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03




 侍従長カメリオはイジュについての調査を部下に命じた。
 素性を知れぬ男を大事な姫のそばに置くなど、カメリオにとってはもってのほかだったからだ。ルノ姫は気付いているのか知らないが、イジュの部屋は常に月白宮でも腕利きの武官を見張りに当たらせているし、ルノ姫が忍び込んだ夜だって、衣装箪笥クローゼットの中では武官が剣を握って待機していた。もしも我らが麗しの姫に不埒を働こうものなら、チューリップ柄のその衣装箪笥を突き破って豪腕の武官が現れ、即座にイジュを斬り捨てたであろう。――図的にいまひとつ緊張感に欠けるのはいただけないが。

 翌朝、カメリオは武官から報告を受けた。生真面目な武官は、姫さまはイジュにキスをしておいででした、と眉ひとつ動かさずに述べたが、この情報については王の耳に入る前にもみ消してしまうことを決めた。東に視察に行っている王が悪魔の形相で帰ってくるとも知れない。
 数日後上がったイジュの素性に関する報告書はものの一枚きりであり、内容も数行に満たなかった。『UNIDENTIFIED』――すべて不明、だ。

「やはり孤児か……」

 確かに拾い上げたときのイジュの身なりは浮浪者としか思えないものであった。孤児院には入らなかったのか、それとも幼い頃に逃げ出してしまったのか、姓はもとより両親や兄弟の名も知らないと言う。イジュはあまり嘘が得意そうに見えなかったし、カメリオの信頼している部下に調べさせてこうなのだから、間違いはないだろう。気になったのは、イジュの、王都中心部というよりはやや北方よりの顔立ちと色素の薄さ、そして俗語スラングひとつない完璧な王国語であったが、これはたまたまイジュに言葉を教えた人間がある程度の教養を持っていただけなのかもしれない。とにかく留意するほどの事実ではないだろう、と判断し、カメリオは書類を机の抽斗にしまった。
 それから、カメリオの近頃毛髪の薄さでもって悩まされている律儀な頭は、月白宮の屋根の修理と近頃頻繁に現れているという宝石泥棒の話とでいっぱいになってしまったので、抽斗が再び開けられることはなかった。




 そんなこんなで、どういうわけか知らないが、その朝からイジュの待遇は若干の変化を見せた。今までは迷い込んだ犬か猫かに仮宿を与えるような具合で王宮の片隅に閉じ込められていたのだが、その朝はいつもより早く起こされた上、そさくさとシャツとズボンとを着せられ、朝の掃除の手伝いを命じられた。手伝いといってもイジュにできるのはせいぜいバケツの水汲みくらいのもので、それとて、腕っ節の強い男にはてんで敵わないお粗末さである。男が四つのバケツを一足飛びで運んでいくのを横目に見ながら、イジュはその倍の時間をかけて、のろのろとひとつのバケツを運んだ。終わったあと手を見たら、皮が裂けて真っ赤になっていた。くらり、と軽く眩暈に襲われる。

「今日は月白宮を案内しようか」

 朝食が終わると、カメリオは言った。イジュは少し嫌そうな顔をしたが、さっきバケツを四つ担いでいた腕っ節の強い男がぎろりと睨んできたので、怖くなってこくんと首を縦に振った。カメリオは三十分ほどかけて口ひげをセットすると、薔薇の描かれた美しい櫛を胸ポケットにしまい、「イジュ」と穏やかな春風を思わせる声でイジュを呼んだ。その声は、あまり嫌なものではなかった。ルノのどこか耳障りな高い声とは大違いだ。このひとと過ごすのならまぁいいか、と幾分気を取り直して、イジュは侍従長の背を追った。


 月白宮は大きかった。これで王城の北の一角を占める宮のひとつというのだから、王城自体はどれくらい大きいのだろう。イジュには想像もつかない。
 最初に案内されたのは庭園だった。花でも見られるのかと思いきや、冬の庭は真っ白く閑散としており、代わりにとんかんとんかんとリズミカルな音を響かせて、壮年の男が傾斜した屋根の上で何がしかをやっている。屋根の一部が剥がされて、中の木組みがあらわになっているのがイジュの立っている場所からでも見えた。雪の重みで潰れた屋根の補修をしているのだと、カメリオが説明する。

「どうだ、作業は順調か」

 大きな丸太を担ぐ男にカメリオが声をかけると、ひとりが「へぇ」と鷹揚にうなずいた。

「ぼちぼちですな。このままいきゃあ、明後日までには終わらせるかと」
「そうか、ご苦労。次の吹雪までにはどうにかしてくれ」
小さな姫君リトル・プリンセスの御為とあらば。しっかし、中の木組みに鳥の巣がぽこぽこ出来てますな。あいつら糞を垂れ流すものだから、ほらこの通り。臭ぇったらありゃしねぇ」

