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05




無名画家ノー・ネーム?」
「ああ」

 柳眉をひそめて聞き返したルノに、印刷ギルドの長は白酒パイチュウの入ったコップを傾けながら答えた。その姿はとても真面目なものとは言えなかったが、かといってホラを吹いているという風でもない。男は抽斗の中から束になった十通ほどの封筒をルノに差し出した。取り立てて個性というもののない白い封筒には、印刷ギルドの居住地と宛名、料金の収納印が押されている。

風刺画カリカチュアの送り主については俺らもなんにも知らねぇんだ。ただ一年くらい前からだっけなぁ、毎月一度、こんな封筒に風刺画一枚だけが入って送られてくる。名前も、添え書きも他にはなーんにもない。あったら、銅貨数枚くらい送ってやるんだけどなぁ。うちの不思議のひとつってわけよ」
「そうなの……」

 繋がったと思った糸があっさり断たれてしまい、ルノはしゅんと肩を落とした。隣に立つイジュはといえば、翠の眸を怜悧に眇めて、手にした封筒をじっと見つめている。

「イジュ?」
「……イエ。あの、この封筒ですけど、一通いただいても?」
「構わんけどよ。本当に、サインも何もない、ただの封筒だぞ」
「いいんです。ありがとうございます」

 イジュはにっこり笑い、取り上げた封筒の代わりに金貨を一枚机に置く。磨きぬかれたリシュリテ金貨。ぎょっとする男たちに向かって優雅に頭を下げると、青年は「さ、行きますよルノさま」と少女の身体を抱え上げ、颯爽と部屋を横切っていった。ぱたんと爽やかなシトラスの香りを残して扉が閉まる。残された男たちは、まさか、いやまさか、という顔で互いに視線を交わし合い、――机の上で燦然と輝く金貨へ一斉に手を伸ばした。




「イジュ、ちょっと! 下ろしなさい! イジュったら!」
「下ろして差し上げあげますよ。お城につきましたらね」
「こんな街中で横抱きにされながら歩けというの!?」
「ご安心ください。歩いているのは私です」
「お前、その屁理屈はいったい誰から教わったのよ……」

 ルノは呆れきった様子でずきずきと痛んできたらしいこめかみに手をあてた。しかしこの勝気な姫君にしては珍しく折れる気になったらしい。むぅと頬を膨らませながらも、観念したようにイジュの首に手を回して身体の力を抜いた。その際、ふんわり少女からくゆった甘い香りにイジュは苦笑する。

「酒くさいですねぇルノさま」
「う、うるさいわっ」
「いいえ、言わせていただきます。ああいうお馬鹿なことをするのはもう金輪際おやめくださいませ。倒れたらどうするつもりだったんです」
「倒れる? そんなみっともないこと、この私がするわけがないでしょう」
「その自信はいったいどこから来るのか、一度聞きたいんですけども」
「第一、ああしなければあのひとは口を割らなかったわ」
「そうですかね」
「……何よ」
「そうではなく、私にはあなたさまがいつもの勝気癖を出しただけのように見えましたが」

 ルノの応酬がぴたりとやむ。悔しそうに唇を噛み締めて自分を見上げてきた蒼い眸を見つめ返し、イジュは微笑んだ。

「ルノさまがスゥラ王のことが大好きなのはわかりますが」
「――そう見えるならお前の目は節穴ね」
「無謀と勇気を履き違えてはいけませんよ」
「お前も偉そうな口を利くようになったもの」
「ええ、おそばでお仕えしているどなたかの口調がうつったんでしょう」

 楽しそうに言ってのけると、イジュはぽんぽんと愛情に満ちた温かな手のひらでルノの背をさする。まるで聞き分けのない駄々っ子をあやすような仕草だ。それが気に食わなくて、ルノは頬をくすぐる柔らかなヘイズルの髪を少し乱暴に引っ張り、「さっきの」と話を変えた。

