大男に剣を持って追い回されるなんて耐えられない。思えば、イジュは何も悪いことなどしてないのだから、こんな痛い思いをする理由もないし、男と戦う必要だってない。もう早くやめてしまおうと思って、イジュはこくりとうなずこうとした。

「いいえ、降参なんかしないわ」

 澄んだ声が応えたのはそのときだった。
 目を瞬かせたイジュの前にちょこんと腰に手を当てた少女が立つ。

「そうでしょう、イジュ。腕を少し叩かれたくらいで何よ、格好悪い。私はかわいそうな捨て猫を拾った覚えなんかないわ。私が拾ったのは人間で、この私に仕える高貴なる鞘よ」
「な……」

 イジュは一瞬声を失った。
 口をぱくぱくさせてから、信じられないといった風に少女を振り仰ぐ。

「ばっ、馬鹿じゃないですか! やめてください、何が『降参なんかしないわ』ですか! 痛いのはルノさまじゃなくて私なんですよ、無責任にもほどがあります! 第一、少しってなんです少しって! こ、こんな、すごく痛いし……しんじられないくらい痛いし……腕だって折れてますよ絶対! ほら!」

 と言って右腕をルノのほうに掲げてみせる。
 あら、とルノは目を瞬かせたし、イジュはあれ、と眉をひそめた。試しに右腕を左右に振ってみるが、きちんと動く。ひどい羞恥心が全身を襲った。イジュは折れてなんていなかった腕をぎこちなく引っ込めると、頬を赤らめて身を縮める。それみたことか、とルノ姫は口元ににっこり笑みを浮かべて、イジュを見下ろした。
 
「ほら、私の言うことはいつだって正しいのよ。悔しかったらルブランから一本取って来なさい。可愛い子犬パピーによくできたわねってなでなでしてあげるわ」

 白い手のひらをひらひらと動かす姫君が恨めしい。

「結構です!」

 力の限りに叫び、イジュは転がっていた剣を両手で引き寄せた。
 手持ち無沙汰に剣を回していたヒヒが怪訝そうに顔をしかめる。

「で、どうすんだ? 降参は」
「誰がしますか馬鹿!!」

 ええいもうどうにでもなれ、と天に向かって唾でも吐くような気持ちでイジュは剣を取った。右腕に痺れるような痛みが走って涙目だが、勢いのままに剣を前へ突き出す。ヒヒが剣戟を受け止めようとソードを翻す。だが、ヒヒは失念していた。もともと腕力がない上、さらに右腕を負傷したイジュは、持ち上げた剣の高さも全然急所には足りてなかったこと。そして無我夢中で突き出された剣戟は別の急所に。
 ――まさしく。イジュの渾身の一撃は剣を構えたヒヒの股間を直撃していた。
 想像を絶する、まさに絶叫と言った悲鳴が上がる。
 ヒヒが倒れた。

「――――………」

 この世のものとは思えない壮絶な光景を目の当たりにして、男たちはさっと股間に手をやった。

「や、やった……?」

 イジュはぱちぱちと目を瞬かせ、倒れたヒヒを見やる。腹の底のほうからわき上がってきたのは、激流のような歓喜の衝動で。剣を放り捨てて飛び上がろうとして、イジュは己の頬をつ、と伝う感触に小首を傾げた。手の甲でこしこし拭く。涙かな、と思ったが、それは赤い、ぬめった血であった。側頭部を殴られたような衝撃がる。さっきヒヒに剣を突きつけられたときに切ったらしい、と認識する前に、くらりと貧血を起こしてそのままイジュは失神した。

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