ぴちょん、ぴちょん、と水音が額を叩く。その冷たさに薄く目を開けると、瞼のあたりにも雫が落ちてきて、思わず「冷たい」と悲鳴を上げてしまった。吸い込んだ埃っぽい空気に咳き込みながら、もぞもぞと身じろぎする。思ったように身体が動かせず、ルノが怪訝な顔つきになって手元に目を落とせば、両手首は後ろに回され、何か縄らしきもので縛られていた。試しに手をよじり合わせてみるが、ほどけそうにない。 「な、何よ、これ!」 「うるさいなぁ。ちょっと静かにしてくれない」 ルノが叫ぶと、すぐ横から冷めた声が返った。 見れば、壁によりかかるようにしてシャルロ=カラマイが同様に両手首を後ろで縛られた格好で座っている。蝋燭がひとつ灯されただけの薄暗い部屋には、ルノとシャルロ=カラマイしかおらず、代わりに所狭しと木箱や麻袋のたぐいが積まれていた。物置き場か何かのようだ。 「ここはどこよ? 私どうしちゃったっていうの?」 喋っていると、後頭部がずきずきと痛んできた。 それで、思い出す。あのとき、図書館から逃げ出そうとしたら、前を歩くシャルロ=カラマイが急に止まって。そう、それで不審に思って顔を出したら銃口を突きつけられたのだ。ルノは慌てて自分の身体を眺め回すが、幸いにも銃で撃たれた形跡はなかったし、頭にたんこぶを作った以外に怪我もないようであった。ふぅ、と息をつくルノのかたわらでシャルロ=カラマイが苦笑する。 「ご安心を。アナタもワタシも撃たれちゃいないよ。大学の中で銃声が鳴ったら、誰かが駆けつけるに決まってる。頭の回る奴なら、そんなことはしない」 「私たち、どうしたの?」 「蔵書か何かで頭を殴られたんじゃない? 常々あれは凶器になるよって言ってたけど、本当に凶器になるとはねぇ。うー喋ってると、頭痛い」 シャルロ=カラマイは眉間に皺を寄せて顔をしかめた。 「何故見ず知らずの人間に頭を殴られなくてはならないの……」 まったく理解できない、とルノは口を尖らせる。 その上、手首を縄で縛られるなど。屈辱的な仕打ちだ。 さぁね、と呟いたシャルロ=カラマイの視線がつとルノの肩越しに注がれる。つられて振り返ると、扉のノブががちゃがちゃと回される気配がして、さっきの男たちが現れた。ぜんぶで三人。背が高いのと、小さいのと、ぽっちゃりめのがいたので、ルノは、のっぽ、ちび、ぽっちゃり、と勝手に名前をつけることにした。のっぽが肩に提げていた重たげな麻袋を床に下ろす。ルノたちのほうへちらりと視線をやり、他のふたりを交えてぶつぶつと話し出した。とても早かったし、俗語混じりの部分もあって聞き取りづらかったが、ユグド語ではない――おそらくはクレンツェ語だ。 「何て言ってんの」 「私たちのことでもめてるみたい。それよりまずは、パパペーロ? パパベーロからだとのっぽが言っているわ」 「ふーん」 「あなた、クレンツェ語わからないの?」 「日常会話くらいならいけるけど。あれ、ちょっと南方系の訛りが混じってるでしょ。それで早口で喋られちゃうともうだめ。うーんなんだったけな、パパベーロ」 シャルロ=カラマイは首をひねる。それなら、ルノが精一杯彼らから言葉を聞き取らなくてはならない。ルノとて知っているのは王都周辺で使われるもっともポピュラーなクレンツェ語であるし、俗語や専門用語が混じってしまえば、すべてを理解するのは難しい。しかし、何が何やら状況がわからない今、少しでもいいから情報は欲しい。 のっぽがちびに目配せを送り、ちびが銃を構えてこちらにやってくる。はっとして口をつぐむと、ちびは訛りのあるクレンツェ語で、黙っていろ、と言った。