「ギルドの長から封筒を一通もらっていたわね。どうして?」
「おや、ルノさまはお気付きになられませんでしたか」
「じらさないで。早く先」

 ルノがせかすと、イジュははいはいと苦笑混じりにうなずき、胸ポケットから先ほどの白い封筒を取り出した。

「そこの、左上をごらんになってください」
「左上……、ってまさか、収納印?」
「ええ」

 イジュは口元に湛えた笑みをそっと狡知なものに変える。

「ルノさまはご存知でないかもしれませんが、通常手紙をよそに届けるときには場所に応じたリシュリテ銅貨が必要で、それがきちんと支払われると、このように左上に収納印が押されます。王都には銅貨と引き換えに手紙を受け付けるポストがおよそ百ありまして、これらの収納印はすべて形や絵柄が微妙に異なっている。封筒をごらんになってください。世界樹に十字のマークは、王立教会のもの。ルノさま、これはね、王立教会のすぐ近くのポストで受付がなされたお手紙ですよ」
「十通とも?」
「十通とも。ハリネズミにロバといったそこここに散りばめられた寓意、聖書に関する知識や、落書きにしては高価な紙質から考えると、教会の方か神学生ですかねぇ。あるいは、近くに住む庶民、という可能性もなくはないですけど、まぁ低いでしょうね。星詠み師エンの手紙の引用だなんて、私が言うのもナンですけど、ちょっとマイナー過ぎますよ」
「神学生……」

 それで思い出す鮮やかな金色があって、ルノは知らず眉根を寄せた。
 かつて、とある事件を通してささやかなる関わりを持った男。自らを『ハリネズミ』と称したあのふてぶてしい態度と、慇懃と無礼の入り混じった独特の喋り方、キレイ、とたとえるにはあまりにも鮮烈であった金の眸。いい悪いはともかく、あれほど強い印象を周りに与える人間もそうはおるまい。
 シャルロ=カラマイ。もう二年以上会っていないかの学生は今どうしているのだろう。出身どころか年齢すら知らずじまいであったが、まだ大学には通っているのだろうか。

「ルノさま?」

 沈黙してしまったルノをいぶかしんだらしい。イジュが顔をのぞきこんできたので、ルノは「何でもないわ」と首を振って返す。そのとき、ちょうど頭上から重々しい鐘の音が鳴り響いた。五度続けて鳴る。見れば、広場の時計塔は五時を指していた。

「ああもうこんな時間ですか。ルノさま、カメリオのこともありますし、そろそろ……」
「イジュ。もうひとつ、寄るわよ」

 そろそろ酒気も少しは抜けたろう。ルノはイジュの腕からひょいと猫のような身のこなしで地に降り立つと、暮れ始めた石畳の道を足早に歩きだした。




「そうだねぇ、教会のえらい方たちはみんな専用の配達屋を持っているから。ここを使うのはもっぱら神学生たちのほうだな」

 くるるんと巻いたちょび髭をいじりながら、男はカウンター越しに答えた。王立教会のちょうど対面に位置するこの小さなポストに今客はなく、カウンターに座っている男が退屈そうに猫を膝に乗っけて銅貨を勘定していたところに、ルノとイジュはやってきたのだった。こういうときのルノは一種天才的といえる。初対面の相手でも難なく警戒を解いて、するりとその懐に入り込んでしまう。エイクと名乗ったこの男とも、ものの数分で打ち解け、今はお茶のカップを片手に語り合っている。

「ふぅん、やっぱりそうなの。じゃあね、その中に毎回差出人の名前のない不思議な手紙ってあるかしら」
「さぁ、どうたったかな。いちいち手紙を裏返してみたりはしないからなぁ。彼らの手紙を運んでくるのはいつもペンネさんだから、彼女のほうが詳しいんじゃないかな」
「ペンネさん?」
「そう、通称“蜂蜜ペンネ”。大学寮の寮母さんだよ。もともとふっくらしていたけれど、最近子供がおなかに入ったせいでますますころころしてきた」

 “蜂蜜ペンネ”の姿を思い出したのか、エイクはおかしそうに笑った。

「寮母さん、ねぇ」
「ああ、でも、そういえば今日もらった手紙の中に銅貨が足りなくて持って帰ってもらったのがあったな。アレ、確か差出人がなくて変に思ったような」
「ほ、本当!?」

 ルノが思わずテーブルに手をついて身を乗り出したので、エイクは面食らった様子で目を丸くする。

「その宛先だけど、もしかしてセレイネ通りの印刷ギルドじゃなかった?」
「え、ど、どうだったかなぁ……」
 
 痩せた頬をぽりぽりとかくエイクの所作は頼りない。どうにも歯がゆい気持ちに襲われつつ、ルノは「筆跡はこんななのよ」とイジュが印刷ギルドからもらってきた白い封筒を差し出す。

「うーん……こんな、だったような……ちがったような……」
「エイク?」

 期待をこめた視線を向けるが、エイクは顎に手をあてがったまま固まってしまい、挙句、膝に乗った猫のほうがにゃあと答える始末。ルノはイジュと顔を見合わせ、小さく息をついた。

