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10




「馬鹿かイジュ! 姫さまのわがままに従者のお前が振り回されてどうする!」

 久方ぶりにカメリオの雷が月白宮に落ちた。
 それを受けているイジュは思わずぎゅっと目を瞑ってしまいつつ、カメリオから飛んできた書類を顔面に受ける。温厚な侍従長は普段部下を叱るということをほとんどしなかったが、唯一イジュに限っていえば、少年時代からしばしば雷を落とされた。そのたいていは幼くわがままな姫君の不始末だ。カメリオはルノではなくイジュを叱る。お前がついていて何故王女を止めなかったのだと、そういう風に叱る。いつであったか、野生の馬が何頭か王宮にやってきて、調教師が鞭を振るうのを痛ましく思った王女が勝手に馬を逃がしたときがあった。そのときもイジュはとても怒られて、罰として十日間厩の掃除をさせられた。馬の排泄した糞尿を掃除し、山と積んだ糞尿を肥溜めまで運ぶのである。糞尿にまみれた従者の顔を無言で拭いた王女は、以後一度たりとも馬を逃がしたことはない。

「一国の王女ともあろうお方が大学寮に紛れ込んでいるなど……王の耳に入ったらどうなることやら。イジュ、護衛はつけているのだろうな」
「『影の者』をいくらか」

 影の者、というのは王族に代々仕える裏向きの護衛を生業にする一族である。その姿は闇にまぎれ、その息は風にまぎれ、彼らを見ることができる者はいないとされる。イル、トルタ、サイ――悪いハリネズミに針を刺された神の手のひらから生まれたとされる三つの星の名を冠した彼らは、しかし不思議とイジュの声をよく聞き、イジュに従った。

「わかった。ヒヒを呼んで来い。すぐにでも大学寮に向かわせよう」
「ちょ、待ってくださいカメリオ」

 呼んで来い、と言いつけながらも自ら扉に飛んで行きそうな勢いできびすを返すカメリオの袖を捉えて、イジュは説得を試みた。

「『影の者』はつけております。あとたった一日です。いいえ、もはや一日にも満たない。ほんの少しの間だけでもあの方の好きなようさせては――」
「それで、風刺画を描く学生を見つけ出すと? イジュ。王女は王女であって、探偵ではないし、ましてや王都の町娘とは違うのだよ。万が一王女の御身に何かあれば、どうする。教会の大老たちと王宮の重臣たちとの仲が悪いのはお前とて知っているだろう」
「ですが」
「イジュ」

 なおも言い募ろうとするイジュを鋭く制し、カメリオは深い思慮を湛えた眸をやんわり眇めた。

「取り返しがつかなくなってからでは遅い。私とお前には王女を守るお役目がある。よいかイジュ。ルノさまは今特に大切な時分なのだ……」
「大切な? そういえば、カメリオ、ルノさまに何かお話があると言っておりましたよね。何だったんです?」

 イジュは尋ねたが、カメリオは気難しい顔をして首を振った。

「姫がお帰りになったら、話す。イジュ。とにかく姫を迎えに行くぞ」

 ですが、という言葉をイジュは飲み込んだ。
 若く浅慮なイジュに比べて、経験豊かで思慮深いカメリオの言葉はいつだって正しい。だからこそ、内緒よ、と何度も念を押した王女に背いて三日を待たずにカメリオに報告したのだ。ルノは愚かな姫ではなかったが、たぶん、生来の勝気さから、自分の力を少し過信している。自分ならばできる、とそう思っている。事実、ルノはその胆力や知力で多くのことを可能にしてきたが、単純な力でいえば、やっぱりただの十五の娘に過ぎないのだった。たとえば武器を持った男たちに囲まれたら、ルノにはどうにもならない。背筋にひやりとしたものが走り、イジュは悪い想像を振り払うようにふるりと首を振った。





 ルノは吹きさらしの回廊の柱に隠れるようにして、前を歩くユゥリートを追っていた。ユゥリートはランプを持っているようだったが、ルノは左方から差し込む月明かりだけが頼りである。夜闇に沈んだ石造りの回廊はほの蒼い月光がまだらに落ち、独特の静寂に包まれているようだった。思わず息の音すらひそめたくなるような、ぴんと張り詰めた静寂。その中をユゥリートは先ほどから迷うことなく確かな足取りで歩いていっている。
 いったいどこへ行くつもりなのだろう。不思議がるルノをよそに、ユゥリートは回廊を抜け、食堂の前を通り過ぎると、階段をのぼっていった。階段は回廊の柱のような隠れ場所がないので、慎重になる。ルノは、ユゥリートが半階ぶん上りきって角を曲がったのを確認し、そろそろと足を踏み出した。窓はついていなかったが、代わりに上方に小さな火が灯されており、外から入り込んだらしい蛾が群がって鼓膜に引っかかる嫌な翅音を立てている。高い天井のせいだろうか、ユゥリートの足音は近づいて聞こえたり遠のいて聞こえたりして、そのたびルノをどきまぎさせた。
 階段のちょうど半ばくらいまで行ったところで不意に視線を感じてびくりと顔を上げると、踊り場の壁にかけられた大きな絵画が目に入る。緑の樹の上で白い小鳥を抱くやさしげな少女の姿。片方の乳房は惜しげもなくさらされ、三本の爪痕が少女の白い肌に刻印のように刻まれている。ユグドラシルの樹に住まうとされる聖音鳥と、鳥の守り手である聖女シュロ=リシュテン。国教の象徴ともいうべき宗教画だ。五百六十八人目となる今代は、特に聖音鳥の声をよく聞けるということで有名だった。ルノも幼い頃、一度だけ遠くから見たことがある。白装束に身を包んだ少女はまるで空気のような儚い存在感で、父であるリシュテン老の隣にたたずみ、ぼんやり鉄格子の嵌められた窓の向こうを見ていた。その少女の、面影も、容姿ももうろくに覚えていないのだけど、彼女の視線の先にあったのが白い、小さな蝶々であったことだけはよく覚えている。生まれたての赤子みたいな無垢な眸で、ひらりひらりと舞う蝶を見つめていた。

