その男の胡散臭さといったらなかった。 足首までを覆い隠す長い黒ローブに、煤けた黒ブーツといった旅人風の出で立ち。異国風の黒髪は巡礼者の多いこの国ではさほど珍しくもなかったが、鮮やかな金の虹彩の眸は見たことがない。何より男は何故か全身灰まみれで、ひょいと暖炉から絨毯の上に降り立つと、泥や埃と一緒に大量の灰も落ちる始末だった。 「きみこそこんなところで何してんのさ、王子」 男は今しがたチューリップを付け加えていた肖像画の兄王子を見ながら、イジュに尋ねた。はぁ、とイジュはなんだかよくわからなくて、生返事をする。まさか絵の中の王子と会話しているわけでもないと思うので、『王子』はイジュに向けての呼びかけだろう。もしかして、イジュをウル王子と勘違いしているのだろうか。肖像画の王子とイジュが似ているのかはわからなかったが、年や背格好は近いようだった。妙に慣れた風に広間のヴェルベットのソファに足を組んで座った男を見やり、とりあえずイジュは首を振った。 「私は王子ではないです」 「……おや、そうなの?」 「王子なら、王立大学で寮生活中らしいですよ」 「へぇ、あの陰気な引きこもり小僧がねぇ。神学生さまとは偉くなったモンだ」 男は相槌を打ち、行儀悪く組んだ足に頬杖をついた。 金色の眸が好奇心を載せて自分を見つめる。 「それではきみはなんと呼べば?」 「名無し」 「ノーネーム。自分から名無しという子供には初めて会ったな」 男はローブの内側から古びた銀製の懐中時計を取り出した。男の長い指が蓋のあたりに触れる。それが軽やかに離れてぱちんと指を鳴らすと、シャンデリアの蝋燭に次々と明かりが灯った。部屋全体が明るくなる。そうして改めて見る男の顔は、まだ十八、十九の若者だった。 「それでは、ノーネーム。ここにいるということはきみはルノ姫さまの使用人ってヤツ?」 「……ではありませんが。あのひとにご用事ですか」 「まぁね。旧友から、預かり物をしてきたんだ。姫に渡すようにって。ただ、あいにくと我らが麗しの姫はご多忙であらせられる。一度ご尊顔を拝したかったんだけど、まぁそれは次の機会を待つとしようか」 そう言って、男が次にローブの中から取り出したのはカメオの宝石箱だった。華奢な作りの宝石箱の全体を彩るのは空のような明るい蒼だ。ルノ姫の澄んだ蒼色の眸をつかの間イジュは思い出して、きっとあの姫に蒼天のごときブルーはたいそう似合うであろうと思った。どこからともなく取り出した小箱に宝石箱を入れて、青色のリボンをかけると、男はそれをイジュのほうへと差し出した。 「これを姫へ」 「ルノさまに、ですか?」 「そう。そして一言、『悪かった』と」 「はぁ……」 いまひとつ男の意図をつかみきれないまま、イジュは曖昧にうなずく。よろしい、と鷹揚に言って、男は組んだ足を地に着け勢いよく立ち上がった。分厚い黒ローブが翻る。そのはずみに男の腰に巻かれたベルトから小さな石のようなものが落ちるのが見えた。 「あ、何か落し物ですよ」 かがんで、イジュはその真っ赤な石を拾おうとする。だが石の冷たい表面に指が触れた瞬間、それは赤いひとつ茨に変わった。驚いたイジュに、男は薄く笑って振り返る。 「それはきみにあげるよ、まだ名の無き者」 「私に?」 「そう。本来なら、きみの持つべきものだからね」 謎かけめいた台詞だけを残して、男は暖炉のほうへ戻っていこうとする。その手の上に乗っている懐中時計が淡く輝き始めていることに気付いて、イジュは男のローブの裾をつかんだ。 「待ってください。あなた、誰です?」 「――キェロ」 「きえろ?」 「キェロ=ツェラ。今はね。なぁに覚えることはないよ、どうせ次会うときには変わってる」 金の眸を猫のように細めると、男はひらひらと手を振って暖炉の中に入っていった。しばらく呆けたのち、イジュはおそるおそる暖炉の中をのぞきこむ。男はすでにその中にいなかった。 最後に回ったのは、兵士たちの集る鍛錬場だった。 すべてカメリオから聞いたことだが、ユグド王国にいる軍人の数は隣国クレンツェの四分の一にも満たない。何故なら、ユグド王国はもう百年以上も永世中立を掲げ、他国との戦争をしていないから、軍人の数も城砦の数も他国のようには多くないのだ。無論、それはユグド王国の有能な外交官あってのことだとよく覚えておきなさい、とカメリオは付け加えた。 その数少ない軍人のひとりである月白宮の衛兵たちは昼食を終えて、午後の鍛錬を始めたばかりのようだった。イジュは練習用の切っ先が潰された剣をカメリオについて見て回る。引き抜こうとしたが、まず剣の重さのほうに腕が悲鳴を上げた。剣とはこんなに重いものだったのかとびっくりしてしまう。 「なーんだ、嬢ちゃんみてぇな顔しやがって。