報せを聞いたユグド王、イライアに連れられ、イジュは月白宮に駆け戻ってきた。見れば、庭にあるひときわ高いセコの樹に小さな白い塊がへばりついているのがわかる。白く見えるそれが風に翻っている生成りのワンピースであり、ルノであることに気付くのに時間はかからなかった。すでに芝生の下にはベッドがいくつも積み重ねられ、リラをはじめとした女官やヒヒたちがはらはらと成り行きを見守っている。イライアの話によれば、たまりかねたヒヒが助けに登ろうとしたところ、父上が帰ってくるまでは降りないのだから!と叫んだそうである。 「おーいルノ! この馬鹿姫! 皆が困ってるだろう、お転婆もいい加減にして降りて来い!」 「ち、父上? 父上!?」 ユグド王が自分の背丈の三倍近くはある樹のてっぺんに向けて声を張り上げると、太い枝にまたがっていた少女が微かに身じろぎした。小さな腕には大事そうに何かが抱えられているようだったが、それが何であるかまではわからず、またルノ姫自身の表情もよく見えなかった。それでも、ルノの芯の通った声ははっきりと、 「いやです父上!」 と叫ぶ。 「馬鹿が! 『嫌』? ルノ! そんなわがまま言ってると、おしりぺんぺんの刑だぞ!」 「い、いやです! おしりぺんぺんなど怖くはありません! 私をいくつだと思っているんですか父上!」 「五歳だ!」 「ええ、もう乳飲み子じゃないんです! ぺんぺんが怖かったのは三歳のルノです、馬鹿父上!」 「馬鹿だと!?」 「ええ馬鹿ですとも! 母上がご病気なのに、お見舞いにもいらっしゃらない馬鹿父上です!」 「その件なら、さっき礼拝堂でシュロに謝ってきたぞ! シュロは馬鹿じゃないですか、と相変わらずの冷たさで俺の頭を一発殴って許してくれた!」 「母上の魂が許しても私が許しません! 父上なんか父上なんかルノはダイキライなんですから!!」 ルノとユグド王は樹上と樹下で苛烈な舌戦を繰り広げている。王女の小さな身体が声を張り上げた反動でいつ風に吹き飛ばされてしまうだろうかと、集った使用人たちははらはらと固唾を呑んで見守った。王と娘はしばらく使用人たちの目の前で、もはやただのなじりあいと化した親子喧嘩を披露していたが、そのうち馬鹿父上、馬鹿娘、と言い合うのにも疲れたのだろう。ルノは乱れてきた息を一度深く吐いて、また吸った。 「父上、聞いてください! 父上が聞いてくださったら、ルノは下に降りますから。聞いてください父上。見て、これ、鴉の作った巣です。この中に、リラのなくしたルビーと、シエンのなくしたアメジスト、アルトのなくしたエメラレルドがあります。鴉が集めていたのです父上! リラが窓が開いていたと言っていたでしょう? 泥棒は鴉だったのです。だから、その者は、イジュは泥棒ではありません! いいですか、父上。私の言葉がわかったら、今すぐ私のイジュを自由にしてあげてください! あの子はひとりぼっちで心細い思いをしているの!」 果たして、『ひとりぼっちで心細い思いをしている』はずのイジュは呆然とルノの言葉を聞いていた。 ――これだけは覚えていて。お前を忘れていたわけじゃないわ。 お前を忘れていたわけじゃないの。イジュ。 いつかのルノの声が蘇った。 そのとき、強い突風があたりを駆け抜ける。ルノの小さな身体が吹き飛ばされそうになって、女官たちが悲鳴を上げた。 「わかった! その件なら、問題ない。イジュならさっき疑いも晴れたところだ。わかったら、降りてきなさい。そーっとそーっとな」 スゥラ王はそーっとそーっとという部分を強調してルノに言う。 だが、セコの太い幹にしがみついたままルノは動かない。 「ルノ!」 ユグド王が再度呼びかけるが、やはり無反応だ。 「おいいい加減にしろル――」 「王」 ユグド王のそばに片膝をついたのはカメリオだった。非常に申し訳ないのですが、とカメリオは国の重大機密を話すように、ユグド王の耳にひそやかに耳打ちをする。 「何、ルノが先ごろから高所が苦手だと!」 「しー! しー! 王! ルノさまには内緒って言われていたんですから!」 カメリオは慌てて唇に人差し指をあて、王を諌める。 慌てたのはそこに集った王をはじめとした月白宮の面々だ。 「ルノ」 「ルノ姫、動いてはなりませんよ。今迎えに行きますからな」 「ルノ姫!」 「幹にしっかりつかまっているのですよ、姫さま!」 「う、ううううるさいわ!」 ルノの小さな声が一喝する。 「これくらいひ、ひとりで降りられるんだから。カメリオ、みんなを追い払って。父上もよ! わ、わたし、みんながいなくなったら、ひとりで降りるんだから。本当よ。わたしはひとりでへいきなんだから」 ルノが少し身じろぎをするたび、おお……とどよめきが走り、一同はたじたじとなってルノの姿を仰ぎ見る。ルノはひとりで降りるんだから、へいきなんだから、と駄々っ子みたいに繰り返して樹にしがみついている。 「――ルノさま」 イジュはだから、前に踏み出した。 積まれていたベッドの上によじのぼると、空に向けて両腕を広げる。 「そこから飛び降りて。受け止めますから。今度は絶対、私があなたを受け止めますから」 白い太陽。日の光が眩しかった。 