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 ふつりと歌が途切れる。
 燻した銀を思わせる不思議な眸をした少女がルノを振り返った。年頃はルノと同じか、少し幼いくらいだろうか。足首まで伸びた髪は月に煌く白銀で、背中が大きく開いたワンピースからのぞく肌は白磁のように滑らかで白い。けれどルノを驚かせたのは、少女の眩いくらいの白さではなく、その痩せた背中から突き出たふたつの翼だった。天使。一瞬、ルノの頭にそんな言葉がよぎる。だが、少女の染みひとつない白磁の肌とは対照的に、背からふうわり生えた翼は羽毛がこそげ落ちて薄紅の肌を見せ、ところどころ赤い血を滲ませている。少女が呼吸をするたび、ときどきふるりと力なく動く翼が痛ましい。そもそも、翼の大きさに比して鳥籠が小さすぎるのだ。銀製の格子は凝った鋭い装飾がなされているせいで少女の柔らかな翼を傷つけているように見える。それを知ってか知らずか、抜けかけた羽根が所在無く揺れている翼を銀の棘にこすりつけようとするので、

「だめよ!」

 とルノはつい口を挟んでいた。一度声を発すると、それまで強張っていた喉に血が通った風に言葉がするする出てくるようになる。

「だめよ、翼を動かしてはだめ。あなた、怪我をしているわ」

 かがみこんで、格子の合間から手を伸ばし、窮屈そうにおさまっている翼に触れる。みすぼらしい姿になってしまっていたそれは触れると、とても柔らかくて温かかった。血が滲んでいるところは変な風に曲がっているので、もしかしたら折れているのかもしれない。

「あなたは、だれ?」

 自然声をひそめてしまいながら尋ねると、銀色の眸が可愛らしく瞬いた。

「シュロ」
「しゅろ?」

 胸がとくんと呼応したのは、ルノの母親の名もまた「シュロ」であったからだ。シュロ=コークラン。さりとて、ユグド教下のこの国ではそう珍しい名ではない。聖音鳥シュロと、聖女シュロ=リシュテン。ふたりにあやかって娘に「シュロ」と名付ける親がとても多いからだ。ルノは浅く相槌を打つと、ドレスの裾――を無意識にたぐろうとしてしまってから自分がはいていたのが膝丈のズボンであったことに気付いて、仕方なく上着の裾のほうの布地を取って裂いた。薬草があればよかったのだけど、あいにくと持ち合わせはなかったので、深い傷口がのぞくところに布切れを巻きつける。銀の格子越しでは難しかったけれど、この鳥籠には扉らしきものがついていない。

「っ!」

 ぐっと腕を伸ばしたはずみに格子飾りで肌を切ってしまって、ルノは眉根を寄せた。鳥籠は装飾過多というほど豪奢で、ここまでいくと、中の少女を傷つけるために造ったとしか思えない。あるいは、外に出ないようにするためだろうか。ルノの腕を伝った血のにおいを嗅ぐ仕草をして、少女が小首を傾げてこちらを見つめてきた。ルノはその小さな頭をいつも従者にしているのと同じように撫ぜて、「私、鳥籠ってとっても嫌いなのよね」と苦笑する。けれど、少女のほうは透明な色を湛えた眸でルノを見つめるばかりで、きちんとルノの言葉が届いているのか、そも、この少女はニンゲンなのか、それとも鳥なのだろうか、判別がつかなくて困惑してしまう。

「――あなたは、だあれ」

 ふとそれまで引き結ばれていた薄い桃色の唇が開き、歌うようにシュロが問う。話し方は少したどたどしかったけれど、少女の唇から紡がれたのは紛れもないきれいなユグド語で、やっぱりニンゲンなのかしら、とルノは思った。真摯にこちらを見つめる少女に、「ルノよ」と微笑んで自分の名前を告げる。

「ルノ=コークラン」
「るの。こーくらん。こー、くらん。こーく、らん。コー…クラン」

 幼子のように何度も繰り返された言葉は、最後の「コークラン」だけ妙にはっきりとした音調でルノの耳に届いた。

「コークラン」

 ひらりと格子の間から伸ばされた白い手が宙を彷徨い、ルノの銀の髪を捉え、そこから頬をたどり、眸へと指を伸ばした。まるで色を確かめるかのように指先が眸のふちをなぞる。銀の眸が繊月のごとくつぅと眇められた。無表情に近かった少女に、甘い微笑が咲く。

「コークラン。ずっと、あいたかったわ」

 その指が確かな意思を持って、ルノの眸に迫る。

「――やめろ、聖音鳥シュロ

 シュロの指がルノの眸を突き刺さんと迫ったのと、背後から首根っこをつかまれ、乱暴に鳥籠から引き離されたのは同時だった。

「な――!?」

 思わず息を詰まらせそうになりながら、ルノは首元を押さえて顔を振り上げる。そして認めた姿に目を瞠った。

「シャルロ=カラマイ!? お前、どうして、」
「こんなところにいるのかって? きみこそ、どうしてこんなところまで入り込めちゃったの。あれはこのユグド王国にしてもっとも優れた『魔術師』が知力と魔力を駆使して作った封印だったのに」

