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13




 ふわぁ、と大きなあくびがひとつつかれる。対面に腰掛けるシャルロ=カラマイは金の眸をいつもよりとろんとさせて、涙の滲んだ眦を手の甲でこすった。

「眠いなぁ。ねぇルノさま、俺少し寝ていい? 疲れちゃった」
「いいけど。お前、ひとには金だのなんだのせがむくせに、自分のときは平気でものを頼むのね」
「だってルノさま、俺が今日どれだけきみのために働いてあげたと思ってんの。硝子降ってきたときも庇ってあげたしさぁ」
「それは、感謝しているわよ」
 
 こんな風に恩着せがましく言われなければ、もっとずっと。あのときルノを見捨てないで守ってくれたことはありがたく思っているし、怪我をさせてしまったことについては深く反省もしている。なのに、この男を前にすると、いつもなら簡単に出てくる『ごめんなさい』や『ありがとう』がうまく言葉にできない。妙につっけんどんで、刺々しい口調になってしまうのだ。
 ――なんなのよ、もう。
 調子が、狂う。
 この自分が乱される、振り回されてしまう、この男の言動や表情そういったものすべてに。それが気位ばかりが高いルノには気に触ってしょうがない。胸のあたりでとぐろを巻く苛立ちを息を吐き出してごまかし、ルノは対面で緩やかに上下する金色の頭に一瞥をやった。机に無造作に置かれている右手が目に入る。シュロと相対したとき燦然と輝いていた逆十字は今は影も形もなくなっていた。

「ねぇ、お前はいったい何者なの?」

 思い切って口を開く。規則的に上下する肩の動きがほんの一瞬だけ遅れた気がするが、男からの返答はなかった。

「……そう、無視するの。いいわ、私は私で勝手に喋るから」

 金の頭から目を離すと、ルノは自分の右手に人差し指で逆十時を書いてみる。

「逆十時は普通、罪人の額や腕に押されるものだわ。でも、お前のそれは右手の甲にあって、消えたり浮かんだりするのね」

 反応はない。
 本当に眠っているのだろうか。それとも、眠ったふりをしているだけなのか。
 どちらだってかまわない、とルノは思った。

「シュロはお前を狙っている風だった。お前はあの子の名を呼んだわね? あなたたちは知り合い? いいえ、とてもそんな風には見えなかった。それからあの子は私に『ずっとあいたかった』と。あれはいったいどういう意味だったのかしら……」

 考えれば考えるほど、謎めいてくる。シュロの鋭い爪はあのとき確かにルノの眸を狙っていた。突き刺そうと、していた。紛れもない敵意。殺意。だけど、そんなものを向けられる覚えがルノにはない。
 口元に手をあてがってルノが沈思してしまっていると、不意に、音もなくシャルロ=カラマイが身を起こした。てっきり何か話をしてくれるのかと思いきや、金の眸は敵をうかがう獣か何かのように眇められており、一言、「誰か来た」と呟く。本当にこの男の耳はどうなっているのだろう。「誰か?」とルノが身じろぎしようとすると、しっ、と鋭い声が飛ぶ。シャルロ=カラマイが手元のランプの火を消した。燃え残った灯心から白い煙が立ち上る。そのとき、外のほうで鍵が外される気配がして、ぎぎっと扉の軋む音が響いた。中へ踏み入る複数の足音がする。ルノはそっと椅子から下りると、中二階の小部屋から梯子の架かった階下のほうへと視線を投げやる。書棚の間を歩く二、三人の男の頭が見えた。みな一様に大きな空の麻袋のようなものを下げて、腰には何か黒い無骨なものをぶら下げている。さっきの警邏たちとはどうも雰囲気が違う。男たちは異国っぽい言葉を数言交わし合うと、地下の書庫のほうへ降りていった。姫、といつの間にかすぐかたわらにかがみこんでいたシャルロ=カラマイがこちらの肩を叩く。

「今のうちに逃げるよ」
「逃げる? ここでやり過ごすんじゃなく?」
「ここは見つかったら逃げ場がないでしょ。あいつらちゃんと見てたの? 腰におっきな銃ぶら下げてた」
「じゅ……!」
「しー」

 叫びかけると、シャルロ=カラマイの人差し指が口元に当てられる。
 度胸には自信のあるルノもこれには動揺してしまう。だって、銃だなんて。この平和な王国でそんなものをぶら下げて歩いている人間など見たことがない。遠く離れた人間を引き金ひとつで撃ち殺せる銃器は、そのあまりの殺傷性の高さからすぐにスゥラ王による禁令が出て、以来ユグド王国に持ち込むことは固く禁じられている。もしもそんなものを平然と持ち歩いているのなら、それこそ表の世界ではない人間だ。

「……あなた、さっき使ってたマホウとやらでどうにかできないの?」
「馬鹿言わないで。魔術師っていったって超人じゃないんだから、秒速で飛んできた弾を止められるわけないでしょう。早く逃げるよ」

 まったく頼りにならない台詞をもっともらしく言って、シャルロ=カラマイはするりと猫のように梯子を滑り降りた。ルノも音を立てないように注意を払ってそれに続く。図書館の背の高い本棚は身を隠すには好都合だった。並んだ本棚に沿って、足音だけには気をかけながら出口まで向かう。幸い男たちはみな地下の書庫へ行ってしまったようで、戸口に見張りのたぐいはいない。地下に続く階段からいつ彼らが戻ってくるだろうと考えると恐ろしくて仕方がなかったが、そうはいっても確かにシャルロ=カラマイの言うとおり、銃を持った人間とこの閉鎖された空間で追いかけっこをするくらいなら少しの危険を冒してでも外に出たほうが何倍もましというものだ。立て付けの悪い扉を避け、シャルロ=カラマイはさっき使った通気用の戸から外に出た。腰をかがめてくぐり抜けるときは緊張で背中が張ったけれど、どうにか難なく図書館の外に出ることができ、ルノはほぅと安堵の息をつく。だが、またも階段のすぐ前で、シャルロ=カラマイの背中が唐突に止まった。

