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02




「――マイ……シャルロ=カラマイ!!」

 突如頭上から落ちてきた、まさしく雷鳴がごとき怒声に、王立教会付属大学四回生シャルロ=カラマイの安穏たる眠りは破られた。寝惚けまなこの視界に映ったのは、見慣れた切れ長の眸の青年。

「なんだ、キミか」

 青年の姿を認めたシャルロ=カラマイはふわぁとあくびをして、またずるずると机の上に置いた腕の上に頭を突っ伏す。その頭に問答無用で三冊重ねの辞書の鉄拳が落ちた。

「起・き・ろ。寝るな、と言っているんだ私は」

 この調子だと起きない限りどんどんと辞書を頭の上に積み上げられそうだ。
 シャルロ=カラマイは早々に「ギブギブ」と手を上げて、今度こそ顔を上げた。今年二十二になるわりに、未だ少年らしい声の細さが消えないその青年は名をユゥリートという。落ちこぼれ学生シャルロ=カラマイの数少ない、もといたったひとりの友である。本人は断じて友人などではないといきがっているが、こうしてたびたび現れては小言・説教を浴びせているあたり、少なくとも学友としては認めているのだろう。
 ところどころ錆びた金の格子窓からはすでに赤い西日が射している。腰にぶらさげた懐中時計をたぐり寄せ、そこに描かれた時間を読み取ると、シャルロ=カラマイははーと大げさにため息をついた。

「もうこんな時間じゃあないですか。まったくなんで起こしてくれなかったのリー君。俺が神学は嫌いだけど天文学は大好きなの知ってるよね」
「知るか。そんな授業を選り好みする奴。神学生なら第一に神学を学べ」
 
 突っぱねるユゥリートは付き合いの長さか手馴れている。起こすだけ起こしてしまうと辞書とノートとを腕に抱えて梯子を伝い、さっさと階下に降りていった。

 この教会付属書庫、通称『天楼図書館』にある、中二階のような一室がシャルロ=カラマイのお気に入りの場所であることは、そこに入り浸る誰もが知っている。何故なら、春夏秋冬いつ訪れてみたって、そこの閲覧用の古机には金色の頭が突っ伏しているか、あるいはごくごく稀に起きていることがあるにしても、金の眸は本ではなく窓のほうへと向けられており、青年はのんびり頬杖をつきながら机に立てかけたスケッチブックに炭棒を走らせているからだった。図書館で彼がまっとうに読書にふけっているのを見た者はいない。

「待ってってばリー首席。キミ足速いよ」

 手早く荷物をまとめて梯子を三段飛ばしに滑り降りると、シャルロ=カラマイはすでに図書館を出ようとしているユゥリートを追う。

「どこ行くの?」
「ペンネさんのとこ。クレンツェ便が三日後に来るだろ。手紙を一通出さなくちゃいけない」
「ふぅん、じゃあ俺も行こうかな。ぼちぼち故郷のお父上からお金が届いている頃だと思いますから」
「伯爵の息子ってのはほんといい身分だよな」
「あはは、ごめんあそばせー? 残念ながら生まれ持ったものは取替えっこできないんだ。いかさましない限りはね」

 黒ローブを着込んだ肩をすくめて、シャルロ=カラマイは微笑んだ。西日の射す吹き抜けの回廊を歩く。高いアーチ型の天井は石造りのこともあって、革靴をぺたぺた鳴らす音すらよく響いた。ちょうど対面から両手に本と書字版とを抱えた青年がやってきたが、こちらに気付くや道を譲って軽く会釈をした。シャルロ=カラマイのほうは別段気にした風でもなく猫目色の眸をほんのり眇める。
 この教会付属大学に通う学生というのは、だいたい三つの種類に分かれる。
 一に、コークラン家ウル王子に代表される王族、名家の貴族の子息たち。これはいわば次期王・領主候補と言える子供たち青年たちであり、この地へは単純に教養と人脈とを求めてやってくる。神学科に入っても将来神職に就くことはほとんどない。次に、シャルロ=カラマイのような貴族の次男三男四男坊。こちらはどちらかというと、厄介払いに近い。故郷にいてもすることがないから王都に送られた連中で、頭がよければ神学過程を進んで、ゆくゆくは神職に就くこともあるが、反対に頭の出来がよろしくないと都市のアンダーグラウンドに入り浸り、鴉片アヘンか酒の中毒者になって終わりだ。そして三に、ユゥリートのようなごくごく一部の例外たち。その才覚を買われて大学独自の試験を突破し、学校に入学した者たちだ。この層は貴族ではない。商人か、たいていは田舎の豪農身分がいいところ。そのぶん向学心はひときわ旺盛にあるといって差し支えないだろう。何せ勉強次第でその後の自分の道が開けるのだ。――この三種の人種が混ざり合っているのが教会付属大学というところであり、当然だが、一がふんぞりかえり、二がそれにこびへつらい、三が虐げられているという力構造になっている。シャルロ=カラマイみたいのは例外というかただの変わり者だ。

