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02




 そのあとはイジュにとってまさしく地獄だった。
 ユグド王国には、悪しき魂は世界樹に迎えられずに地獄に落ちるという教えがあるけれど、生き地獄というのはたぶんこういうものをいうのだ、とイジュは本気で思った。

 まずイジュはルノの護衛を務めているとかいう巨漢の男に襟をつかまれ、厨房へ直行した。身体を洗えとルノ姫は言っていたので、てっきり浴場に行くのかと思ったのだが、赤々と燃えるオーブン、ウサギやガチョウや鳩がぷらっと吊るされている貯蔵庫を通って現れたのは芋や人参などの泥を落とすのに使う洗い場だった。洗い場といっても、普通の家庭にあるような小さな流し台ではない。イジュの身体を放り込んでもあまりあるほどの大きさのシンクであった。そこで、イジュは待ち構えていたエプロンドレスの使用人たちに汚れた犬を放るような要領で手渡される。

「まぁ汚い」
「髪もぐしゃぐしゃねぇ」
「垢のせいで、もとの肌の色もわからないわ」

 好き勝手言われながら一張羅の身包みをはがされ、シンクの中へ。上からかけられた水の冷たさにイジュは驚き、暴れたが、使用人たちの手によって押さえつけられ、あとは垢すりのブラシでごしごしごしごしと頭の天辺から爪先、男として絶対触れて欲しくない部分に至るまで容赦なくこすって洗われた。イジュはちょっと死んでしまいたかったが、使用人たちにしてみれば、相手にしているのはまだ十五才の『男未満』の坊やで、素っ裸にして洗ったところでちっとも気を咎めなかった。もっとも、彼女たちはこの月白宮の使用人としての矜持を、宝石よりも大事に胸に抱いていたので、仮にイジュが二十代の男性であったとしても眉ひとつ動かさず、ルノの命令に従っただろうが。

 一通り洗い終わると、膝元までを隠す長いリンネルのシャツを着せられ、別室に連れて行かれる。そこにはすでに鋏を持った男が待ち構えており、イジュは椅子に座らされて、伸びっぱなしになっていた髪を切られた。もはや抵抗する気も起きない。イジュの脆弱な体力はすでに流し台で使い果たされていた。
 ぱらぱら床に落ちるヘイズルの髪を他人事のように眺めながら、イジュは小さくため息をついた。五日前、城下の町を徘徊していた自分に聞いてみたい。今の、大きな城の中で椅子に座らされ髪を切られている自分を想像できるかと。十年前に遡ってみたって、首を振るにちがいない。
 家や家族を持たないイジュは帰りたい、とは思わなかったけれど、ただ、ここはあまり好きではない、どちらかというと苦手だ、と思った。

「ずいぶん長く伸ばしていたのですね。邪魔ではなかった?」

 イライアと名乗った使用人の女性は、床に落ちたヘイズルの髪を箒と塵取りで掃除しながら、イジュに優しく声をかけた。翠の眸をぱちくりと瞬かせ、イジュはずいぶんと短くなってしまった髪をつまんだ。ぎこちなく首を横にぶんぶんと振る。

「そう。ならいいのだけども」

 イライアはそれ以上追求をせず、イジュにここでしばらく待っているよう言って、塵取りを持って部屋を出た。それで、ようやく久しぶりにひとりきりになる。イジュは螺子が切れた人形みたいに、こて、と椅子ではなく床に座り込んだ。抱えた膝に顔を押し付け、深々と息をつく。慣れないことばかりをさせられたせいで、自分はいつになく疲れてしまったらしい。このあとは何をされるのだろう。イジュは泣き出したい気持ちをこらえてぎゅっと目を瞑る。疲れたというよりは単に心細いのだと、このときのイジュは気付かなかった。

