階段を一段飛ばしで上りきり、息を喘がせながら壁に手を当てる。そうすると、固い石壁の感触がふっとなくなり、次の瞬間には外へと弾き飛ばされていた。反動でたたらを踏み、「きゃ」とルノはよろけた足元へ目を落とす。出た場所はさっきと寸分変わらぬ北塔の一角であるようだったが、あのとき床に浮かび上がっていた幾何学模様や光の柱はなくなってしまっていた。見上げると、ドームに架かっていた月も少し西のほうへ傾いている。鳴り響く鐘の音に追いたてられるようにして来た道を引き返しながら、ルノは「そういえば」と隣を走る男を仰ぐ。 「あなた、どうして私のあとを追ってこれたのよ」 「ワタシに言わせれば、きみがあそこに入れたほうが驚きなんだけどね。当たり前だよ。あの封印を作ったのは俺だもん」 「ふういん?」 「そう。月が決まった位置に架からない限り、入ることはできない。月光が射さなければ、扉も外から開かない仕組みになってんの」 「……あなた、いったい何者よ」 「見ていてわかんなかった? 魔法使い。きみら俗世間の住人が言うところのね」 驚くことをあっさり言ってくれるものである。 魔術師。今ではほとんど存在しない伝説の遺物がこの男であると? うかがうようにして見た男の横顔は、だけど、まだ二十歳を超えたか超えないかくらいのそれで、やっぱり信じられなくなってしまう。 「魔術って、お前みたいな若い男でも簡単に使えるものなの?」 「まぁ、素質によるところの大きいモンですからね。年は関係ないよ。問われるのは、数学的なセンスと閃き。あとは論理的思考。ワタシの知ってる子は、十歳にしてワタシなど及びもつかないひとかどの魔術師でしたよ」 そのとき不意にシャルロ=カラマイが足を止め、注意深そうな仕草で壁に耳を当てた。こっちに誰か来るね、と呟く。ルノにはまだ足音のようなものは聞こえなかったが、シャルロ=カラマイの耳はとっくに音を捉えているらしい。この男ももしやシュロと同じで、変身して黒猫にでもなるんじゃないだろうか。疑念に駆られたルノが爪先立ちをして、男の頭に耳がついていないか確認していると、「何やってんの?」と呆れた声が降った。 しばらく壁に耳を当てていたシャルロ=カラマイはするりと身を離すと、廊下から階段に出た。少し前、ルノがユゥリートを追いかけて上ったあの階段である。あのときは結局見失ったきりになってしまったけれど。 ――ユゥリートはいったいどこに向かっていたのかしら。 ルノはあたりに一時視線をめぐらせたが、シャルロ=カラマイが階段を下りていってしまうのに気付いて、きびすを返した。盲目的にひとに従うのはルノの好むところではなかったものの、シャルロ=カラマイが「ひとが来る」と言っている以上、さらにそれが彼自身の危険に直結した事項である以上、嘘でないと信じたほうがよいだろう。 「でも、きちんと事情を話せば、七大老だってわかってくれるんじゃないかしら」 するすると影が滑るかのごとく歩く男の背を見つめながら、ルノは呟いた。 「そう思うならどうぞご自由に。その銀髪の説明をどうするのか知らないけど、俺のことは巻き込まないでね」 「そ、そういえば、そうだったわね……」 こめかみのあたりを押さえ、ルノは唇を噛む。ルノの銀髪は王国中でも王族の直系にしか出ない特徴的な色だ。かつらは階段から転がり落ちる途中で落としてしまったし、一国の王女が身をやつして教会をうろついていたことの釈明は難しそうであった。そもそも、教会の大老たちは聖音鳥があの場所に閉じ込められていることを知っているのだろうか。知っているなら、何故、あのような鳥籠に閉じ込める。神の愛した小鳥を、まるで咎人か何かのように。疑問は答えを持たないまま次々と浮かんできて、まるで底なし沼に引きずり込まれたかのような気分になった。足裏から伝わる大地が揺らいだ心地がして、ルノはきつく眸を瞑る。その拍子に、急に足を止めた男の背に鼻先をぶつけた。何よ、と抗議の声を上げようとすれば、それを遮って「誰だ!」という鋭い誰何の声がかかり、眼前に強い光が射す。宙に掲げられたランプの光に浮かび上がったのはふたりの男。警邏か、それとも、先ほどの鐘の音で駆けつけた教会兵か、とにかく誰かに見つかってしまったのだ。 「学生だな? こんな夜更けに何をしている。名と学年を言え」 「四学年、ユゥリートです」 「ちょ……!」 さらりと今嘘をついた。これではユゥリートに濡れ衣が着せられてしまうではないか! ルノが非難をこめてシャルロ=カラマイの黒ローブを引っ張ると、警邏だか教会兵だかがルノのほうへもランプの光をやった。 「お前もだ。名と学年を」 「……に、二学年、ウ――」 ウル、とここで名乗っていいものか、ルノは逡巡した。