 男が示してみた服の裾にはなるほど、鳥の糞らしき塊がくっついている。鼻を近づけたイジュがうぇっと顔をしかめると、カメリオがすかさずイジュの首根っこをつかんだ。悪いね躾がなってなくって、と言い添えるのも忘れない。
 鳥の巣をそぅっと庭のセコの樹に移している男たちを仰ぎつつ、カメリオについてその場をあとにしていると、「きみはずいぶんと行動が野生的だな」とカメリオは苦笑気味のため息をついた。イジュは少し首を傾げてから、褒められたのだろうと思って、こくこくとうなずいた。

「……素直というか天然というか。悪意はないのだがなぁ」
「カメリオ?」
「いや、こっちの話だ」

 次に案内されたのは、厨房であり、すでに夕餉に向けた準備が始まっていた。煤臭いパン焼き場の奥には、大量の野菜と一緒に大小の鍋、大きな釜がある。これはいったい何に使うのだろうとイジュが覗き込んでいると、それは芋を煮るのに使うのだとカメリオが教えてくれた。いったいどれくらいの芋を煮ることができるんだろう。百個か。千個か。イジュは翠の眸を大きく開いて釜の底のほうを見つめていると、カメリオは少し笑い、「この宮にはぜんぶで五十人近い使用人がいるから、釜も大きいんだ」と言った。

「試しにお茶を淹れてみるかイジュ。王女のおそばつきならそれくらいできなくちゃいけない」

 そうカメリオは言うが、イジュ自身は王女のおそばつきになるつもりなどさらさらないし、その練習に励むつもりもない。だけども、お茶ひとつ満足に淹れられないと思われるのも嫌だった。イジュはうなずき、ティーポットを手に取った。やってきた使用人が茶葉と熱湯の入ったヤカンとを置く。手順がわからなかったので、イジュがすがるような視線を使用人にやると、まだ少女を抜け出したばかりといった女性は優しく微笑んで、お茶の淹れ方を懇切丁寧に教えてくれた。淹れるときにそっと白い手を添えられる。イジュは『女性』に手を触れられたことなど生まれてこの方なかったので、どきどきしてしまったが、彼女が席を外した隙にこそっとカメリオが近づいてきて、軽く咳払いなどをしながら「イジュ」と肩に手を置いた。

「若者の恋の萌芽を摘み取る趣味は私にはないが、彼女はあいにくと私の妻でね。次手を触れ合わせてみたまえ。翌朝きみはめでたく城の鴉の餌だ」

 こうしてイジュの恋の萌芽は一秒にして潰えた。

「それからイジュ」

 口ひげをさすりながら優雅にイジュの淹れた紅茶を味わっていたカメリオは少しだけ苦笑し、空にしたカップをソーサーに置く。

「きみの紅茶は最悪だな。これじゃあ王女に到底飲ませられない」

 これにはさすがのイジュもむっとなり、猛然とカメリオを仰ぐと、彼が大切そうに撫ぜていた口ひげを指でつまんで引っ張ってやった。コラ!イジュ!とカメリオが珍しく声を荒げて怒る。なんでもつまんだときに大切な毛が一本抜けたからだそうだ。


 そのあともイジュはさまざまなものを見て回った。葡萄酒の樽がいくつも置かれている貯蔵庫や大きな糸紡ぎの車が置いてある部屋。今は使われてないらしいが、罪人を捕らえる牢屋もあった。庭には食糧となる、豚や鶏が放し飼いにされている。一緒に犬や猫が混ざっていたので、指を差して尋ねると、城内に迷い込んできたのを王女が見つけて可愛がっているのだとそこで働いている者が言った。
 日に焼けたその笑顔は素朴で優しい。城に出入りするしがない大工から家畜の世話係に至るまで使用人たちが「小さな姫君リトル・プリンセス」と口にするとき滲む形式だけではない、温かな情がイジュには不思議であり、興味深くもあった。偽りなく、本心から彼らはルノを慕い、愛しているらしい。それほどの魅力がかの姫君にあっただろうか。二階から突如飛び降りてきたり、キスをしたり、かと思うと、高慢な物言いをするあの姫君に。
 そんなことをぽつぽつと呟くと、家畜の世話をしている老人は首を振って、あの方はとても愛らしい姫君ですよ、と言った。