「ありがとうエイク。もういいわ……」
「ごめんね」
「ううん、いいの。私こそ――」
「でもこれは、あそこの大学の封筒だよね」

 何気ない調子で続けられ、ルノははたと目を瞬かせる。エイクはつぶらな眸で何かを見透かすように封筒を明かりにかざした。

「世界樹と十字架のマークの透かしが入ってる。あそこの大学の雑貨屋のコレッジョが売ってる封筒だよ。コレッジョは大学ん中の雑貨屋だから、中でしかこれ売ってない」
「そうなの?」
「そうだよ」

 エイクはこっくり首を振って、ルノに封筒を返した。やっぱり、という思いが強くなる。その蜂蜜ペンネとやらに手紙を預けている神学生の中に、不遜な風刺画を描いている輩がいる可能性はすごく高い。

「ありがとうエイク。お茶、ごちそうさま! イジュ、行くわよ!」

 エイクの膝に寝そべる猫の喉をくすぐっていた従者の袖を引っ張り、ルノはぱたぱたと足音を鳴らして外に出る。扉を押し開けると、薔薇色の空とそこに生える不気味な二本の尖塔とに目を奪われた。王立ユグド教会。二本の尖塔と薔薇窓を持つ石造りの教会の背後には、天高くに枝を伸ばす白き世界樹の姿がある。教会付属大学は同じ敷地内に隣接して建っているが、庶民に向けて開かれた『天楼図書館』をのぞいては許可がなければ入ることができない。自分の背丈の二倍ほどはある塀、錬鉄でできた唯一の門とその前に立ちふさがる門衛とを見やって、ルノはほぅと息をつく。二年前、シャルロ=カラマイに懐中時計を届けようとしたときに門衛ににべもなく付き返されたことを思い出したのだった。

「ルノさま?」

 ――でもやってみる前に諦めるのは嫌。
 いぶかしげな顔をするイジュをよそに、ルノは袖まくりをしてつかつかと自分よりははるかに大きな門衛の前に立った。

「コンニチハ。ちょっと、お願いがあるのだけど」

 じろりとこちらを見下ろしてくる栗色の眸には光がなく、まるでのっぺりした仮面か何かをかぶっているようだ。気圧されそうになる気持ちを奮い立たせて、ルノは口を開く。

「中の大学寮に蜂蜜ペンネ、って呼ばれている寮母さんがいると思うの。彼女に用があるのだけど……、だめかしら?」
「ここは外の方の立ち入りが禁じられています」

 仮面が口を利く。
 聞き覚えのある台詞に、ルノは眩暈を起こしかけた。

「別に神学生と会うわけじゃないわ。ペンネさんと話したいだけなの。それでもだめなの?」
「敷地内は外の方の立ち入りが禁じられています」
「じゃあ、ペンネさんを呼んできてくれない?」
「教会法五十三条。許可なしに中の者と接触するのは禁じられております」
「ねぇ、おねがい。ほんのちょっと。ちょっとお話をするだけなのよ」
「教会法五十三条」

 ――これではだめだ。
 ルノはあのときみたいに思いっきり門衛を罵ってやりたい衝動をぐっとこらえて、「イジュ」と青年を呼びつけた。シフトドレスを翻す。

「……いいんですか?」
「無理よ。そこのひとはキョウカイホウキョウカイホウとしか言えないようだもの」

 それでも大人げなく嫌味が口をついてしまったのだが、仮面は仮面らしく微塵たりとも表情を変える風を見せなかった。それが余計に腹立たしい。こぶしを握って門衛に背を向け、ルノは高い塀に沿った道を歩く。この塀の中に。このたった一枚の隔たりの内に。父上をロバ面にした神学生がいるのかと思うと、むくむくと悔しさが沸いてくる。だって。だって。スゥラは馬鹿で馬鹿で馬鹿な父上だが、あえていうなら、寝食を忘れて国にかまけている馬鹿さ加減なのである。ルノの父上はロバ面の馬鹿王なんかじゃない。どうにか犯人の学生を見つけ出して、変な風刺画をまくことだけでもやめさせられないかしら、と塀を睨みつけていると、ふと風に揺れる一枚の貼り紙がルノの目に付いた。ぱちぱちと目を瞬かせ、ルノは呟く。

「これだわ……」

 そこには、『寮母お手伝い短期募集』とあった。


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