学年も違うし、取り立てて珍しい名というわけではないから、平気だとは思うが――、何せルノの兄上の名前なのだ。兄妹らしい親愛の情などは皆無であったが、ルノのせいで面倒ごとに巻き込んで、あの蛇のごとく粘着質で執念深い男の不興を買ったらたまったものではない。それで、とっさに別の名前を考えていると、痺れを切らしたらしい警邏が「お前の連れか?」とシャルロ=カラマイに問うた。 「え、違います。ボク、こんな子知らないなぁ」 「あなた! シャルロ=カラマイ!」 シャルロ=カラマイが愛らしく小首を傾げてしらを切る。これにはルノも激怒した。「どの口がものを言うのよ!」と叫んで、男の靴を思いっきり踏んでやる。いてっとシャルロ=カラマイが悲鳴を上げた。 「『シャルロ=カラマイ』……?」 ルノが意識せず叫んだほうの名前を反芻し、警邏が顔を見合わせる。ちっとシャルロ=カラマイはあっさり猫かぶりをやめて舌打ちした。広げられた黒ローブがルノの視界を覆ったかと思うと、淡い光の粒子をまとった指先が目の前に掲げられたランプの表面に触れる。中の火が強い輝きを放って小さく爆ぜた。ランプに嵌めこまれた硝子を割るほどではないものの、目くらましには十分。驚いてたたらを踏んだふたりにくるりと背を向け、シャルロ=カラマイは今しがた下ってきた階段を二段飛ばしで駆け上がる。そんな芸当ができないルノはせいぜい一段飛ばしで追いかけるしかない。上りきったところで今度は三階から降りてくる警邏。ふたりで相手を押し合うようにしながら廊下に飛び出る。先も見えない暗闇の中、走る、走る、走る。曲がり角のところでそっと壁に背を預けて隠れると、警邏がすぐそばを通り過ぎていった。その頃にはふたりともとっくに息が上がっており、どちらともなくだらしなく床にしゃがみこんで、汗だくになった額をぬぐう。シャルロ=カラマイは黒ローブの襟を少し緩めながら、恨みがましい視線をこちらに寄越した。 「もう、きみ何? 何で『シャルロ=カラマイ!』って叫んじゃうの? 馬鹿じゃない?」 「あなたこそ、私を知らないって言ってひとりで逃げようとしたでしょう! 卑怯者!」 「だから、きみが彼らを引きつけているうちに魔術を使うつもりだったんだよ」 「嘘よ。私があのひとたちに捕まっている間に逃げるつもりだったんだわ」 「……王女さまなら少しは自国民を守ってくださったらどう?」 「お前みたいな卑怯者の嘘吐きでなければ、もちろん身体を張って守って差し上げるわよ」 ルノはつんとそっぽを向く。走り回った上、言い合いまでして本当に息が上がってしまった。胸を手で押さえて息を整えていると、また足音がしてきて、ランプを持った警邏が走っていく。それをやり過ごすと、はぁと疲れの色の濃い息をつき、シャルロ=カラマイが身じろぎした。 「しばらく外が鎮まるまで待とう。そこ、うちの図書館でしょ。図書館なら、ひとも来ないよ」 むくりと起き上がると、シャルロ=カラマイはステンドグラスの嵌まった正規のドアではなく、足元にある小さな、おそらく普段は通気用に使われているのであろう戸を引いた。もはやその是非は問わず、ルノは猫がそうするように身体をかがめて、狭い引き戸をくぐった。 若干の埃っぽさに軽くむせながら、顔を上げる。中はしんと静まり返っていた。青い月光が窓から注いで、部屋いっぱいを埋める高い書棚を照らし出している。シャルロ=カラマイがするすると奥にある梯子を上っていったので、それに続くと、中二階のようになった空間にはさした大きさない小部屋が広がっていた。古びた机には、ランプと読みさしらしい本が何冊か。シャルロ=カラマイは指をぱちんとひとつ鳴らして火をつけると、カーテンを開いた。 「ここはあなたの部屋か何か?」 「まーね」 「嘘よ。勝手に占領しているのだわ」 「そうとも言う」 くすっと笑い、シャルロ=カラマイは椅子を引いた。ぱらぱらと無為にめくった本を閉じてその上に腕を置く。ふと鉄錆のような独特の臭いに気付いて、ルノは眉をひそめる。ランプの淡い光に照らされた右腕はよくは見えないものの、袖が少し破れているようだった。 「……お前、怪我をしているの?」 尋ねると、左手で頬杖をついていた男は金の眸を瞬かせ、「心配してくださるの?」と薄く笑った。 「ダイジョウブ。薬代と包帯代はあとでいただきますから」 「そういうことを言っているんじゃないわ」 どうしてこの男はすぐに金の話を始めるのだろう。憮然となって、ルノは口をつぐむ。だって、もしも怪我をしたとしたら、あの、降り注ぐ硝子からルノを守ってくれたときなのではないかと。苦しさが胸にこみあげてきて、ルノは、ごめんなさい、と小さな小さな声でぽつんと呟く。シャルロ=カラマイは頬杖に顎を乗せながら、「きみって昔から謝ればいいと思ってるよねえ」と苦く微笑った。 |