 シャルロ=カラマイの言葉が謎なのはいつものことだったが、今はことさらだった。どういう意味だとルノはさらに言い募ろうと口を開くが、刹那、けたたましい叫び声、否、獣の呻き声のようなものが耳をつんざき、息をのんだ。ひらりひらりと白亜の床に羽根が降る。銀製の鳥籠の中にすでに先ほどの少女はおらず、代わりに白い翼と銀色の眸を持つ鳥が苦しげな咆哮を上げながら翼を広げようと身をよじっていた。大きな翼を開ききるには鳥籠はあまりに小さい。翼が鳥籠の格子とぶつかってぎしぎしと音を立て、うっすら血を流し始めた。

「だめ、開けてあげなくちゃ」
「やめなよ。死にたくないんならね」
 
 鳥に駆け寄ろうとしたルノを冷たい声がはばむ。広げた翼に鳥籠から突き出た銀の棘が刺さった瞬間、苦痛の声が鳥の喉からほとばしり、壁や床に共鳴を起こした。天空を覆う硝子に亀裂が走り、ぱん、と頭上で弾ける音がして、一気になだれ落ちる。月光を反射してきらきらと輝く硝子片がルノの頭上に降り注いだ。いけない、と思うのだけど、逃げ場所などどこにもなく、ルノは両腕で頭を抱えて、ぎゅっと目を瞑った。衝撃を予想して、肩を強張らせる。だけど、一秒待っても、二秒、三秒待っても、一向に硝子片は落ちてこない。おそるおそる目を開ければ、ルノの頭をすっぽり覆うように広げられた黒ローブがあった。

「本当にきみってひとは会うたびに熱烈な歓迎をしてくださるよね、聖音鳥」

 薄く嗤うシャルロ=カラマイの左手にはあの銀製の懐中時計が載せられている。よく磨かれたまるい銀色は淡く光り、蓋に軽く触れているだけの男の指先からも光の粒子が泉が湧き出すように溢れていた。落ちてきた硝子はすべて男の広げた黒ローブを弾くようにして床に散っている。
 ――魔術師。
 この国からは失われてしまって久しい。祖母のイェナ女王が子どもの頃は、まだ少し残っていたらしい魔術師はルノが生まれる頃にはほとんどいなくなってしまって、今となってはもはや伝説の遺物に等しい。ルノはかつて一度だけクレンツェの市場で会った老魔術師を思い出し、しかしその老人と比べるべくもないほど強い光に満ちた男にほのかな恐怖すら覚えた。鳥の咆哮に呼応するように、シャルロ=カラマイの右手がうっすら光を帯びていっていることに気付く。浮かび上がったそれ。逆十時。ユグド教においては悪行の限りを尽くして磔刑に架かったイバラの王を示す。

「お前、それ、」

 だが、ルノの口からこぼれた呟きはシュロの叫び声によってかき消された。逆十時が男の手の甲に浮かび上がったとたん、シュロの様子に異変が生じる。鳥籠を壊さんばかりに何度も身体を打ちつけ、羽根から血が流れているにもかかわらず、ばさばさと激しい羽音を立てて翼を開こうとする。銀色の眸には、獲物を狩る鷹のような恐ろしい光が宿っていた。

「……えん……!」
「今はシャルロ=カラマイですってば。そんな昔の名前で呼ばないでよ。さびしくなって、しまうでしょ?」
 
 すぅっと男の眸に空虚な色が宿る。けぶる睫毛の下に隠れたそれは儚い星のようだった。一瞬怯んだ風に動きを止めたシュロを冷ややかに見下ろし、シャルロ=カラマイの指先が懐中時計をなぞる――、そのときだった。けたたましい鐘の音があたりに響いた。重苦しく打ち鳴る鐘はびりびりと床や壁を震わせるようで、「今度は何よ!」とルノは癇癪を起こす。

「七大老が気付いたな。これだけどんぱちやってれば当たり前だけど」
「七大老って? 教会の?」
「うん。逃げますよ、ルノ姫。ワタシもあなたも、教会上層に見つかったらまずいでしょ」

 言うやシャルロ=カラマイは懐中時計を内ポケットにしまって、出口に向かってきびすを返した。後ろからシュロの叫び声と鳥籠に身体を打ちつける音がする。心配になって背後を振り返ると、血走った銀の目が神学生の後姿を見つめていた。

「姫!」

 強い声で呼ばれる。それでもしばらくためらっていたが、一度は止まった鐘の音がまた鳴り始めたのに気付くと、ルノはかぶりを緩く振って、すでにさっさと階段を上っていってしまっているシャルロ=カラマイの背中を追った。


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