こんなもんも引き抜けねぇのか」 野次を飛ばしてきたのは、バケツを四つ担いでいたあの腕っ節の強い男である。イジュは眉をむっとひそめて、自分の倍も背丈はあろう男を仰いだ。男はふんと鼻を鳴らして、見せ付けるように剣を軽々と持ち上げる。男の前ではまるで羽根か何かのように扱われる剣をイジュは思わずぽかんとして見つめた。 「……べつに、」 嬢ちゃんみたいな顔、と先日使用人の少女に言われたのと同じ言葉でからかわれたことに腹が立った。イジュは男をじっと睨みつける。 「剣が引き抜けるから偉いわけじゃない。そしてそれを言うなら、さながらあなたはヒヒ顔ですね」 「――ぶっ!!」 これにはその場に集った男たちが一斉に吹き出した。何せ、男の少し突き出た扁平な額と、存在感のある鼻はヒヒそのものであったからだ。「ほー?」と男は口端をひくひくとひくつかせながら、剣に身をもたせかけてイジュを見下ろした。 「言ってくれるじゃねぇか嬢ちゃん。まぁ剣を抜けるから偉いわけじゃねぇってのは正しいさ。だが、それをおめぇみたいな剣も抜けない野郎にゃ言われたくねぇ」 「そ……!」 「悔しかったら抜いてみな。ほらよ」 剣を鞘ごと投げて寄越され、イジュはなんとか受け取るも、そのあまりの重さに少しよろめいた。男たちが笑う。無意識のうちに視線でカメリオを探したが、温厚な侍従長はどうしてかその場からいなくなっていた。イジュの中の怒りが冷めて、急激に不安が広がっていく。置き去りにされてしまったのだろうか。見放されてしまったのだろうか。考えると、冷たいものがうなじに這い上がってくる。唇を引き結び、イジュは剣を抜こうとするが、鞘はびくともしない。当たり前だ。鍛錬も何もしてない人間に簡単に引き抜けるシロモノではないのだ、剣は。だが、そのときのイジュはそんなことを知るはずもなかったので、自分が何かまたおかしなことをしているせいで剣が引き抜けないのだと思って焦った。ぐぐぐぐ、と奥歯を噛んで引き抜こうと試み、しまいには地面に鞘を下ろして両手で引っ張る。男たちの笑い声が大きくなった。目尻にうっすら涙が滲む。 「おい新入り」 ヒヒ顔の男は口端を意地悪く吊り上げて、イジュの鼻先に先を潰した切っ先を突きつけた。丸い切っ先だから、刺されたって死にはしない。わかってはいたけれど、やっぱりはじめて突きつけられる剣というのは恐ろしい。イジュの身体はとっくにすくみあがっていたが、イジュ自身の性質はあいにくと、王女に負けず劣らずの勝気さがあったようで、翠の目にこぼれそうなくらいの涙を湛えつつも男を睨み返した。男がほんの少し面食らった様子で片眉を上げ、息を吐いた。 「んな可愛らしい顔で泣いてみせたって容赦しねぇからな。カメリオじいさんはひとがいいから、代わりに俺が言ってやる。いいか、よく聞け新入り。この王宮に入るには普通、基本的な礼儀作法のほかに、文法・修辞学・論理学・数学・幾何学・音楽・神学・政治学・法学の大学相当の九科を修め、加えて使用人最低ひとり以上の推薦、王自らによる面接のクリアが必要だ。軍人なら、学問は免除されるが、剣術、弓術、馬術、体術に通じてなくちゃならねぇ。王宮には、たったひとりの募集に千人以上の人間が集る。およそ千倍。九百九十九人を足蹴にした奴だけが、小さな姫君のそばに侍ることを許される。だがお前ときたら――」 そこでちらりとイジュのびくとも動かない鞘へと視線をやり、男は肩をすくめた。 「このザマだ。足蹴にされた九百九十九人が泣くぜ。お前は、小さな姫君が連れてきたっていう、ただそれだけの理由でここにいるんだからな。姫さんの拾ってきたシャム猫のパースとおんなじ身分ってわけだ」 シャム猫のパースという言葉は、さっきの嬢ちゃんという言葉以上にイジュを傷つけた。いっそ憎らしくなるほどにびくともしない剣を手でぎゅっと握り締める。 「……私はべつに」 「ああ?」 「私は、あなたとはちがいます。別にここに来たかったわけじゃない。ここに来たくてきたわけじゃない!」 半ば癇癪を起こして叫ぶ。 たぶん、イジュはとても傷ついていた。慣れない環境で、珍獣のように扱われることに。身の覚えのない悪意をぶつけられることに。傷ついて、苛立っていた。だって、神は平等と博愛を謳うのに、イジュに押し付けられる運命はあまりにも理不尽だ。孤児のように寒空の下を腹をすかせて彷徨い歩き、やっとひとに出会えたと思ったら、こんなわけもわからぬ大きな城になんか連れてこられて。もしも運命の女神というのがいるのなら、それはルノ姫のような、高慢で、わがままで、残酷な顔をしているのだろう。イジュがお腹の底から澱んだ怒りを吐き出すように怒鳴りつけると、ほう、とヒヒ顔のほうは冷めた目をしてこちらの肩越しに視線を投げた。 「どうします、小さな姫君。こいつ、こんなこと言ってますが」 |