その日、王都は乳白色の霧に覆われていた。 天に向かって枝を伸ばす世界樹の根元で、まだ夜明け前の藍色に包まれている王立教会からは、ひゅううるる、ひゅううるる、と不気味な鳴き声が途切れ途切れにしていたが、鎧戸をきっちり閉めた街の者たちがそれに気付くことはなかった。ただ道でうずくまっている酒飲みだけが葡萄酒の瓶を胸に抱きながら、ひどく怯えた顔でリシュテンの小鳥がやってくる、リシュテンの小鳥がやってくる、とぶつぶつと独語しているのだった。 やがて夜明けの一番星が上がり、男の独語がいびきに変わった頃、眩い朝日が差し込むのと一緒に、不気味な小鳥の声はふつりと消えた。 西大陸の初夏は涼しい。ぬくぬくとひとの熱のこもったシーツにうずまり、うららかなまどろみを享受するのはルノの朝いちばんの贅沢といってよかった。自然頬を緩ませてしまいながら、ルノはころんと寝返りを打ち、身の丈ほどもある大きな枕を抱き締める。 ――……め… ゆさゆさ。肩を揺さぶる手がうっとおしい。うっとおしいわ、という気持ちをこめて、ルノはううんと唸り、シーツを頭からかぶる。だが、姫君の眠りを阻害する手はてんで緩むことがない。ルノは柳眉をしかめて、ぺいっと自分の肩をつかむ手をはたき返した。 「だめよイジュ、わたしはもうすこしねむらなくてはいけないのよ……」 「うん、眠ってたっていいけどね。ペンネが呼んでるよ。どうする、王女はただいまおやすみですって言ってもいい?」 「!?」 可愛いイジュにしてはあまりに不遜な物言いにはっと我に返る。眸を開いて飛び起きると、ベッドの木枠にシャルロ=カラマイが腰かけており、涼しい顔でこんこんと叩かれるドアを指差していた。気力が続かず、また枕に突っ伏してしまいながら今何時、とかすれた声で尋ねれば、「六時二十三分」という馬鹿丁寧な答えが返ってくる。ろくじにじゅうさんぷん。六時半からは朝のミサだ。つまりあと七分しかない。まだぼんやりした頭でなんとかそこまでを弾き出すと、ルノは真っ青になって、今度こそベッドから跳ね起きた。 礼拝堂の中央には大きな薔薇窓がある。 青と赤と緑と万華の色を描く窓から燦々と光が差し込み、香炉を片手に聖書の言葉を読み上げるジュダ老の衣を照らしている。神学生たちと変わらない黒ローブに、銀の刺繍が施された肩掛け。それと、精緻な透かし彫りの施された香炉。ルノはペンネの隣にちょこんと座って、あくびを噛み殺しながらジュダ老の話に耳を傾ける。礼拝堂のベンチに座る神学生たちはみな一様にロザリオに手を組んで、司教の話に一心に聞きいっているようであったが、端のほうに座っている金色の頭に限っていえば先ほどから所在無くゆらゆらと上下に揺れていた。居眠りをしているにちがいない。何故あのような男が王立教会付属の大学などに通うのかしら、とルノは不思議になったが、ユグド王国で貴族の子弟たちが大学に通うのはある種のステータスのようなもので、みながみな、特別に篤い信仰心を持っているというわけではない。 今朝礼拝をしているジュダ老は確かそうして大学に入った伯爵家の次男か三男であったはずだ。教会の七大老のひとりで、それを示すサファイアのはめ込まれた指輪をしている。前代の大老から指輪を譲り受ける際、サイズを作り直したらしいと噂される太い指や、ずるずるに緩められたベルトの黒ローブから突き出されたおなかは到底清貧な聖職者とは思えなかったが、その美食にふけっているであろう口から、千年前この国を開いたユグド王の御言葉が語られるというのはどうにも皮肉だった。天上から聖音鳥を引き連れてこの地に降り立ったとされる建国神ユグド王は、この地で悪逆の限りを尽くしていた悪しきイバラの王を打ち倒し、その血を吸った世界樹の根元に王立教会を建てた。これが以後千年に渡るユグド王国の始まりである。ユグド王は言った。さぁ、花よ歌え、風よ祝え、この国の名を。我の祝福を、世界に示したし。この白き世界樹の楽園のもと……。初代ユグド国王、コークランは二百五十の寿命を全うしたのち、神となって樹天に昇った。この息子に連なる系譜が以後王位を継承し、娘に連なる系譜は「リシュテンの聖女」と呼ばれ、教会に留まり聖音鳥の声を聞く役割を担った。ステンドグラスや宗教画のモチーフとしてたびたび描かれるリシュテンの聖女は、今代で、五百六十八人目を数える。 「イェン・ラー」 「イェン・ラー」 ジュダ老の祈りに呼応する形で、神の御心のままに、という聖句を一同で唱える。ルノは母から譲られたユグドラシルの樹を彫って作られたという十字架から手を外すと、目を開けた。