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09




「嘘をついたわね、シャルロ=カラマイ」

 リネンのシーツでいっぱいになった洗濯籠を腕に抱えて歩きながら、ルノは低い声を出した。「嘘って何のこと?」と数歩あとを歩くシャルロ=カラマイが不思議そうに首を傾ける。まるで、ものを知らない無邪気な子供のようなその仕草。頭の回るルノは察しの悪い男が嫌いだ。それがわざとらしくそう装っているのだとしたらなおのこと。

「ユゥリートの話に決まっているでしょう!」

 ルノは苛々と吐き捨て、男に向き直った。

「とても、国王をロバ面にするようには思えないわ。とんだ見立てをしてくれたものね」

 洗濯籠を足元に置き、ルノは少しばかりよろめきながら下ろされていた竿を渡す。
 王立教会付属大学寮の中庭である。吹きさらしの回廊に沿ってオレンジの樹が立ち並ぶ隣には、ハシバミの小枝を使って作った蜂の巣がいくつも置いてあって、蜜蜂が絶えずぶんぶんとうるさく唸っていた。この蜂の巣からは蜂蜜や蜜蝋のもとになる蝋を取るのだという。蜂の巣の中に木の実を練った粉を入れて世話をしている学生を横目で見やると、シャルロ=カラマイは黒ローブを翻して、蜂の巣からずいぶんと距離を開けた樹の根元にしゃがみこんだ。それでも黒ローブに近寄ってくる蜂に気付いて、すすすと横に逃げる。まったくなんて肝の小さな男なのだ。逃げる男の前に腰に手を当てて立ちはだかると、ルノは口を開いた。

「あなたにあげた銅貨を返してちょうだい」

 鼻先に突きつけられた手のひらをシャルロ=カラマイはちらりと見やる。それから何気ない風を装ってルノの背の後ろに移動し、しっかり安全を確保したのち、「それはできない相談だね」と偉そうに言った。

「……どうして? もうパイプ草に変えたというの?」
「違うけど」
 
 シャルロ=カラマイがローブのポケットをぱんぱんと叩くと、銅貨が打ち合う金属音が鳴る。どうやら昨晩受け取ったまま入れっぱなしにしていたらしい。「いいですかルノ姫」、と言って、シャルロ=カラマイはしゃがみこんだ姿勢のまま、ルノを見上げた。

「俺は、嘘は言っていないよ。絵が得意で、よく手紙を出していて、やたらとこそこそしている奴。ユゥリートはその条件にあてはまる。でもこれは条件にあてはまるってだけで、ユゥリートが風刺画を描いたって言ったわけじゃない」
「屁理屈だわ」
「自分の読み違いをひとのせいにしないでくれない? 俺は嘘は言ってない。だから、銅貨は返さない。オッケー?」
「守銭奴」
「……減らないねぇ」
「何よ」
「口」
 
 という言葉と一緒にひょいと下から大きなビスケットを口にくわえさせられる。突然だったので、思わず口で受け取ってしまい、すごくすごく悔しい気分で相手を睨みつけながらビスケットを噛み砕くはめになる。幼い頃からテーブルマナーを叩き込まれたルノはものを口に入れながら喋ったりはしない。しない、というよりは、する、ということが思い浮かばない。であるので、ぜんぶ咀嚼し終えて、ごくんと飲み込んでから、改めて「シャルロ=カラマイ」と言い立てようとすると、

「おいしかった?」
「は、」
「ビスケット。おいしかった、それともまずかった?」
「……お、いしかった」
「それなら、もう一枚差し上げよう」

 いったい何枚持っているのか、銅貨が入っているのと反対のポケットを軽く叩いて、また一枚こんがり焼かれた丸いビスケットを取り出す。今度は口ではなく手渡しにされた。一瞬、はたき落とそうかとも思ったが、ビスケット自体に罪はない。仕方なく受け取って、男の隣に座り、もそもそと口をつけていると、隣で小さく笑う気配がした。

「な、何よ」
「ふふ、まるで小鳥を餌付けている気分だなぁって」

 男の言葉が暗に指している意味に気付くと、ルノは問答無用でシャルロ=カラマイの革靴を踏みつけた。呻き声が上がる。無礼者、と言って、ルノはぴょんと立ち上がった。ふざけているにもほどがある。この自分を。このルノ=コークランを。餌付けているなどと。ルノはもう一度男の足を踏みつけ、ビスケットの最後のひとかけらを噛み砕くと、渡した竿のほうへと向かった。

「もう、いいわ。お前なんかに頼らない」

 シャルロ=カラマイに、というよりは自分に対して宣言して、洗濯籠に積まれていたシーツを竿にかけていく。めいっぱい背伸びをして、飛んでいってしまわないように木製のはさみで止める。そんなに怒らなくても、と男は不服そうに足をさすっていたが、やがて、小さく息をついてこちらにやってきた。てっきり謝って、手伝ってくれるのかとルノは期待したが、それに反して、シャルロ=カラマイはルノの前を素通りすると、洗濯籠のそばにしゃがみこんで、潰されそうになっていた青虫を助けた。手のひらに乗せて、近くに差し迫ってきている葉っぱにそれを乗せる。なんだか青虫に自分が負けた気がして、ルノはますますつまらない。理不尽なくらいの苛立ちに駆られながら、ルノはシャルロ=カラマイが青虫をまるで愛しい恋人か何かを扱うように葉に乗せるのを見ていた。鄙びた黒ローブに木漏れ日が落ちて白いまだらを描いていたが、それが鮮やかなだけで、彼自身の表情は見えない。