「きっとすぐにわかります、あなたにも」

 そうだろうか、とイジュは疑わしげに顔をしかめる。
 ひととおり見て回って、その次に踏み入れた一室はひときわ大きく、清楚なシャンデリアと古い暖炉とがあった。

「大広間だ。そしてこれが、現王スゥラ=コークランさまとその奥方、第一王子ウルさまにルノ姫さまの肖像」

 壁にかけられた大きな絵画を仰ぎ、イジュはふぅんという顔をした。
 優しく微笑む栗毛の女性の腕には白い産着に包まれた赤子が抱かれており、その隣には妙に緊張した面持ちの少年が立つ。その奥に、青いマントに身を包んだ男性がいた。ただし顔はない。ナイフで切られたようで、キャンバスがめくれてしまっている。イジュの視線に気付いたのか、カメリオは苦笑した。

「それをやったのはルノさまだ」
「……あのひとが?」
「スゥラさまと大喧嘩をして、肉を取り分けるナイフで切ってしまったのだ。姫が三歳のときで、すぐあとにスゥラさまからお尻ぺんぺんの刑を受けていた」
「ぺんぺん……」
「おかしいだろう? スゥラさまとルノさまはご気性が似ているから、顔を合わせば喧嘩ばかり、ウルさまはそういうことには無関心で、いつも耳を塞いで本を読みふけっている。――でも決して仲が悪い家族ではないのだよ。姫さまが今よりもっとお小さくあらせられたときは皆でよく食事を囲んだものよ。今はお妃さまは病がちで南の暖かな離宮で療養をしているし、第一王子のウルさまは王立教会付属の大学に、スゥラさまは東の視察に出向いていて、離れ離れなのだがな。姫はあのとおりの性格だから、ひとつの愚痴もこぼさずに私相手にも気丈になさっておる。本当に、気丈で勝気で気のお強い姫君だ。泣いた顔なんて、私だってほとんど見たことがない。だけどイジュ」

 カメリオは眸を柔らかく細めてこちらに目を合わせた。

「王女はきみを選んだ。もしかしたら、きみのことが必要だったのかもしれないね」

 イジュは呆けた顔をする。自分が誰かに必要とされる力を持っている人間のようには思えなかったからだ。バケツはひとつしか運べないし、おいしい紅茶は淹れられないし。髪も目も変な色だし。やっぱりイジュには王女が気まぐれを起こしたようにしか思えなかった。そういう、ひとの気まぐれに付き合わされて、たぶん飽きられて、手を離されるという経験を一度イジュはしていたから、余計に警戒心が強くなっているのかもしれなかったけれど。

「むぅ? いかん、もう三時だ」

 あれこれとイジュが考えていると、不意にカメリオが懐から懐中時計を取り出して眉をひそめた。

「そろそろルノさまのおやつの采配をせねば。イジュ、ここで少し待っていてくれないか。すぐに戻ってくるから」
「だけど、」
「大丈夫。肖像に瑕でもつけたら斬首もんだが、そんなことしなければ問題ないさ。きみは嘘をつかないよい子だからな、私は信じておる」

 くしゃくしゃとイジュのヘイズルの髪をかき回し、カメリオは鶴のような痩身を翻した。ぽつねんと大広間にひとり残されてしまったイジュは困って首の裏に手を置く。カメリオはもうイジュが逃げ出すとは思っていないらしい。いや、逃げ出してもすぐにあのバケツ四個も担いでいた豪腕に連れ戻されてしまうので、イジュももう強引にここから逃げようとは思っていないのだが――、それにしても初めてもらった『信頼』はなんだかくすぐったい。
 背中のあたりがむず痒くなってきて、イジュはふるふるふるっと首を振った。
 気を取り直して、肖像画を鑑賞することを考える。壁にかけられた肖像画はイジュひとりぶんの背丈はあるのではないかというほど大きい。イジュの知識にある絵画というのは大半がステンドグラスや聖書の一場面を描いた宗教画であったので、こういう個人の肖像というのはまた趣が違って面白かった。
 と、視界端でこちょこちょとせわしなく動く筆先を見つけて、イジュは目を瞬かせる。見れば、暖炉の上にちょこんと座って黒ローブの男が肖像画の端っこに何がしかを描き付けている。先ほどまではいなかったのに、いつの間に入り込んだのか。しばらく呆気に取られた末、イジュはおずおずと男のローブの裾をつかんだ。

「……あの。何、してるんですか?」
「んー?」

 ウル王子の頭にチューリップを咲かせていた男は、炭棒を指に挟むと、ふとこちらを振り返った。はずみにフードが落ちて、異国風の黒髪がローブにさらりとかかる。

「ふふ、落書き?」

 金の眸を煌かせて、男は猫のように笑った。


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