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03




 月白宮の厨房に、クレンツェのリリアン港から上質なハーブが届けられたのはちょうど春を過ぎた初夏の季節であった。コックはさっそく、練り粉の皮にハーブやナツメヤシの実、生姜などを詰め、カスタードをたっぷり使ったプティングを焼いた。上にはラズベリーやクロスグリ、砂糖漬けにした薔薇の花びらをいったものを飾る。そうして出来上がったスイーツと一緒に、従者の淹れたベルガモンの紅茶を飲むのはこの月白宮のぬし、ルノ=コークランの至上の贅沢といってよかった。しかしながら、緑陰うららかなる今日の日に限っていえば、少し勝手が違う。

「……いけません、ルノさま。まだ動いては」
「ひどい。お前、いったいあと何時間私をこんな目にあわせれば気が済むの?」
「あと少し。あと少しで終わりますから」
「終わらせるつもりなんてないくせに」
「だって、ねぇ、ルノさま。まだ痛くはないでしょう?」
「馬鹿者。痛いに決まっているでしょう。痛くて、すごくすごく痛くて、私もう死んでしまうわ。――腕も! 腰もよ!!」

 叫ぶなり、ルノ=コークラン王女、愛称“ルノ姫”は可愛らしく頬杖をついていた手を下ろして、コルセットのきつく締められた孔雀色ピーコック・ブルーのドレスを翻して立ち上がった。この国最高級の仕立て屋によって縫い上げられたローブとペティコートの裾には薔薇の造花がふんだんに縫い付けられ、落ち着いた孔雀色のサテンに少女らしい華やぎを与えている。結い上げられた銀髪にも同様の造花が飾られ、あらわになったうなじの白さがいっそう眩く見えた。

「ルノさま! まだ動いちゃだめですってば!」

 長椅子から立ち上がった少女を駆けつけた青年が引き戻そうと試みる。みずみずしい白百合が生けられた花瓶に、流麗な曲線を描く長椅子。童話の世界さながらに整えられた室内にあるのは、一幅の画布カンバス、そして丸椅子に腰掛けるひとりの女性画家だった。

「いいですわ、従者殿。ちょうど青色もなくなって参りましたし、今日はこれで終わりに致しましょう」

 緩くウェーブのかかった栗毛を揺らして、画家は絵筆を置いた。乳鉢で顔料を砕いていた少年が少しほっとした風に汗の滲んだ額を服の袖で拭く。時計はすでに二時を指している。昼食のあとすぐに始めたのだから、時間としてはちょうどよかったのかもしれない。画家の申し出にイジュは苦笑気味にうなずくと、「姫さま」としげしげと画布カンバスをのぞいている少女を睨んだ。

「あなたさまときたら。立派な淑女レディは何時間だって静かに座っているものですよ」
「あら、残念ね。私は数分だってぼんやり座っているのが嫌いなの。お前の言う“立派な淑女”なら絵の中のルノがやっているみたいだから、それでいいじゃない」

 画布カンバスに描かれた、取り澄ました顔の少女を指差して、ルノはころころと笑う。ふわりと孔雀色ピーコック・ブルーのローブの裾を持ち上げて床に座り込むと、ルノは乳鉢に残った顔料を指ですくった。くん、とにおいを嗅ぐ。

「金属、かしら。これで色を作るの?」
「そうです、姫君。ひとの肌は薄緑ヴェルダッチョの下地にシノピアチナプレーゼを重ねます。重ね方で色が変わる」
「緑に赤に朱! ああ、だからこんなに時間がかかるんだわ。ねぇ、ジスト。あなた、これからうんと勉強して肌色って色を作ってちょうだい。そうしたら絵描きのたびの私のため息はたぶん半分くらいになると思うの」

 顔料を片付けていた少年に至極真面目そうな表情で言って、ルノは「イジュ」と背後に控えていた青年を呼びつけた。

「さ、お茶を入れてちょうだい。砂糖とミルクはたっぷり。それから、ニコが腕によりをかけたプティングを。あと、イライアを呼んで。今すぐによ。これ以上腰を締め付けたら、私、本当に天に召されてしまうわ」





