初夏の風は爽やかだ。 白い可憐な花の咲くオリーヴの木々の下を王女は軽やかな木綿の裾を翻して歩く。石畳の道。ユグド王立教会へと至る巡礼街道は旅人らしきひとびとで賑わっている。街道沿いに並ぶ物売りの声はかしましく、喧騒を縫うようにして黄色い三角帽子をかぶった笛吹きが歌う。 おうさまがやってきた おうさまがやってきた ぷぅぷぅと可愛い笛の音を鳴らして笛吹きが歌い、子供たちが手を叩いて「おおさまがやってきた」と声を揃える。 おうさまがやってきて わるいイバラのおうさまやっつけた わるいイバラのおうさまやっつけて さかさ十字につりさげた ばんざい ばんざい おうこくは きょうも へいわ 初代ユグド王――樹上の神が遣わしたとされる聖なる王はこの地へ降り立つと、聖音鳥シュロの力を借りて悪しきイバラの王を討ち、ユグド王国を開いた。王国開国千年目である今年は、地方から巡礼にやってくるひとびとがことさらに多い。笛吹きが歌うのはこの話をもとにしたわらべ歌で、ずる賢いハリネズミのお話と同じくらい、王国の子供たちみんなが知っている童話だった。 陽光に照らされてほの白く光る世界樹と、その根元にそびえる教会の尖塔とをしばらく見つめていたイジュであったが、すぐ前を歩いていたはずの淑女の姿が消えているのに気付くと、新緑にも似た翠の眸をはたはたと瞬かせた。やがてその双眸が橋の欄干の上で優美に揺れるレースの縁取りを見つける。 「ルノさま! あなたはいったいどこを歩いているのですかっ」 思わず叫んでしまったのも致し方なかろう。何せ王女ときたら、アカンサスの葉の彫られたアーチ型の細い橋の欄干を軽やかなステップで歩いていたのだから。無論、橋の下にはゴンドラーナが行き来する深い水路が通っている。 「もう大きな声出さないで。びっくりするじゃない」 「ルノさま。まず基本的なところから確認させていただきますけど、橋は欄干ではなく中央を渡るものです」 「こちらのほうが高くて楽しいのよ」 「あなたさまは楽しいかもしれませんが、私はちっとも楽しくありません。むしろ肝の冷える心地がする」 「ふふ、馬鹿ね。そんなつまらないところを歩いているからよ」 ルノはくすくすと機嫌のよい子猫のような顔で微笑って、イジュのほうへと手を差し伸ばした。 「お前もこちらに来なさいイジュ」 オリーヴの花の香る風にかき乱される銀髪を押さえながら、ルノは蒼い眸を細める。水面に反射した光が少女のうなじのあたりに清廉な煌きとなって射した。オリーヴの若茎のようにしなやかであった少女は近頃、ときどきはっとするほどに美しい。イジュはそれが、苦しいくらいに切ない。時の流れを感じるからだ。エイエンなんてこの世界にはなくて、瞬きをするような速さで時は過ぎてゆく。 考えると、困った風に微笑うことしかできなくて、イジュは結局少し肩をすくめて、王女の手に自分の指を絡ませるにとどめた。 「……それで、ルノさまはどこへ向かっているんです?」 橋の終わりまでたどりついたので、イジュはルノをふわりと抱き上げて石畳の上に下ろす。ルノはなんということでもないように答えた。 「もちろん、風刺画をばらまいている印刷ギルドよ」 「印刷ギルド、ですか」 活版印刷の技術が東大陸にある華国から行商を通じてもたらされて百年ほど。ユグド王国にも印刷を生業とするギルドが生まれ、最初は聖書の印刷を、今では学術書から挿絵の入った娯楽本のたぐいまで幅広い種類の本が出回っていた。ジストの持っていた風刺画をはじめ、王都界隈で起こった事件や噂話を載せた紙片も頻繁にばらまかれて、酒場で談笑する男たちをおおいに楽しませた。 「こういうのはまず根城から叩かなくてはね」 ルノは口元に勝気そうな笑みを浮かべると、ひとの行き来の多い広い街道沿いに居を構える建物を仰いだ。オリーヴの小さな白い花がかかるようにして、褪せた茶色の瓦葺の屋根が見える。軒に吊り下がった丸い看板と、扉の上についた半円のティンパヌムには羽根ペンとインク壷の絵が彫られていた。どうやらこれが王女の言う印刷ギルドらしい。よく道をご存知でしたね、とイジュが呆れ混じりに呟くと、「ジストに聞いたの」とルノはとっておきの内緒話でもするようにこそっと囁く。 「それじゃあ、いざ。行くわよイジュ」 「そんな殴りこみに行くわけじゃないんですから」 「当然よ。