ちびに見張りを任せたのっぽらはこちらに構うことなく、麻袋の口を開く。取り出されたのは、何冊かの分厚い本であった。男たちと鉢合わせた場所を思い出し、ルノは眉根を寄せる。図書館から盗んだのだろうか。説明はつくものの、夜中に男が数人がかりで銃を持ち出してきてまで盗むものとはとても思えなかった。 「ねぇ。図書館の本ってそんなに高価なの?」 「ものによるけどね。あれは量産本。彼らの狙いはそれじゃない」 囁くシャルロ=カラマイの視線の先で本が開かれ――、ルノは目を丸くした。あるはずのページが、なかったからである。本の内側は空洞になっていて、中に小さな袋がいくつも詰められている。のっぽたちは本の中から次々それらを取り出して、別の、頑丈そうな鞄の中に移していった。 「パパベーロ――そうか、花罌粟」 「ハナゲシ?」 「ポピー。鴉片の原料となる花のことですよ」 「鴉片!」 ルノが声を大きくすると、じろりとちびが銃をちらつかせて睨んできたので、何事もなかったかのようなふりをする。近頃、ユグド王国の地下で鴉片が横行しているという話は知っていた。風刺画はそんな鴉片の横行を取り締まれずにいるユグド王を嘲笑ったものだ。カメリオが愚痴をこぼしていたのを思い出す。王城の警備を強化しているのに、何故かクレンツェから鴉片が流れ込むのがやまないと。 「つまり、教会の輸入本に隠して密輸してたってわけだ。本の、しかも中身なんて城門検査でも確かめないからねぇ。うまいこと考えたもんだ、これを企んだ『彼』は商才がある」 シャルロ=カラマイが感心した風に言う。そういえば、この男はかつて城門警備の仕事を手伝っていたことがあったから、検査云々に関してはたぶん事実であろう。だけど、どうしてよりにも寄って教会の書物なんかに。考え、ルノははっとなる。先ほど男たちが図書館に入るとき、きちんと『鍵』を開けてはなかったろうか。それに、あれだけの蔵書の中から、鴉片の入った輸入本だけを見つけるだなんて至難の業だ。本は最初から人目のつかぬ地下室により分けられていた。 「もしかして……教会に協力者がいるってこと?」 「かもね。ひとりかふたりかあるいはそれ以上か。鴉片を売りつけ、懐を潤わせていたわるーい長老が、いるのかもしれないね。どうですルノ姫。この国の裏側を見てしまった気分は?」 意地悪い笑みを浮かべる男に、ルノは「とっても悪い気分よ」と素直に答える。シャルロ=カラマイはほんのり目を細めたが、それだけで、「だけど、ワタシたちに関する目下の問題はそこじゃない」と続けた。 「問題?」 「そう。鴉片の密輸と教会の繋がりをばっちり目撃しちゃっているワタシたちを奴らが生かしておいてくれると思う? というかね、これ、最初から生かす気ないんじゃないかなぁ」 そんな、とルノは唖然となる。けれど、今に限っていえば、シャルロ=カラマイの言葉は至極まっとうであり、むしろ自分たちを生かすつもりがないからこそ、彼らはルノたちの前で書物から鴉片を取り出して鞄に移すなどという行動を平然としてみせているような気もした。おそらく、鴉片を本から取り出して持ち去る際に、自分たちは殺される。ここか、あるいは、別の場所で。すでに運んできた本から鴉片を取り出し終え、麻袋を畳んでいる男たちを横目に、ルノはさりげなくシャルロ=カラマイのほうへ身体を寄せる。声をさらに落とした。 「……どうするのよ」 「うーん、どうしようか」 「ちょっとお前、少しは真面目に……」 噛み付こうとすると、それを遮るかのようにシャルロ=カラマイの金色の目が剣呑そうに眇められた。背後に影が差したことに気付き、ルノはぱっと振り返る。額に、鉄の冷たい感触。