 こぽこぽと琥珀色の紅茶が温められた白磁のカップに注がれる。
 ルノは受け取ったカップを顔に近づけて、ふっと蒼色の眸を和ませた。

「今日の紅茶はいいわね。檸檬の香りがする」
「北方から取り寄せました。矢車菊と檸檬ピールの入った茶葉でしてね、ほら、ルノさま、吟遊詩人のおじいさまに出していただいたときお気に召した風だったでしょう?」

 従者のイジュは相変わらず、そういうところが抜け目ない。
 ルノは微笑み、対面に座る画家を見やった。

「絵のほうはどう? 予定通りに完成しそうかしら?」
「ええ。夏までには必ず。しいていうならば、明日姫君が一時間長く腰掛けていてくださるのなら絶対です」
「それは……なかなかに拷問ね……」

 ほぅ、と憂鬱そうに息をつき、ルノは画布カンバスを振り返った。できあがった絵はルノの十六の誕生日にさる男に贈られることになっている。赤薔薇に純潔の白百合、極めつけは胸元を飾る銀細工のチョーカーの花――勿忘草フォーゲット・ミー・ノット。画家の筆致はすばらしいが、それでも、なんて陳腐な絵なのだとため息をつきたくなる。

「――あら、ジスト。それは何?」

 気を紛らわすべく遠くへやった双眸に、弟子のジストが抱えた鞄からのぞく数枚の紙片が飛び込む。不意打ちであったせいで少し反応を遅らせたジストだったが、すぐに「ああ」とうなずいて、鞄から紙片を取り出した。

風刺画カリカチュアですよ、姫君。最近、市井ではこういうものがたくさん出回っているんです」
「こら、ジスト。それは姫君に見せるものではないでしょう」
「あ」

 と、ジストがしまったという表情をしたときには遅かった。見せてごらんなさい、と数枚の紙片を幼い少年から取り上げて、ルノは好奇心に満ちた眸でじっとそれらを眺め回す。ジストと画家とがはらはらとした顔でそれを見守るが、しかし、果たしてルノは蒼い眸をひとつ瞬かせただけで、「……ふぅん」とあまり興味を惹かれなかった風に顎を引いた。

「可愛い動物たちね。ネズミかしら?」

 あどけないルノの感想に、ジストと画家が同時に小さく息をつく。王女は叡智を湛えた蒼の眸を伏せ、遊ぶように紙を折って、花を作った。



 明日もまた同じ時間に来ることを約束して画家とジストとが帰ってしまうと、イジュは部屋にこもった絵の具の臭いを払うべく窓を開けた。やってきた給仕にテーブルに残された茶器や食器を片付けさせる。テーブルに頬杖をついて、折った花を開いていたルノは給仕が下がるのを見届けると、おもむろに花色の唇を開いた。

「イジュ、今日の予定は?」
「このあとでしたら、まず三時からクレンツェ語の授業が入っております。それから五時の礼拝を挟みまして、晩餐はカメリオがご一緒するとのこと。ルノさまに内々にお話したいことがあるそうですよ」
「カメリオが? 何かしら、改まって」

 ルノはほとりと小鳥のような仕草で首を傾げる。
 イジュも首を振った。

「それがわからないのですよねぇ。聞いたんですが、教えていただけませんでした。それに、ルノさま、聞いてくださいよ。カメリオったら、話をしている間お前は部屋に入ってくるなだなんて言うんですよ? 意味深な。それってもう、ドアに耳つけて聞いてろって言ってるみたいなモンですよね」
「……カメリオが、ねぇ」

 まくし立てるイジュに反して、ルノは思案げにジストの置いていった風刺画に目を落としている。むぅと眉根を寄せ、イジュはルノの視界に顔を出した。

「ルノさま、聞いてます?」
「ううん」

 あまりにもさらっと返されたので、一瞬意味を正確に図りかねたらしい。きょとんと翠の眸を瞬かせたイジュの顔が、やがて悲壮のほうに傾く前に、ルノは「見てイジュ」と紙片を掲げてみせた。

「何に見える?」
「何に、ですか?」

 突き出された紙片をいぶかしげに見やって、イジュはううんと顎に手をあてる。

「馬……いえ、体型からするとロバですかね。金色の玉座で足を組んだロバが涎を流して眠っているように見えます。その前を通り過ぎるのは……ハリネズミ、ですか。頭に花篭を載せ、司教杖を持っている。――ってこれ、何なんですかルノさま」
「さっきジストが言っていたじゃない。風刺画カリカチュアよ」
風刺画カリカチュア

