いつも月白宮の窓辺から聞いていた、長針が12を指すごと、でぃんごんでぃんごんと鳴り響く教会の鐘の音は、どうしてなかなかうるさいものなのだと初めて知った。鐘が鳴るたび、共同食堂の古い石壁や床に共鳴が起こって、長テーブルに置かれた素焼きのスープ皿をかたかたと揺らす。塩で味がつけられただけのスープ。固くて味の悪い黒パン。それに安い葡萄酒の入ったゴブレット。質素な夕餉はすでに並べ終えられていたが、手をつけるものはなく、また口を開く者もいない。鐘が鳴り止むと、十字架の下で大学の学長にあたるリシュテン老が祈りの聖句をさやかに述べる。老といえども、まだ若いその声は鐘の残響のたゆとう静寂によく響いた。 「イェン・ラー」 神の御心のままに、という古聖語が学生たちによって続けて唱えられ、食事が始まる。ルノも小さく「イェン・ラー」と繰り返すと、自分のぶんの薄味のスープに木のスプーンを浸した。 短い晩餐が終わると、最初にリシュテン老が席を立ち、司祭や助祭がそれに続く。お偉方がいなくなってしまえば、さっきの静けさは嘘のように立ち消え、代わりに賑々しい喧騒があたりを覆った。思い思いに席を立って、談笑しながら外へ出て行く学生たち。すでにスープと黒パンとを平らげていたルノは、自分よりもはるかに長身の彼らの間を縫うようにしてぱたぱたと走り、空いた皿を重ねていく。山ほど重ねた皿を抱えてきびすを返す、そのとき、前方を横切ろうとした学生にぶつかりそうになってしまった。 「ひゃっ」 「……危ない」 ごく冷静にそう呟いてみせた学生は、ルノと傾きかけた皿の山とを鮮やかに受け止める。軽く目を瞠って自分を支える腕のぬしを振り仰げば、知性を感じさせる黒い双眸がふっと眇められた。 「ごめんなさい、お皿」 「いや。こちらこそ悪かった。見えてなかった」 ルノとの身長差のことを言ったのだろう。そのひとは確かにイジュよりもさらに目の高さが上のようだった。イジュは城の中でも低いほうでないから、この学生は抜きん出て背が高いのだろう。ルノの運んでいた皿を行きがかり一緒に片付けてくれながら、ユゥリート、と青年は名乗った。 「きみは、ペンネが雇った?」 「そう、寮母のお手伝いの。ウルです、少しの間だけどよろしく」 努めて低い声を心がけ、ルノは兄皇子の名を名乗る。 ルノは今栗毛の鬘をかぶっており、ついでにいうと衣服のほうも地味な毛織の上着にハーフパンツという出で立ちだった。もともと身体に丸みがないというか、胸元が少し、否、かなり心もとないルノ姫であるので、こうしてしまうと、少年にしか見えない。 直前にしたイジュとのやりとりがルノの脳裏に蘇った。 『これだわ……』 寮母お手伝い短期募集、という貼紙を見て、ぐっとこぶしを握ったルノに、イジュが最初にしたのは猛反対であった。この聡い従者はルノの考えを口に出さないうちに読み取ってしまうらしい。とはいえ、せっかくつかみかけた手がかりなのである。ルノも負けていられない。ダイジョウブよ、とルノは胸を張る。 『いい? イジュ。こうするの。私は『ウルの兄上』にお会いしてくる。ええ、十年前の母上の葬儀に顔を出したきり、さっぱり王宮に戻ってこないで大学に引きこもっている馬鹿兄上よ。十年ぶりねぇ。積もった話もあるんじゃないかしら。イジュ、私は兄上と話しこんで、三日留守をするのよ』 実際にはあのお互い心底嫌い抜いている兄王子と顔を合わせたところで、言葉どころか目もくれずにくるりと背を向けるのは明らかだが。いいでしょうイジュ、と手を取ると、従者はいいわけがないでしょう、と苦虫を噛み潰したような顔をする。秋の寒空の下、果ての見えない説得のし合いをし――、結局一番星が瞬き始めた頃、三つの条件をつけて、イジュが折れた。