「ペンネ。いる?」

 学生たちが寝食を共にする寮は大学に隣接した形である。長い渡り廊下を歩いて寮に戻ってくると、シャルロ=カラマイは一階にある寮母の私室をノックした。まもなくぱたぱたと軽い足音ともにドアが開かれ、気立ての優しそうな女性が顔を出す。そのハニーフェイスゆえ、蜂蜜ペンネと呼ばれる寮母である。

「あら、おかえり、シャルロ=カラマイ。今日はずいぶんと早いのね」
「俺だって部屋のベッドでカモミールを飲みながら読書にふけりたい夜はありますよマザー。それでさ、配達屋のロビンはもう来た? 俺に届いているモンない?」
「ああ来てるわよ。お父上から、いつもの」

 蜂蜜ペンネは蕩ける蜜のごとく微笑み、エプロンで手を拭くと、鍵つきの抽斗の中から白い封筒を一通取り出した。カラマイ伯爵は為替を使うので、封筒自体は薄っぺらい。

「はいシャルロ。お父上に感謝の手紙を忘れずにね」
「それならもう書きましたよ、マザー。これ、家のほうに送っておいてくれる? はい切手代も」

 シャルロ=カラマイが懐から銅貨一枚と封筒とを取り出すと、蜂蜜ペンネはきょとんと栗色の大きな眸を瞬かせた。それをすぐに苦笑に変える。

「相変わらず抜け目ないわね。オッケー。お父上にはきっかり三日後の夕方に送っておきます。あなたが神に感謝をし、机の前でお父上への言葉に悩んだ日数ぶんを考慮してね」

 ――というのは、実に蜂蜜ペンネらしい気遣いだった。
 ペンネが戸棚の奥から、無花果イチジクパイを持ってきたので、ユゥリートはきちんと椅子に座り、シャルロ=カラマイは机端に軽く腰掛けながらパイをつまむ。ユゥリートのお行儀を見習えないものかしらね、とため息をつきつつ、温かい紅茶を淹れてくれるペンネは聖母もかくや、といった風で、この大学の気難しい学生たちから一心に慕われているのもうなずけるというものだ。

「そういえばシャルロにユゥリート。あなたたち、この近辺に知り合いの子供はいないかしら」
「知り合い、ですか?」

 無花果パイを飲み込んだユゥリートが律儀に聞き返す。

「そう。年頃は十から十五。よく気の付く子だといいのだけど……ほら、私今、おなかに子供が入っているでしょう。最近だるいことが多くって、私のお手伝いをしてくれる子が欲しいのよ」

 なるほどねぇ、とシャルロはペンネの膨らんだおなかへ目を向けながら無花果ジャムのついた指を舐めた。

「ユゥリート、どう? キミの知り合いにそういうのいる?」
「ペンネさんには悪いが、心当たりはないな」
「そっかぁ。俺も。ごめんねペンネ。なんなら、チラシ作るの手伝おうか。外に貼っておけば、街の子が来るかもよ」
「そうしてくれると嬉しいわ、シャルロ=カラマイ」

 うなずくペンネにはやはり少し疲れの色が見える。
 シャルロ=カラマイは苦笑し、「身体は大事にしてよ、マザー」と告げて、机端から降り立った。ユゥリートもちょうど無花果パイを食べ終えたところだったらしく、次いで席を立つ。ペンネは気立てのよい寮母だが、どうにもお喋りの長いところがある。それを薄情なふたりは知っていたのだった。

「あ、そうだペンネ」

 丸いノブに手をかけたところでシャルロ=カラマイは別のことを思い出し、ローブの内ポケットから分厚い封筒を一通取り出した。

「これ、一緒に出しておいてくれるかな。銅貨が足りなかったら、またあとで言って」
「オッケー。だけどこれ、何? 最近あなた、妙に手紙が多いじゃない」
「そうかな」
「そうよ」