殴りこむのはお前なのだから」 しれっとした風に返されて、イジュは目を瞬かせる。 「殴りこむって、……私がですか?」 「お前、その腰に佩いたサーベルは何のためのものだと思っているの」 どうやら十年前、大砲をぶち放って扉ごと吹き飛ばせ、とイジュの閉じこもった部屋を指差し命じた王女は健在であるらしかった。しかしそこは侍従長カメリオの熱心なる教育によって、良識や常識といったものを余すことなく叩き込まれたイジュである。はぁ、と一応うなずくだけうなずいておくと、王女を背にやってサーベルを鞘ごとベルトから引き抜く。それを両腕で抱き締め、こんこん、と年季の入った扉を叩いた。 「た、たのもー……」 小声で呼びかけ、そっとノブを回す。 「――っの馬鹿野郎! 鴉片の『ア』を『エ』にしただぁ!?」 だが、とたんに飛び込んできた怒声で、イジュの呼びかけは掻き消えてしまった。扉を軸にひょこ、ひょこ、と顔を出したルノとイジュは中をひととおりうかがってから視線を交し合う。熱気の立ち込めた狭い室内には、小隊ひとつほどはあろうかという数の人間が走り回り、そこかしこでけんけんと怒鳴り合いを繰り広げている。中央に居座る巨大な黒虫みたいな機械が手動の印刷機だろうか。虫のお腹から突き出た棒をせっせと腕っ節の太い男が動かしている。 「『アヘン』と『エヘン』じゃまるきり違うだろ!? クレンツェの『エヘン』密売人がユグド国境付近を――『エヘン』! 『エヘン』!? 咳払いじゃねんだぞ!」 「あのー」 「あの!」 イジュは控えめに、ルノは毅然と中へ声をかけたが、反応する者はいない。しばらく蒼い眸を眇めて動き回る職人たちを見ていたルノだったが、おもむろに袖まくりをすると、中のほうへ颯爽と入っていった。 「ちょ、ルノさま危な」 ドンッ! ルノの前に飛び出てきた男の襟首をつかんでイジュが止めるのと、王女がテーブルの上に風刺画を叩きつけるのは同時だった。植字工らしき若者を唾を撒き散らして怒鳴りつけていた壮年の男が顔を上げる。どうやらこの男が印刷ギルドの長であるらしい。周りで駆けずり回る若者たちより幾分上質なガウンを羽織った男は、剣呑そうに眉間をしかめて自分の目の前に立つ少女を見やった。 「なんでぇお嬢ちゃん。いつの間に入り込んだ。ここはちっちゃい女の子が遊びに来るところじゃねぇぜ」 「あら、あまねくユグドのひとびとの知のためにあれ――、そう羽根ペンとインク壷の看板を掲げている印刷ギルドのひとが、女だの子供だのと差別するのかしら」 王女の生来の負けん気の強さが出た、とイジュは頭を抱えたくなった。ルノ姫ははなから喧嘩腰である。 「聞きたいことがあるの」 細腕を組んで、ルノはテーブルに載った風刺画を目で示す。 「この風刺画。描いたのは誰?」 「何故それを聞く?」 男は羽根ペンの先で風刺画を叩き、挑発するように言った。 「興味があるのよ。国王をロバ面にする画家にね」 「嬢ちゃん、もしや街のうるさい自警団んとこの箱入り娘さんか何かか? スゥラ王への不敬罪で捕まえるって言ったってそうはさせないぜ」 「まさか。私は――」 ルノはふっと不敵に笑って、男を見下ろした。 「王女ルノ=コークランよ。父上をロバ面にしてくださったお礼に勲章と私のキスとを授けてあげようと思って、画家を探しているというわけよ」 これにはさすがに面食らったらしい。男はもとから大きな目をさらに丸くしてじっとルノを見つめたが、すぐに冗談だと考えたらしい。大口を開けて笑い、「王女の名を騙るか! ずいぶん豪気な嬢ちゃんだな」と膝を叩いた。 「ゴーギャン、酒。昨日もらった白酒を持ってこい」 先ほど怒鳴りつけていた植字工に命じ、ブリキのカップをふたつ持ってこさせてそこにとろりとした香りの強い酒を注いだ。普段、せいぜい蜜を垂らした甘い葡萄酒くらいしか嗜むことのないルノにも度数の強いものであることがわかる。 「嬢ちゃん、酒は?」 「い、いただくわ」 引っ込みがつかなくなって、ルノはブリキのカップを両手で持ち上げる。 「ルノさま」 止めようとしたイジュの手を引っぱたき、衆目の中、すべてを、一気に、飲み干した。からかい半分に見ていた男も目を剥く。それを愉快げに眺め、ルノはふー、と息をついて、唇を手の甲でぬぐった。 「おいしかったわ。じゃあ、画家の名前を教えていただこうかしら?」 ――そうよ、この私を負かそうだなんて百年早いのよ。 |