曰く、ひとつめ。「たとえ風刺画を描いた学生を見つけ出せようが出せまいが、三日を限りに城に戻ること」。ふたつめ、「風刺画を描いた学生を見つけても、手出しはせず、速やかに城に戻ってくること」。ここは口を酸っぱくして繰り返し諭された。ルノが非常に不満げな顔をしたからだろう。そして、みっつめは。――『影の者』を幾許かつけること。 ルノは何気なくあたりを見回した。その姿は見えず、その声は聞こえず、その足跡すらも霞のごとしと呼ばれる、『影の者』たち。ヒヒたち表の武官とは異なる、裏の護衛だ。イジュがああ言ったからにはどこかにいるのだろうが、探してみてもそれらしい姿は見えなかった。 「ウルか。この国の王子と同じ名前だな」 「――え、あぁ」 ユゥリートの相槌で、遠くにやっていた思考が現へと戻される。ルノは軽く顎を引き、「母がウル皇子の聡明さにあやかれるよう名付けたんです」とあらかじめ考えておいた答えを返した。集めた皿を籠に入れると、皿洗いの男へ渡して、次に水を湛えたバケツで雑巾を絞る。だけど、そういうことがさっぱり慣れていないルノはうまく絞れない。見かねてしまったらしい。微苦笑をひとつ漏らして、ユゥリートは「かしてごらん」と言った。 神学生は貴族の子弟がほとんどなのだという。ユゥリートという姓に聞き覚えはないが、物腰や話し方を見る限り彼も貴族といっておかしくない風格を備えている。そのくせ、しゃがみこみ腕まくりをして雑巾を絞るさまはやけに手馴れていて、不思議なちぐはぐさをかもしていた。返されたとき、手のひらにふとひんやりした固いものがかすめる。見れば、ユゥリートの左の小指には銀の指輪が嵌められていたので、それが当たったのかもしれない。たまゆら触れ合った手のひらをするりと引っ込めて、ユゥリートは立ち上がった。 「じゃあ、ウル」 「うん。雑巾、ありがとう」 お礼を言って、ルノはきびすを返したユゥリートの背を見送る。寮母の手伝いに来たにもかかわらず、雑巾ひとつうまく絞れないルノである。不審を抱かれてもおかしくなかったが、ひとまずやり過ごしたようだ。ほっと安堵の息をつく。 「ユゥリートと話していたの?」 反対の長テーブルを拭いていたはずのペンネが顔を出したのはそのときだ。ひゃ、と口をついて出そうになった悲鳴を飲み込み、ルノは笑みを繕った。 「ええ。あのひと、親切ですね」 「あら、よい目のつけどころね、ウル。彼はぶっきらぼうだけど、心根はとても優しい子よ。それから大学の首席」 「頭がいいんだ」 「そうね。あれでびっくりするほど努力家なの。夜もいつも遅くまで勉強をしているわ」 子供を自慢する母親のように誇らしげに微笑むと、ペンネはバケツを持って歩きだした。重そうなお腹を抱えたその足取りがルノに負けず劣らず危なっかしかったので、雑巾を持ってもらう代わりにバケツは両方ルノが持った。少し離れた洗い場で水を捨てる。そこでは神学生たちがさっきルノが集めた皿を洗っていた。大学の中では朝食や夕食を用意するのも学生たちであるし、その片付けをするのも学生たちであるのだという。彼らはユゥリートよりも少し若い、一年生たちのようだった。先ほどの食事のときとは違い、和やかに談笑や猥談にふけりながら皿を洗っている。彼らに会釈をすると、ルノはペンネを追って、外に出た。 吹きさらしの回廊を歩き、大学寮のほうに向かう。 すでに夜は更けており、あたりは暗い。並んだ石造りの柱には蒼い月光が射して、足元に不気味な長い影を落としていた。じっと目を凝らしていると何か怖いものが見えてきそうで、ルノは気を紛らわそうと口を開く。 「ペンネのお腹の赤ちゃんは何月になるの?」 「そうねぇ……、もう七月くらいになったかしらね。