 ペンネの好奇心を滲ませた栗色の眸が煌く。シャルロ=カラマイはばつが悪そうに視線をそらして、頬をかいた。

「……あんまり追求しないでくれないかなぁ。二十二の男が分厚い手紙の束を頻繁に送る相手なんてこの世にひとりしかいないじゃない?」
「つまり」
「そーゆーコト」

 打ち明けると、ペンネの疲れの滲んでいたはずの頬がみるみる薔薇色に染まっていった。

「まぁ! まぁまぁまぁ! やだ、あなたにもそんな子がいたのね、シャルロ=カラマイ? なんて素敵なの!」

 蜂蜜ペンネの栗色の眸がことさらに輝いたので、シャルロ=カラマイはユゥリートに助けを求める視線を送った。しかしユゥリートは肩をすくめるだけでさっさと外に出て行ってしまう。蜂蜜ペンネの異端審問さながらの尋問にあったシャルロ=カラマイはひとまず相手が蒼眸の美人であることを明かした。





「――で? 本物のシャルロ=カラマイのほうはどうしてるんだ?」
「ちょっとー。その本物って言い方やめてよ。まるで俺が偽者みたいじゃないの」
「だって偽者だろう」

 ユゥリートが真顔で言うので、可愛くないなぁとシャルロ=カラマイは舌打ちして安物の葡萄酒ワインに蜜を垂らす。ペンネの私室をあとにしたふたりは夜の街へと繰り出し、今二軒目の酒場のカウンターにいた。王都の裏通りの酒場には葡萄酒の他にもラムや麦酒エール、東洋から入ってきた白酒パイチュウなどなんでも集るけれど、この蜜をほんのり垂らした葡萄酒がシャルロ=カラマイは昔から好物だった。以前、さる吟遊詩人のパン屋に入り浸っていたときもそればかりを飲んでいて、主人に叱られたものだ。

「そういやあのひとこっちに帰ってきたんだっけな」
「……なんだ?」
「イエ、こっちの話」

 シャルロ=カラマイはくすりと微笑い、ブリキのコップをテーブルに置いた。
 カッターで切り落とした葉巻にぱちんと指を鳴らして火をつける。――今、葡萄酒三杯を涼しい顔で飲み、葉巻をふかしているこの男を由緒あるユグド王立教会の神学生であると考えるひとはまずいないであろう。馬鹿真面目なユゥリートは少しばかり不快げに目を細めたが、注意まではせずに自分の前に置かれたキャロットジュースを飲み干した。

「そういや、ペンネさんじゃないけど、うちの先生たちも近頃やけに忙しそうじゃないか?」
「もうすぐ入学試験があるからでしょ。キミが全教科満点をあげたやつ」
「ああ」

 ユゥリートが何ということもない風に相槌を打つと、「きみのそういう態度ってすごい嫌味」とシャルロ=カラマイは呟く。

「今はね、地方から受験生たちが多く集ってるんだよ。だから、ほら、このへんの酒場もやけにひとが多い。彼らをつかんで離さない甘い蜜みたいな誘惑もね」

 シャルロ=カラマイは長い指に挟んだ葉巻を店の奥のほうに向ける。そうしてよくよく目を凝らせば、額をつき合わせるようにして集まった数人の男が煙管のようなものをランプの火にかざして煙をくゆらせている。どの眸もとろんとして焦点が合っていないようだった。煙草や酒のにおいに混じって微かに漂ってきた甘ったるい香りに気付き、ユゥリートは顔をしかめる。

「匂うな」
鴉片アヘン?」

 ふぅと煙を吐き出すのと一緒にシャルロ=カラマイが短く問う。
 ユゥリートはうなずいた。

「確か国の法律では禁止されていただろう。なんでこのあたりの安い店でも出回っているのか謎だ」

 鴉片はクレンツェのほうから半世紀ほど前にユグド王国に流入してきた『夢』を見せる――幻覚作用のある植物である。だいたいは粉状になっており、煙管を用いてくゆらせる。純度の高いものほど値も張るが、見られる夢も格別なのだとか。シャルロ=カラマイにしてみれば、それはほとんど子供騙しの『幻』でしかなかったが、昨今のユグド王国ではこれが都市のアンダーグラウンドでおおはやりしていた。鴉片には中毒性があって、甘美な夢を与えるかたわら、ひとの身体を内側から破壊し、病ませる。現国王スゥラ=コークランの度重なる禁令や、国境・王都の街門での厳しい検査にもかかわらず、おさまる気配はあまりない。

「いったいどこから入ってきているのやら……」
「侵入ルート? ご冗談。キミの目ってやっぱり節穴だね」

 シャルロ=カラマイは冷笑し、短くなった葉巻を灰皿に押し付けた。


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