一度壇上のジュダ老のほうへ目を向けてから、金髪の頭を探す。揺れていた頭はいまや完全に落ちて、隣に座るユゥリートらしき青年の肩に寄りかかっていた。 「たった三十分だぞ、たった三十分。どうしてお前はそれを我慢することができない」 かちゃかちゃと素焼きの皿によそわれた野菜のスープをすくうでもなく、木の匙でぶつけながら、ユゥリートはこめかみに青筋を立てる。だが対面で黒パンをほおばるシャルロ=カラマイのほうは手元のパズルに夢中で、ユゥリートのがなり声などどこ吹く風だ。昼である。のどかな陽光が差し込む食堂で、ふたりの青年は昼食を取っていた。朝食や晩餐と違って司教たちが同席しないためか、若者らしいざわめきに包まれている室内で、ひときわ険悪な空気を放つ一席を見つけて、ルノは足を止めた。 「シャルロ=カラマイ」 手に持っていた木製のトレイを長テーブルの一端に置き、シャルロ=カラマイにもっと奥に詰めるよう促す。パズル遊びに水をさされたからだろう、シャルロ=カラマイはあからさまに嫌そうな顔をしたが、ルノが肘で小突くとしぶしぶ席を譲った。そうして青年たちの昼食に割り込んだルノは、「ユゥリート」とことさら明るい声を出す。 「『ボク』のことは覚えている? この前、雑巾を絞るのを手伝ってもらった」 「あぁ」 スープを口に運んでいたユゥリートはそこで初めて顔を上げ、ルノをしっかり認める。その口元にシャルロ=カラマイに向けていたものとは別種の柔らかな苦笑が載った。 「ウルだろう。雑巾を絞るのがすごく下手だった」 「ごめん、慣れてなくて」 「ウルは、いいところのお坊ちゃんなんだよ。雑巾を絞るどころか、料理なんて一個も作れないし。昨日なんて、俺に窓閉めろって命令すんの、本当の皇子さまみたいだよね」 「シャルロ=カラマイ」 神学生のわざとらしい意地悪な言い方にひやひやする。ルノが眉間をしかめて睨みつけると、シャルロ=カラマイは肩をすくめておとなしくスープを匙ですくった。 「ウルは貴族の子なの?」 「いや……、商人の子。イーストストリートの仕立て屋の次男。はぶりがいいから、使用人がたくさんいるんだ。ここへは信心深い叔父さんに紹介されて来た」 疑われては困るので、ルノは口から出任せを言う。 こんなに自分が嘘が得意だとは思わなかった。と我ながら感心していると、隣でシャルロ=カラマイがげほげほと咳をしていた。その足を思いっきり踏んでおく。完成しかけたパズルを崩して呻くシャルロ=カラマイの奇行に気付かなかったのか、あるいは流したのか、ユゥリートは思慮深そうな黒い眸を細めて、そう、と言った。 「ユゥリートは? やっぱり貴族の子?」 ユゥリート、という名前の貴族は確かいなかったはず。半ば確信をしながら、あえてそれらしく無邪気を装って尋ねてみると、案の定、ユゥリートは首を振った。 「違う。私はね、もとはクレンツェの農夫の子。飢饉で、とうさんとかあさんとにいさんとを失って私もどうにもならなくなっていたのを、流れ者の男に助けられたんだ。彼に連れられて、この国にも来た。大学は、彼に入れてもらった」 「そう……だったの」 思わず、素の口調で相槌を打ってしまい、慌てて言い直す。 「それじゃあ、その男のひとはユゥリートの恩人なんだね」 「まぁ、……そうとも言えるのかな」 「でもすごい。貴族の子じゃないとなかなか大学には入れないって聞いていたから」 「そんなことはないよ。スゥラ=コークラン王はその点、寛大だ。試験は基本誰だって受けられるし、一定の成績をあげた生徒には、国から補助を出してくれてる。ここにも、私みたいな身の上の子はたくさんいるよ」 「そうなんだ」 そんなことは、初めて知った。 思えば、ルノが国策のすべてを把握しているわけはないし、王女であるルノには国政よりはレディとしての教育のほうが多いのだから当たり前といえば当たり前なのだけど。知らないというのはやっぱり恥ずかしい。つい、ユゥリートから視線を外して俯きがちになってしまいつつ、ルノは自分の本来の目的を思い出して、軽く頭を振った。 「あの、ユゥリート。ひとつ、聞いてもいい?」 「うん?」 「スゥラ=コークランについてどう思う?」 一瞬、質問の意図をはかりかねた様子で、ユゥリートは目を瞬かせた。それから、小さく微笑む。このひとは本当に笑い方に品があるな、と思う、このような人物こそ、清貧な聖職者にはふさわしかろう。 「心の底から、敬愛しているよ」 ユゥリートは澄み切った笑い方で、そう言った。 |