最近さすがに動くのがつらくなってきていたから、あなたが手伝いに来てくれてありがたかったわ、ウル」 むしろそんな大きなお腹で昨日までひとりでテーブル拭きや皿運びをしていたことのほうがルノには驚きである。苦笑して、ルノは一昨日、貼紙を持ってペンネを訪ねたことを思い出す。ともしたら教会の門衛のように門前で付き返されるかもしれないとどきどきしていたルノを、ペンネは少女のようにはしゃいで迎え入れた。貼紙を張ってもさっぱり反応がなかったそうで、とても嬉しかったのだ、とペンネは教えてくれた。手伝いの期間は三月、ということだが、実際は三日でやめてしまうのがわかっていることが忍びない。ルノは早くも、この喋り好きで気立ての優しい寮母が大好きになっていた。 「ペンネは学生たちの世話を何でもやっているの?」 「そうね。といっても、今日見たとおり、食事も洗濯も掃除も自分でやるのがここの決まりだから、私たちがするのはないものを買い足したり、お手伝いをしたり、こまごまとした雑用になるわね」 「たとえば、お手紙を出したり?」 「そう。それもあるわ。明日からはウルに頼むけれど、いいかしら?」 「もちろん」 うなずき、それからルノは注意深く言葉を選んで続けた。 「手紙は、向かいのエイクさんのところに出しに行けばいいんだよね?」 「ええ。送り賃は最初に学生たちからもらっておくの」 「それって、司祭さまや助祭さまの手紙が入っていることもある?」 「いいえ? たまにお使いを頼まれることもあるけど、あの方たちはみな、それぞれ小間使いを持っていらっしゃるから、あまりないわね。なぁに、そんなに気になる?」 「う、ううん。ちょっと」 ルノは曖昧に微笑み、首を振る。 これでひとつ可能性が潰れた。ペンネもこう言っているし、風刺画を描いているのは大学寮内の学生と見てほぼ間違いないだろう。 寮母室に戻ると、ペンネは「少し待っててね」と言い置くや、栗毛をぱたぱたと揺らして薬缶にお湯を沸かした。今日のねぎらいに紅茶とお手製のクッキーをご馳走してくれるらしい。それ自体はとても嬉しかったのだけど、大きなお腹を抱えてせわしなく動くペンネにルノははらはらしてしまう。 「ふふ、一日疲れたでしょう? お茶が終わったら、あなたの仮住まいに案内しますからね。三月という約束だし、空いている学生部屋でもいいかしら」 「え」 これにはさすがに顔が引き攣った。 空いている学生部屋ということはよもやひとり部屋というわけがないから、相手がいるということになる。それはさすがにまずい。何せいくらはためには『完璧な少年姿』といえど、服を脱げばそういうわけにもいかない。すごく、すごーーーーーーくささやかだけど、胸には膨らみだってあるのだ。イライアが近頃本気で胸パットの発注を試みていようともそうなのだ。 「ペンネ。ええと。その、相部屋はちょっと、」 ――こんこん。 口ごもっているさなか、微かなノックが窓の外からしてルノは目を瞬かせた。あら、と声を上げてペンネが腰を浮かす。そんな不用意に鍵を開けてよいものなのかと思わず心配になってしまうくらいのあっさりさでペンネはノックのぬしを確かめもせず、鍵を開けた。ペンネのそぶりからしてこれはよくあることらしい。いったい何者よ、と呆れ混じりに窓のほうへ目をやり、だが次の瞬間、暗闇からひょこっと現れた金髪の頭を認めて、ルノは凍りついた。 「ああちょうどよかった。今万年ひとり狼のあなたにできた素適なルームメイトとお話をしていたのよ。今日から私のお手伝いをしてくれる子で、ウル。ウル。紹介するわ、彼は――」 「シャルロ=カラマイ。よろしくね、――ウル」 ちろりとルノを見やってから、シャルロ=カラマイは窓の桟に足をかけたままの体勢で手を差し出した。