「見て、おかあさま。知らない子がいるよ。あの子だぁれー?」

 そのときふと、背中のあたりに視線を感じて、イジュは顔を上げた。廊下のほうに立っている小さな子供と目が合う。イジュは部屋の中にいたが、扉が開け放しにされていたので中からでも十分、外の人間の姿は見えた。ルノと変わらないくらいの年の子と、若い女性。こちらは厨房にいた使用人たちとは違う色の、深緑のエプロンドレスを着て、腕には服の入った籐かごを抱えている。

「リズ。おっきな声を出さないで」
「男の子かなぁ? でも女の子みたいな顔だね。どっちなのかな」

 自分のことを言っているのだろうか、と思って、イジュはじー、とふたりの顔を見つめる。女性のほうは戸惑った風に子供の腕を引こうとしたが、それをくぐり抜けて、少女はこちらに駆け寄ってきた。

「あなた、だぁれ? ここの子?」

 好奇心に溢れた視線がきらきらと注がれる。
 面食らってしまって、イジュが喋れないでいると、少女は品定めでもするようにイジュの頬に触ったり、頭髪を引っ張ったりした。ふぅん、と呟く声が漏れる。

「肌も目も髪の色も薄いのね。ヘンなの!」
「――リズ!」
 
 少女の暴言に気付いた女性が慌てて口を塞ぎにかかるが、そのときにはすでに小さな身体は持ち前のすばしっこさで女性の手を逃れている。

「ごめんなさいね、あの子、まだ幼くて、悪気はないの」

 女性は申し訳なさそうに謝ると、「待ちなさいリズ!」と怒声を上げてスカートを翻した。イジュはしばらく呆けた顔つきで走り去る女性の背中で揺れる栗毛を見ていたが、やがて眉根を寄せて俯き、膝を抱える腕に力をこめた。
 ヘイズルの髪も翠の眸も、栗毛の多いこの国ではあまり見かけないことにイジュは気付き始めていたが、やっぱりそうで、自分のほうが変だったのだと思うと、なんだかひどく悲しくなった。





 その夜は、鮭とイチジクのパイ焼きとスープといった余り物とはいえ豪勢な夕食を与えられた。王女もいなかったし、もう意地になってもしょうがないのですべて平らげる。久しぶりに腹いっぱいになったからか、いつもは眠るのに時間がかかるごわごわしたシーツのベッドでもすぐにまどろむことができた。思えば、ちょっと前までは、冬の寒空の下、なるべく風が当たらない場所を探して丸まって眠っていたくらいなのだから、壁と屋根があるだけでもずっとマシというものだ。自分の体温で寝床が暖まってくる頃には、イジュはくぅくぅ寝息を立てていた。


「――……ジュ。イジュ」
「んん……ふぁー、ざ」

 肩を揺さぶられ、イジュはうっすら目を開く。
 あたりは真っ暗だったが、おぼろげだった視界が焦点を結んでいくにつれ、そば近くにいた少女もはっきりと輪郭を持った。

「ぅ、わ!?」

 そば近く――どころか、むしろ鼻先がくっつくほど近くに少女がいたので、イジュはベッドから跳ね起きるようにして隅っこのほうへあとずさる。壁にしたたか背中を打つと、朝に作った打ち身が痛んだ。

「なぁに、まるでお化けでも見たような顔」

 ルノはくすくすと仕草だけは可愛らしく笑って、イジュのほうへ這い寄ってくる。イジュが嫌そうな顔をすると、王女はにこっと屈託なく微笑んだ。調子を崩してぽかんとする。それが王女の悪戯心をくすぐったらしい。

「イジュ、頬を出して」
「……やー、です」

 ぽそりと呟くと、ルノはおや、という風に眉を上げた。

「お前、今初めてきちんと喋ったわね。なんだ、本当に声が出ないのかと思っていたわ」
「声くらい出せます。ただ、私が喋りたくなかっただけで」
「ふぅん、じゃあ今は喋りたくなったのね」

 ルノは嬉しそうに笑みを綻ばせた。

「イイコね、イジュ」

 頬を引き寄せられたかと思うと、額にふわりと羽根が触れるような口付けが降る。声にならない驚きが身体を支配した。イジュは声を失ったまま思い切りあとずさってまた背中を壁に打ち付けるはめになる。それを見た王女はころころと声を立てて笑った。