「ねぇルノさま」

 自分の背にルノの視線が集まっているのを心得ているそぶりで、妙に確信的に、それでいてこちらは絶対に振り返らずにシャルロ=カラマイは口を開いた。

「国王がロバ面なのは、『彼』なりの遊びだ。気にするほどのことじゃない。それよりもっと、ずぅっと大切なことをあなたは見落としてらっしゃるよね」
「い、意味がわからないわ」
「そう? ワタシはあなたがワタシの前に現れたとき少し期待したんだけどなぁ。でも、残念。買いかぶりでしたね、姫君。もうね、お話になんない。身のほどを過ぎるお転婆はやめて、平和な王宮にお戻りになったら?」
「私がお転婆ですって?」
「いかにも。きみみたいのを、無謀な身の程知らずっていうんだルノ=コークラン」

 そんな風に、急に、切り捨てるような言い方をする。振り返った金色の眸は冷ややかにルノを見下していて、そういう風な見つめられ方をされたことのないルノは思わず声を失ってしまった。驚いて、とても驚いてしまって、言葉が出てこない。少しして、自分が傷ついているということに気付いたルノは、悔しさのあまり唇を噛んだ。睨みつける。でも、言い返せない。ルノは、シャルロ=カラマイの言っている言葉の意味がわからないから、言い返せない。それが気位ばかりが高いルノには悔しくてたまらない。シャルロ=カラマイは少しの間、無感情に睨むルノの顔を眺めていたが、特に気を惹かれなかった様子で、軽やかにきびすを返した。礼のひとつもしない。する気もないようだった。中庭を突っ切り、渡り廊下の柱の影に入って、金色の頭が見えなくなる。ルノは、そこでようやく、握り締めていたこぶしを目元に当てた。ひどい。イジュやカメリオだったら、こんなことは絶対に言わないのに。ルノが怒ったら、すぐに謝って、優しくしてくれるのに。ルノがよくわからないような意地悪な言い方などしないし、口論になったときでも彼らはルノの言い分にきちんと耳を傾けてくれる。なのに、あの男は。好き勝手振舞うだけ振舞って、ルノの言葉などまるで聞いてくれない。あんな男。あんな男、大嫌い。再会なんてするんじゃなかった。言葉など交わすんじゃなかった。だけど、何より、

『身の程知らずって言うんだ』

 何も言い返せなかった自分が悔しくてたまらない。
 悔しくてたまらなかった。




 その夜、ルノがペンネにお茶と手作りの蒸しケーキをご馳走になってから部屋に戻ってくると、片方のベッドは思ったとおりもぬけのからになっていた。ペンネが、シャルロ=カラマイはよく寮を抜け出して街の酒場をうろついていると苦笑していたから、今日もたぶんそんなところなのだろう。そういえば昨日もお酒臭かった、と思い出し、ルノは無意識のうちに眉間を寄せた。腹いせまじりに部屋と窓の鍵を閉めてやる。あんな男外で野垂れ死んでしまえばいいんだわ、と窓硝子を睨みつけ、しかしそうすることも馬鹿馬鹿しくなってきて、ルノは重いため息をついた。ぽふ、とベッドに足を投げ出し、きつく締めていた襟を緩める。一日、皿の片付けに始まり、洗濯籠を担いだり、そうして乾いたシーツを取り込み、ベッドメイキングをしたり、他にも雑巾で床を拭いたり、手紙の仕分けをしたり、あるいはペンネが蒸しケーキを作る手伝いをしたり。そんなことばかりをしていたら、肩や足だけに飽き足らず、ふくらはぎのあたりもぱんぱんに腫れてしまった。
 大学寮に忍び込んで、今日で二日目。イジュと約束した以上、明日の夕刻には王宮に戻らなければいけない。時間が、尽きようとしていた。まだ何も為していないのに、まだ何も見つけられていないのに。そのことがルノを焦らせる。
 自分であるなら、三日足らずでも何かが為せると思っていた。何かを変えられると思っていた。だけど、それは、シャルロ=カラマイの言うとおりルノの身の程知らずの思い込みに過ぎなかったのだろうか。
 ひとりで考えていると、不安と焦燥ばかりが膨らんでしまって、どうにもならない気分になってしまう。ルノは緩く頭を振ると、ポケットから例の風刺画を取り出した。王冠を載せたロバが玉座で眠りこけるその前を、頭に花篭を載せたハリネズミが通り過ぎている。手には司教杖。思えば、確かにルノはロバ面にされた国王にばかり目が向いてしまっていて、ハリネズミや司教杖の意味について深く思いをめぐらせたことはなかった。ハリネズミといえば、悪さばかりをしてサボテンに変えられてしまった魔の化身だ。それが何故司教杖を持っているというのだろう。そしてこの花篭はいったい。

 そのとき、外の床板が微かに軋む音が聞こえて、ルノは顔を上げた。てっきりシャルロ=カラマイが帰ってきたのかと思ったが、足音は部屋の前を通り過ぎて、階段を下りて行ってしまう。もしや、ペンネに用があるのだろうか。ペンネが先ほど、教会のリシュテン老に呼び出されたことを聞いていたルノは、寮母室が空っぽであるのを知っていた。学生ならば困ってしまうだろうと思い、部屋を出る。そのとき、脱ぎ捨てていたブーツを履くのを忘れてしまったため、階段を下りる足音が消えてしまったのは幸か不幸か。人影はルノには気付かない様子で、寮母室を素通りし、学生寮の門のほうへと向かっていく。こんな夜更けにどこへ行くというのだろう。首をかしげたルノは、蝋燭を掲げて歩く青年の横顔をみとめて、小さく息を呑んだ。
 ――ユゥリート。


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