そのせいでルノの顔はよく見えない。姫はこちらを見たのだろうか。どんな顔をしたのだろうか。長い沈黙のあと、小さな身体が意を決したように枝を蹴った。サファイアとルビーとエメラルドと一緒に落ちてくる白い姫君を、イジュは翠の眸を細めながら受け止めた。 再度どよめきが走る。今度は歓声のどよめきだ。 腕の中にすっぽりおさまった少女のほうに視線を落とす。無傷のようだったが、ルノはしばらくイジュの胸に顔を押し付けたまま動かなかった。 「……ルノさま?」 「おーいルノ?」 ユグド王がかがんで肩に触れるにいたって、ルノは顔を上げた。その眸にやっぱり涙の気配はない。蒼の眸に浮かぶのはいつだって鮮烈な、ひとをまっすぐに射抜く眼差し。 「なんですか父上!」 「うん。遅くなって悪かった。誕生日とクリスマスプレゼントだ。シュロとふたりで夏から用意したやつだぞ」 ユグド王は懐からさっきの蒼いカメオの宝石箱を差し出した。側面につけられた突起のようなものをきりきりと巻く。すると、ぎこちない、だけど小さな鐘を叩いて紡ぎ出されるような美しい旋律が流れ出した。曲は、聖夜のミサでよく使われる宗教曲。『クリスマス賛歌』。 「オルゴールという。クレンツェの港町で見つけた音楽が流れる宝石箱だ。お前は音楽が好きだから、これはいいな、とシュロと言ってたんだ」 ルノはしばらく呆気に取られた風に『オルゴール』と呼ばれる宝石箱を見つめていたが、やがてそれをそぅっと大事そうに胸に引き寄せると、俯いて目を伏せ、「……三ヶ月遅れですか父上」と可愛げのないことを言い、周りを苦笑させた。 パチン。 パチン。 ひとつ茨の描かれた銀製の蓋を開いてはまた閉じる。男の癖のようなものだ。 パチン。パチン。パチ。 「――もう行くのか」 「ええ」 声はカーテンの向こうから返った。 月明かりの部屋に明かりはなく、男の長い影だけが絨毯に伸びている。 「あなたの愛する小さな姫君のご尊顔も拝せましたし、『彼』に会うことも叶いましたからね。心残りはなんにもない」 「次はいつ戻ってくる?」 「どうかなぁ。ワタシはいつだって風の吹くまま気の向くまま。だけど、そうだね。あなたが言うんなら約束するよ、千年祭までには必ず戻ってくる」 「千年祭」 「そう。ユグド暦千年の聖夜には」 「クロエ」 「言ったでしょう、王さま。その名はもう俺のものじゃあない。キェロ=ツェラ。それだって次に会う頃には変わってると思うけれど」 「お前はいつだってクロエだ。次に会うときも、その次に会うときも、クロエだ」 苛々と苦虫を噛み潰したかのような表情で言う。 俺が決めたのだからお前はクロエなんだと。 乳飲み子の頃から知っている友人は少し笑ったようだった。 「……おやすみ、王さま。そして、きみの最愛の伴侶にして我が友に冥福を」 パチン。 懐中時計の蓋が閉じられる。 瞼を押し上げる。部屋にすでに男の影はなく、ただ、まだ摘み取られたばかりの瑞々しい白薔薇が一輪忘れられたかのように机に置かれているだけだった。 たくさん迷惑をかけたお詫びに、とイジュはユグド王から宝石箱の鍵をもらった。宝石箱はルノの寝室だった。イジュはイライアから持たされたホットミルクを大事に抱えて、寝室の鍵を開けた。 さぁっと目の前に差し込んだのは蒼い月光だった。部屋に灯りはない。だからこそ、窓辺から差し込む月の光が鮮烈に目に映ったのだろう。 「ルノさま、いますか?」 あたりを見回しても王女の姿がなかったので、イジュはひとまず扉を閉め、サイドボードにミルクを置いた。注意深く息遣いをたどると、月の光に照らされたベッドの天蓋に小さな人影があった。イジュは足音をひそめてベッドのほうに歩いていくと、羽化したての蝶の翅を思わせる天蓋を少しだけめくった。 「ルノさま、」 「――見ないで」 声をかける前にぴしゃりと遮られる。 その声は少しくぐもっている。ルノはベッドの枕に顔を押し付け、小さく丸まった状態でいた。その手には昼にユグド王から贈られたオルゴールが大切そうに抱き締められており、細い肩は小刻みに震えていた。蒼い月光に照らされた少女の肌は透け入るように白く、昼間の印象が嘘みたいに、小さく、頼りなく見えるのだった。イジュがおそるおそる肩に触れようとすると、ぺんと手ではたき返された。でていって、とルノは枕に顔を押し付けたまま言った。イジュはだから、いやです、と答えた。 「お前は、わたしの言うことが聞けないの?」 「きけません。ききたくないことは、ききません。今までも、これからも」 イジュは決然と言って、姫君の小さい身体を持ち上げて、自分の胸に押し付けた。壊さないように、大事に大事に抱き締める。ちいさくて、意地っ張りの、わたしの姫君。 「泣かないで。泣かないでください、私の姫君。あなたのお母上は樹上からあなたを見守っているし、私はここでずっとおそばにいますから」 それはたぶん宣誓の言葉に似ていた。 イェン・ラー。すべては神の御心のままに。 ジェイス・ラー。すべては我が心のままに。 選択を、する。もしも運命というものがあるなら、それを捨てて、わたしはあなたを選ぶ。 蒼い満月が綺麗な夜だった。 |