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Episode-3,「花罌粟とハリネズミ」


01



 約四年前の話をしよう。
 シャンドラ地方から意気揚々と、大きな旅行鞄を愛人兼女中メイドに運ばせて上京したシャルロ=カラマイの前に現れたのは、黒髪に金の眸の青年だった。

「シャルロ=カラマイ? というと、もしやカラマイ伯爵の?」

 巡礼街道を外れたくたびれ酒場の喧騒を背にして、男が尋ねる。
 シャルロ=カラマイはほんの一時、相席になったこの旅人風の青年を検分してから、結局考えるのも面倒になってうなずいた。

「そうだよ。あーかしこまんなくていいぞ。こんなところまで来て堅苦しい礼されてたまるかっての。お前は?」
「キェロ=ツェラ、と申します」
「キェロ=ツェラ?」

 とは、今飲んでいる酒の名前である。珍妙な名前もあるもんだと首をかしげたシャルロ=カラマイをよそに、青年はくすりと微笑ってブリキのコップのふちに口をつけた。伏せがちの眸の奥に煌いた悪戯めいた光に気付いて、ははんとシャルロ=カラマイは得心してみせる。

「偽名っつうわけか」

 質の悪い蝋燭に照らされた白い喉がこくりと動く。度数の高い酒を顔色ひとつ変えずに煽ると、キェロ=ツェラはふっと鼻で笑った。

「こんな酒場じゃ、考えるだけ野暮ってモンですよ。名など、酒瓶に貼り付けたラベルほどの価値もない」

 おもむろに長い指先がシャルロ=カラマイと彼との間に置かれた緑の酒瓶のラベルにかかる。色とりどりのポピーの描かれたラベルの下には、ずる賢そうに笑うハリネズミの絵が。軽く眉を上げたシャルロ=カラマイに「ね?」と微笑むと、キェロ=ツェラは酒瓶を傾け、シャルロ=カラマイのブリキのコップに酒を注いだ。

「カラマイ殿は? シャンドラ地方からいったいどんな用事でわざわざこの王都まで?」
「来春から教会付属の神学校へ入学せにゃならなくてな。明日はその試験だ。どうせ受かりゃあしない。俺の頭じゃだめだと言っているのに、バカの親父が聞かんのだ。万が一受かったって、あんな酒もねぇ女もねぇ場所で四年、やってられるかって。地獄だよ」
「ほーう」
「だから、俺は決めた。明日の朝、ここを発ってアマンダとクレンツェへ逃げてやる。ああ、アマンダってのは俺のオンナで」

 シャルロ=カラマイが肩にしだれかかるブロンドの美女を顎で示すと、キェロ=ツェラはほうと金色の眸を眇めた。その眸に、豊満な美女を称賛する色合いはない。形ばかりの笑みが消えると、男はひどい無表情になって、それはどちらかといえば、城のコックが晩餐ディナーで使う鶏を選別しているときのような無機的な目の色だった。首筋のあたりがぞっとする。沈黙を破ったのは、薄暗い視界に灯った葉巻の先端が微かに焦げる音だった。

「シャルロ=カラマイ殿。ものは相談ですけど」

 まだ少年を抜け出たばかりの年頃の男が慣れた手つきで葉巻を口にくわえる姿はどこか滑稽であり、しかしながらそのアンバランスさが彼にはひどくそぐっているようにも見えた。なんだ、と乾いた唇を舐めて、尋ねる。ふふっとキェロ=ツェラは煙の奥で妖艶に笑った。

「あなたの捨てるその四年を、ワタクシにくださいませんか」

 は、と息を呑む。
 怪訝な顔になって、シャルロ=カラマイはキェロ=ツェラを見た。

「なんだ、酔ってんのかお前」
「まさか。こちらは大真面目に取引を持ちかけているのですよカラマイ殿」
 
 キェロ=ツェラは到底真面目とは言えない顔で、テーブルに置いてあったチップ用の銅貨をくるくると指で回した。彼が指で弾くと、銅貨は銀貨に変わり、さらに弾くと今度は金貨に。目を丸くしたシャルロ=カラマイににっこり笑いかけ、キェロ=ツェラは金貨をぐっと握りこんだ。こぶしから一枚、……二枚、三枚、四枚、金貨がテーブルに落ちる。ぜんぶで十枚。

「まずは十枚。これはクレンツェへの渡航資金。どうです、約四年。あなたはクレンツェで美女アマンダと自由な時を過ごす。代わりにワタシはあなたとして大学に通う。王都にあなたの顔を知る者はいないからそこは問題ありませんし、金ならすべてワタシが用意致します」
「いかさまやろうってんじゃねぇ。俺の馬鹿な頭だってわかる。そんなうまい話あるわけねぇだろ」
「それならこうしましょう。もしもワタシの送金が途絶えたら、あなたはすぐにシャンドラのお父上に手紙を書けばよろしい。王都に通うシャルロ=カラマイは偽者だ、俺は騙されたってね。さすれば、怒られやしませんよ。どうです、あなたにとっては人生最後の余暇。ワタシにとってもこの四年はそれなりに価値がある。これはワタシとあなたの内緒の余興ゲームなんです」

 馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすことならできた。
 しかし、金の眸は蝋燭の照り返しを受けると気味が悪いほどに妖艶に輝き、覗く者の心の奥底を戯れのように撫ぜるのだ。まるで悪魔のようだと思った。キェロ=ツェラとはそういえば、別名度数の高さから『悪魔』と呼ばれる酒である。




「なんだ。思いのほかちょろかったなぁ」

 シャルロ=カラマイと別れたキェロ=ツェラは長い旅で幾分くたびれたローブをはためかせながら路地を歩く。夜明け近くまで飲んだくれたために、空はすでに朝の淡い色に変わり始めていた。巡礼街道沿いの店の雨戸が開き始め、霧がかった路地裏に捨てられたゴミを起き出した鴉があさる。彼が前を歩くと、鴉たちはまるで威嚇でもするかのようにうるさく鳴きたてる。足をつっついてくる鴉たちをうるさそうに追い払い、彼は食堂の裏に置かれたジャガイモの木箱に腰をかけた。数少ない荷物から取り出した葉巻に指鳴りひとつで火をつけ、朝の空に向けてうまそうに吸う。

「のん気なもんだな。このいかさま師」

 と、足元で豆を啄ばんでいた一羽の鴉が口を利いた。
 その首に銀の指輪がかかっているのに気付いて、おや、と彼はわざとらしく目を瞬かせる。

「誰だろ。俺、喋る鴉に知り合いはいないけどなぁ」
「白々しい」

 否や、鴉の羽根が舞って、ひとりの妙齢の女性が現れる。鴉の羽根を思わせる黒いローブ。肌は透き通るように白いが、眸も、髪の色も、ローブと同じで深い闇のように黒い。薬指には鴉が首にしていたのと同じ、銀の指輪がはまっていた。

「オテル術師」
「お久しゅう、この放浪師匠。五十六時間ぶりだな。再会ついでに聞かせてくれないか、何故貴様は行く先々でいなくなる」
「怒んないでよ。だから、ここできちんと『待って』あげてたじゃない」
「葉巻を吸っていただけだろ」
「葉巻を吸いながら待ってたんだ。第一きみね、きみの下の世話までやった『お師匠さま』にいかさま師ってのはないんじゃない。もっと尊びたまえよ」

 キェロ=ツェラは金の眸を細めて猫のように笑い、はいよとチーズの欠片を差し出した。豆だけじゃおなかがすくと思ってね、と嫌味を添えることも忘れない。案の定、オテル術師は非常に気分を害した様子で、受け取ったチーズに荒々しく歯を立てた。

「それで? 収穫はあったのか」
「まぁね。運命の小鳥は今んとこ、俺にひどく寛容らしい。ほーら」

 キェロ=ツェラの掲げた手の中には鉛の印璽が収まっている。カラマツの文様。カラマイ家の紋章だ。重要な書類に蝋に印璽を押して封をするのはこのユグド王国含め西大陸のきまりごとであって、印璽なしでは銀行から金貨銀貨を引き下ろすこともできない。命の次に大切なものだと言える。

「名前は?」
「シャルロ=カラマイ。カラマイ伯爵の次男だ」
「まぁ妥当だな。顔もあまり知られていない。それ、よく盗めたな」
「人聞きの悪いことを。俺はね、よくいかさまやるけど、盗人じゃないよオテル術師。代わりにさっき、酔いつぶれた彼を介抱するかたわら、ちょろりと『触らせて』いただきましたが」
「どっちにしろいかさま野郎なのは変わりないがな」

 ぴかぴかの鉛の印璽をちらりと見やったオテル術師は「これじゃ新品過ぎる」と細かいことを言って、ふぅっと息を吹きかけた。すると見る間に鉛がさび付いた、年季を帯びたものへと変わる。

「きみっていうのはいちいち細かい子だね」
「貴様がおおざっぱ過ぎなんだ。人間っていうのはこういう細かいもんに目を凝らすのに生涯捧げて生きてる輩ばっかりなんだから。明日の試験も、人並み程度のミスをするのを忘れるなよ」
「Aye, Mom」

 冗談めかして敬礼のポーズを取ると、キェロ=ツェラは葉巻を石壁に押し付け、立ち上がった。

「と、そうそう。髪の色くらいは、合わせておきませんとね」
 
 シャルロ=カラマイのこの国では珍しいほうの金髪を思い出し、キェロ=ツェラは言った。ポケットから取り出した懐中時計の蓋に指を置いて、何がしかを短く唱える。ひゅ、と指先に淡い光が灯る。彼の指が髪をつまむと、見る間に鴉の羽根のようだった黒髪が金色に染まっていった。

「これでよし、と」

 キェロ=ツェラが手を払うと、光の粒がはらはら散って、そばで豆をついばんでいた鴉の頭を金色に変えた。その鴉はしばらくしてから食堂の娘に見つけられ、天使の輪を持った鴉として日がな豆一袋を捧げられるに至る。ちなみにその頃、王立教会付属大学の試験結果の発表があり、シャルロ=カラマイは次席にて合格を決めた。首位を取るつもりであったのに叶わなかったのは、彼が歴史の問題で、はなはだ問題ありと司祭の顔をしかめさせる論を展開したこと、いまひとり、恐ろしく学力の高い生徒がいたことに起因する。


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