「頬が真っ赤よ。お前ったら可愛いわねぇ」
「き、きもち悪いことしないでください!」
「あーら、嫌なの? この私のキスが? お前は?」
「嫌です」

 イジュは言い切った。
 だが、イジュの予想を反して王女はとても楽しそうだ。

「ふぅん、じゃあ何がどう嫌なのか説明して御覧なさい。キスは嫌い?」
「……用がないなら、もう帰ってくれません? 私は寝たいんです」
「お前、孤児のわりには言葉がきれいね。どうして?」

 イジュは目を瞬かせた。
 それはイジュにすると初耳だったので、え、そうなんですか、と思わず聞き返してしまい、結果として王女に会話を続ける口実を与えてしまった。

「そうよ。『私』だなんて、普通家柄のよい子供しか使わないわ。あなた、もしかして亡国の王子さまか何かなのかしら? それとも貴族のご落胤? 事件に巻き込まれて記憶を失い、城下をさまよい歩いていたのだとか」
「あいにくと。生まれてこの方記憶に欠落が生じた覚えはありませんけど」
「あら、残念。物語みたいな素適なロマンスが始まるかと期待してみたのに」

 本気なのか冗談なのかわからない口調で言って、王女は断りもなくイジュの膝の上に乗ってきた。

「でも、この髪や眸の色にしてもそう。この国ではあんまり見かけない色だわ」
「――どうせ変な色ですから」
「そう? きれいじゃない。私は好きよ」

 その言葉はごく自然に王女の口から出たようだった。お世辞や下手な慰めではない、本当に思ったからそう言っただけというような。だけど、そうすると、反対に返答に窮してしまう。イジュはわざとらしく難しい表情を作ってそっぽを向いた。

「へんな……色、なんです」
「ねぇ、お前、もしかして誰かに変な色とでも言われたの?」
「そ、そんなことありませんよ。べ、べ別に」
「嘘つかないで。言われたんでしょ。それで気にしていた。器の小さい男ね」
「気になんかしてません」
「してる。その顔はしてるわ」
「してない」
「してるわ、賭けてもいい。してるほうにリシュルテ金貨十」
「それなら、私はしてないほうに二十枚賭けますね!」

 などとむきになって宣言してしまってから、イジュははたと我に返る。
 王女のペースに乗せられ始めている自分に気付き、ますます機嫌が悪くなった。

「……あなたは」
「ルノ=コークランよ」
「ルノさまは」
「何?」
「何故、私のような者に構うんですか」
「『ような』ねぇ? そういう言い方は聞いていて楽しくないわね」
「別に卑下してるってわけじゃないですよ。念のため」
「ふぅん。じゃあ何? 私に構わないで欲しい?」
「構わないで欲しい」

 イジュが深々とうなずくと、ルノは蒼の眸を瞬かせた。
 それまであった笑みが嘘みたいに消える。
 
「ふーん」

 至近距離で見つめ合う。
 くるくるとよく動く表情が消えると、作り物めいた精緻な造作だけが残って、王女が何を考えているのか読み取りづらくなる。ルノは少しの間、眸に剣呑そうな色を湛えてイジュを見つめていたが、やがてにっこり愛らしく笑い、「――嫌よ」と言った。

「嫌。私はお前を気に入ってしまったの。だから、たくさん構いたくなってしまうし、キスだっていっぱいしたくなる。残念だけど、早く観念することね」

 ひどく高慢な台詞を可愛らしい声で言い放ち、ルノはベッドから降り立った。その動きは王女というよりは気ままな猫か何かのようだ。

「じゃあね。おやすみイジュ」

 爪先立ちをしてイジュの頬にキスを落とし、王女はひらりとネグリジェを翻した。蒼い月光を浴びる小柄な人影はやはり猫のようにしなやかで――、イジュはこの王女が王族の中でも特に変わり種らしい、という結論に早くも落ち着いた。


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