一瞬間があったのは、ルノの正体に気付いてのことだろうか、それともただの間か。ルノは内心びくつきながらも、そろそろと差し出された手に自分の手を重ねる。軽く握りあったとき、何気なく視線を交わしたが、男の眸には何の色合いも載らなかった。驚いている風でもなければ、不審がっている風でもない。 「シャルロ=カラマイ。あなた、今日はどうしたっていうの? 夕食のときもいなかったでしょう」 「んー、ちょっとね。神父さま、気付いてた?」 「たぶんね。あんまり目立った行動ばかりしていると、そのうち本当に退学になるわよ。おとうさまを悲しませたくなかったらほどほどにして」 「はいよ、樹上の神さまに誓って。それで、ペンネ。彼を俺の部屋に案内すればいいの?」 シャルロ=カラマイのさりげない話のすり替えに、しかしペンネは気付かなかったようだ。 「そうよ。よかったら、いろいろと教えてあげて。小さな弟が出来た気分で」 「弟ね。シャルロ=カラマイにはお兄さんしかいないはずなんだけど、ま、わかったよ。えーとウル? 紅茶はもういい? 俺、疲れたから部屋に戻りたいんだけど」 ぱきぱきと小気味よい音で肩を鳴らしながら、相変わらずの奔放さでシャルロ=カラマイが言う。とはいえ、ルノとて異存はなかった。ペンネに今日の礼とおやすみの挨拶をすると、クッキーを一枚くわえて歩きだしてしまったシャルロ=カラマイを追う。低い段差の階段を男はたんたんと一段飛ばしで上がっていった。対して荷物を持っているルノの足取りは遅い。互いの距離がずいぶん離れてしまったところでシャルロ=カラマイがこちらを振り返った。 「手、かしましょーか」 「……いや、ひとりで」 「そう? なんか重そうだね。何入ってんの」 「着替えとか、本とかいろいろ」 「ふぅん。なんだ、酒とか阿片とか隠し持ってんなら面白いと思ったのに」 冗談にしてはずいぶんときわどい。 ルノが閉口してしまうと、シャルロ=カラマイはひとりでくすくす笑って、たん、と最上段のステップを踏んだ。ルノも息を弾ませながらなんとか階段を上りきる。のん気に鼻歌なぞを歌いだした男の横顔を見つめて、男の真意を探る。 ルノがルノであると、気づいているのかいないのか。いないのなら、わざわざ自分から口を割る必要はないように思えた。だけども、最後に話したあのときから二年が経過しているとはいえ、鬘をかぶりズボンをはいたくらいで本当に見分けがつかなくなってしまうことなどあるのだろうか。まるで三文小説の世界だ。だが、仮に気付いていたとして、ペンネの前でならともかく、ふたりきりになっても知らん振りを続けるその意図がわからない。 自分に、他でもないこの自分に、苛々と心中を思いあぐねさせる。目の前の男にルノは心底殺意を覚えた。 「シャルロ=カラマイ」 「――あ、ついた」 まさかわざとやったわけではなかろうが、ルノとシャルロ=カラマイの声は綺麗に重なった。太ったブタの顔をしているドアノブをかちゃりと回して、シャルロ=カラマイが扉を開く。レディ・ファーストが慣れているルノは常の癖で男に先んじて部屋に入りかけたが、それを遮るようにシャルロ=カラマイが前に踏み出した。危うく男の背に顔をぶつけそうになり、ルノは眉根を寄せた。 「ここが俺の部屋。で、今日からキミの仮住まい」 「狭い……ですね」 王宮の衣裳部屋ほどもない間取りに簡易ベッドが二つ。そのうちひとつは長年使われていなかったためか本が積み上げられ、奇怪な塔と化している。 「狭いよ。だってここは王宮じゃないもの」 ふぅんとうなずきかけ、ルノははたと顔を上げる。 ねェ王女さま、と頭上から降りた腕が緩やかにルノの視界を遮り、壁につかれた。 「この余興、いつまで続けてればいいの?」 確信犯、という三文字が脳裏で点滅した。 |