 ――いけない。
 追憶にふけりかけた意識を引き戻す。いつの間にかユゥリートの足音が消えかけているのに気付いて、ルノは階段を早足で上った。二階ぶん上がったので、三階、最上階だろう。視界が開け、左右を見回したが、しかし。
 ――いない。
 愕然となる。三階で足音は止まっていたから、この階のどこかにいることは間違いないのだが、左の廊下にも、右の廊下にもそれらしき人影は見当たらなかった。ルノは唇を噛み、左と右とをもう一度見やった。見失ってしまった以上、もはや勘に頼るしかあるまい。腹をくくって、「右よ!」と小声で言ってみた。右方の突きあたりには北塔がある。北塔はユグドラシルの樹にいちばん近い場所で、先端の一部は巨大な樹に取り込まれかけながらかろうじて建っているようなそんな印象を与えた。もしも夜更けに身を潜めて向かうとしたら、そちらの気がしたのだ。
 ルノは細く長い廊下をてくてくと歩いていく。飾りもなく、宗教画などもない、簡素な廊下だ。部屋もない。すぐに、自分は選択を誤ったのではないか、という疑念が生じた。これだけ長い廊下だ。ユゥリートがルノより前に通っていたとしたら、前方に人影がちらとも見えないのはおかしい。廊下は先が見通せないくらい深い闇に包まれているというのに、ランプの灯りがひとかけらも見えないというのもおかしかった。引き返そう、と思って、ルノは俯きがちだった顔を上げる。と、見上げた先の天井がひときわ高くなっていることに気付いた。ドーム状のそれには磨きぬかれた硝子がはめ込まれ、その中心にちょうど満月が架かっている。

「きれい……」

 何か仕掛けでもあるのだろうか。天井から降り注ぐ月光はまるで一本の柱か何かのようだ。光に手を差し伸べ、ルノは足元へと目を落とす。それで、はっとなる。石床には見たことのない幾何学模様が浮かび上がり、反射した光が矢のような形になって左壁を指していた。いったい、何が起こっているのか。ルノはぱちぱちと目を瞬かせてしまう。
 しかし、ここで尻込みするようなルノではなかった。引き寄せられるように光の指す左壁へと手を這わせると、ず、とこすれあうような音が足元で響く。と思ったら、次の瞬間壁が消失して、ルノは壁の内側へとのみこまれていた。

「きゃああああああああ!?」

 急な階段があったようだが、悲鳴を引きずるようにして転げたまま、ちゃんと着地することもできずに下まで落ちていく。身体のあっちこっちを打ちながらも、さほど長い距離を有さず、階下にたどりついた。

「痛っぅ……」

 落ちた場所に柔らかな絨毯が敷いてあったことが唯一の救いとでもいうべきか。さりとて激しい痛みを訴える背をさすり、ルノはよろよろと身を起こす。落ちている最中にかつらは外れてしまったようだ。ぐしゃぐしゃになった銀髪をかき上げ、そして、ふとあたりが妙に明るいことにルノは気付いた。
 顔を上げる。まっしろな、まるで雪面がごとき白亜の部屋が広がっていた。いったいどれくらいあるのだろう。王宮の広間よりもさらに大きく見える。天井は一面硝子張りで、月明かりのせいでこんなにも明るかったのだと理解する。何よりも驚いたのは、部屋の中央をユグドラシルの樹が貫くようにしていたことだ。本体の幹ではないようだが、枝であっても十分太い。まるで部屋全体がユグドラシルの樹に侵食されているかのよう。白亜の床は少し湿っていて、窪んだ場所には蒼く透明な水が湛えられていた。さわさわとないはずの風の息吹を感じ、そちらへ意識を向けると、白い枝の合間から、微かな歌声が聞こえた。あどけない少女のような、瑞々しさと透明さを持ち合わせた声。どうしてだろう、胸が、とてもかき立てられた。声はこんなにも澄み切っているのに、寂しくてたまらないような。呼ばれて、いるような。この激しくくるおしい衝動には覚えがある。身体を打ちつけた痛みすら忘れて、ルノは樹の枝をくぐり、歌声のするほうへ歩いていく。果たして、少女はいた。美しい、銀製の鳥かごの中に、少女は、いた。


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