「ちょっと。止まらないでよ、シャルロ=カラマイ」

 小声で前へ行くようどやす。けれども、シャルロ=カラマイは返事をしないどころかこちらを一顧だにせず、深いため息を吐いたのち、そろりと両手を挙げた。男の挙動に眉をひそめ、黒ローブの端から顔を出してはっとなる。金色の銃口を額に押し当てられた。――そこで。そこで、後頭部に重い衝撃のようなものを感じたのを最後にルノの意識は暗転する。





 その敷地に入るなり、ひどい耳鳴りがイジュを襲った。頭が割れるように痛む。ついに立っていられなくなってその場にしゃがみこんでしまうと、隣にいたヒヒが「おい」とイジュの肩に肉厚な手のひらを置いた。

「どうしたイジュ。お前、顔が真っ青だぞ?」
「……声、が聞こえませんか」
「声?」
「鳥の、こえ」

 ヒヒが不思議そうな顔をしたので、イジュは弱く首を振って返す。今はこんなところで足止めを食らっている場合ではなかった。顎をしたたる汗を乱暴に拭うと、イジュは壁に手をついて立ち上がる。舌打ちをした。耳鳴りがひどくて、王女につけたはずの『影の者』の声が聞こえない。これではあれらをつけた意味がない。壁を伝ってなんとかヒヒに追いつくと、ヒヒの手が学生寮の呼び鈴を鳴らした。もう夜も遅い。二度三度鳴らしてから、ようやっと小柄でふくよかな女性が顔を出した。ヒヒが非礼を詫びて、王兵であることを示す紋章をそれとなく見せる。驚いて目を丸くした女性に、ヒヒは声をひそめて言った。

「すまんが、あまり騒がないで欲しい。たいしたことじゃねぇ、ここで今手伝いをしているウルって餓鬼の部屋を教えて欲しいんだ」
「は、はぁ……」

 ペンネ、と名乗った女性は曖昧にうなずき、ヒヒとイジュとを通した。だが、少しも行かないところでイジュがまたかがみこんでしまったので、ヒヒと女性とが心配そうに駆け寄ってくる。

「行ってくださいヒヒ。私のことはいいので」
「あ、ああ。おいペンネさん、すまんこいつのこと頼んでいいか」
「はい。……あの、あなたがたはウルの?」
「心配ない。俺たちはあの方のいわば保護者みてぇなもんだ。あの子のじじさまが癇癪を起こしたんで、こうして迎えに来たのさ」

 ヒヒはペンネから部屋の場所を聞いて鍵を受け取ると、一瞬だけイジュのほうへ気遣わしげな視線を寄越した。無言で顎を引くと、心得た風の顔つきになり、きびすを返す。それを見届け、イジュは深く息を吐いた。

「すごい汗……お水、持って参りますね」

 ペンネの言葉に小さくうなずき、イジュは壁を背にして足を投げ出した。釦を外して襟を緩めるが、一向に呼吸は落ち着かず、耳鳴りもやまない。ああ、こんな場所。こんな場所、来るんじゃなかった。もう大丈夫だと、そう思っていたのに。甘かった、逃れられるわけがあるはずもないのに。次第に思考はちぢに乱れ、まとまりがつかなくなってくる。ずるずると背中が落ちていったので、イジュはとっさ壁に手をつこうとしたが、そこで視界が完全に暗闇にのまれ、遅れて意識も途切れた。





「ジュ……イジュ」

 ぺちぺちと冷たい手に頬を叩かれ、イジュはうっすら眸を開けた。ルノさまですか、と尋ねると、ぼんやりした人影が小さく首を振る。それで、意識が鮮明に蘇った。がばっと身を起こす。その反動でこめかみのあたりに痛みが走りきつく眉根を寄せると、リラが「だめよ、動いちゃ」と言って肩に温かなショールをかけた。

「あなた、ひどい熱を出しているの。さっきまですごくうなされてた。呼吸もどんどん弱くなってしまって、私どうしようかと」
「リラ。今、何時……ここはどこです? ルノさまは? ルノさまはご無事でしたか?」
「今は夜中の三時。あなたが倒れてから二時間も経っていないわ。ヒヒから言付けを受け取って慌てて私たちが駆けつけたの。ここは、大学寮の空き部屋よ。あなたは熱を出して、倒れたの」
「それでルノさまは……」

 言いながら、やけに外が騒がしいことに気付く。ばたばたと廊下を走るせわしない足音がしたので、てっきり自分の小さな主人が駆けつけてきたのかと思ったが、ドアを開いて現れたのは、ヒヒの焦燥しきった顔であった。

「だめだ、大学内にはいない」
「いない?」
 
 嫌な予感がした。
 イジュはリラが制止するのも聞かず、今度こそ身を起こした。

「誰が? 誰がいないっていうんです?」
「――ルノ姫だ。部屋はもぬけのから。大学にそれらしき姿もない。同室のシャルロ=カラマイとともに消えちまってる」

 その言葉に、イジュは顔を強張らせる。


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