 かつての物を知らないイジュであったのなら、首をかしげたであろうが、今のイジュには知識として思い当たるものがあった。崇高とされる宗教画の真逆、世俗の具現ともいえる風刺画。その言葉のとおり、たいていは世のありようをユーモアを混ぜて、ときに厳しく、辛辣に批判してみせるイラストだ。ここで重要になってくるのは、描き手自身の技術や表現の巧拙ではなく、描かれているものの寓意である。

「つまりロバが現王で、ハリネズミが教会というわけですか」

 玉座と司教杖から考えれば、一目瞭然といえよう。

「イジュ、知ってる? ロバが教典の中でどう扱われているか」
「星詠み師エンの手紙、五章三節十六行、愚か者の王のくだりですかね」
「お前、相変わらずきもちのわるいほどの記憶力ね……」
 
 ルノは一瞬怯んだようだったが、すぐにもとの怒りがぶり返した様子でとん、といつもよりも勢いよくカップをソーサーに置いた。

「つ、ま、り! この絵は父上を、権力の座にあぐらをかいて眠っているだけの愚か者と言っているのよ! ええ、そりゃあ父上は馬鹿で阿呆で鈍感のとんちきですけれどね! それに近頃物忘れもひどいし、約束もすぐに破るし、礼拝では居眠りをするし、食事の席ではぽろぽろとパン屑をこぼすし――」
「ルノさま、庇っているようで一度も庇えてませんよ」
「でも! 父上は、……ちちうえはおろかものなんかじゃないわ……」

 ルノは俯き加減に目を伏せ、唇を噛む。
 その眸にうっすら涙がよぎった気がしたので、イジュはおおいに焦って、自分よりもずっと小さな姫君の前に腰を落として跪いた。ルノさま、とおそるおそる大切な娘に呼びかけ、そのまるい頬へと手を伸ばす――――目の前で、びりびりびりびりと紙がちりぢりに破かれた。床に散ったそれをヒールの踵で三回くらい踏みつけておくと、ルノはすっくと立ち上がり、「イジュ!」と手を伸ばしたまま固まっていた従者を呼びつけた。

「お前それを片付けて、火にくべておきなさい。灰は庭の薔薇の肥やしにでもしてやるといいわ。――それから、お茶の時間と次のクレンツェ語の授業は中止。イライアにはそう伝えておくように。ついてきなさい、出かけるわよ」

 ちゃきちゃきと一方的な命令をすると、ルノは寝台の下から質素な木綿のシフトドレスとブーツとを引っ張り出した。ローブを脱ぎ去って、シュミーズ一枚になってしまうと、結い上げた髪から造花やピンを抜き取っていく。長い時間結われていたせいで少し癖のついた銀髪が少女の華奢な背に滑り落ちた。

「もう、なんて格好してるんですか……」

 細い肩から目をそらし、イジュは脱ぎ捨てられたローブやペティコートを拾っていく。

「あ、そうだわイジュ」

 ルノは幼い頃からパニエやコルセットの大仰なドレスを身にまとうとき以外は自分の手で着替えるし、ついでにいうとびっくりするくらい着替えるのが速い。ブーツの紐を手早く結び終えたルノは、寝台のサイドボードに置いてあった二通の封筒を目で示した。

「帰ってからでいいのだけど、それをイライアに渡しておいてくれる?」
「お手紙、ですね。どなた宛です?」
「ニヴァナ侯爵と、王立教会付属大学宛」
「大学宛?」
「ええ」

 教会付属大学にはルノの実兄であるウル王子が籍を置いていたが、かれこれ十年近く王宮を空けているこの王子へルノが手紙を書くことはほとんどなかった。不思議そうな顔をしたイジュに、ルノは「そうよ、大学よ」とそっけない声で言って、まるでこの世でいちばん嫌いなものを見るかのように封筒を睨みつける。そっと取り上げて裏返すと、ルノの端正な字で、宛名はシャルロ=カラマイとなっていた。


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