無骨な銃口を押し付けてくるちびの姿が視界いっぱいに広がった。シャルロ=カラマイに目をやるが、男は無感情にちびの手元を見つめているだけで、聖音鳥のときみたいに魔法を使ってくれる気配はない。その手が未だに縛られ続けており、微塵の光もまとっていないことに、ルノは落胆とそれを上回る絶望とを感じた。シャルロ=カラマイは、ルノを救う気など、ないのだ。ミスクーズィ。クレンツェ語で『悪いね』という言葉を吐き捨て、男の腕が大きく振られる。殴られる。殴られて、気絶させられて、連れ出されて、だけどルノはきっともう目覚ますことがない。そう思ったら、ルノの背中に衝動にも似た激しい悪寒が走った。 「ズメッティラ!」 気付けば、ルノは叫んでいた。 スメッティラ――やめろ! という意味を表す命令形である。ルノの声に驚いた様子で男の手が横にぶれる。耳をかすめた鉄の気配。――それた。だけど、終わりじゃない。心臓がどくどく激しい音を打ち鳴らしていた。膝が震えている。説得もしくは交渉を、しなければならないのだけども、ルノの頭は混乱し、焦燥し、すっかり他のクレンツェ語を忘れてしまっていた。それがまたルノを焦らせる。わたし、どうして忘れてしまっているの? ああ、クレンツェ語で『わたし』って何て言うのだったのかしら。そのとき、折よく背後の扉が開いて、外で見張りをしていたらしいふたりの男が入ってきた。口早に何かを急きたてる。すべてを聞き取れたわけではないが、「外」「王兵」という単語がなんとか拾い取れた。こちらをちらりとうかがってから、ちびは銃をズボンに挿した。ここを出るな、といった意味合いの言葉を短く言いつけ、走り出て行く。外から錠をかけられる音がした。このままルノたちを置いて逃げていってくれれば、と期待したのだが、鴉片をすべて置いていったところを見るに、そうではないらしい。教会の協力者とやらに状況をうかがいに行ったのだろうか。それでも、彼らがいなくなると、ほう、と知らず安堵の息がこぼれ落ちる。まさにさっき死を覚悟していたところだったので、変に肩の力が抜けてしまった。 「そんなにびくつくことないのに。たぶんまだ気絶させるだけでしょ」 「気休めを言わないで……」 確かに銃身で殴られただけでは死にはしないだろうが、それは遅いか早いかだけの違いであって、おそらく場所を移して彼らはルノたちを始末する気であろう。ルノが力なく首を振ると、シャルロ=カラマイは金の眸に思慮深い光を湛えて、扉のほうを見つめた。 「……奴ら戻ってくるまでどれくらいかかるかな」 「そうよ、シャルロ=カラマイ。あなた、魔術師なんでしょう? 魔法でそこの扉を開くことはできないの?」 男たちがいなくなったので、声を元の大きさに戻しながら、ルノはシャルロ=カラマイに期待をこめた視線を送る。 「はぁ?」 だが、返ってきた反応は予想外につれない。ルノがいぶかしげな顔をすると、シャルロ=カラマイは眉をしかめて、あからさまに呆れたような顔をしてみせた。 「きみさ、ちょっと魔術師を便利屋か何かと勘違いしてない? あのね、ワタシの扱っている魔術っていうのは、炎の精やら水の精やらと仲良くして助けてもらうやつじゃない。理論と数式の世界なの。空気と火種があるから、火をつけられるんだし、水があるから氷ができる。ワタシにできるのはせいぜい、あの扉のノブの形を変えることくらいだね」 「だって、あなたさっき、硝子片から私を守ってくれたじゃない」 「あれはローブの硬度をいじっただけだよ」 「ポケットからビスケットを出したわ」 「最初から入ってたに決まってんでしょ」 にべもなく返され、ルノはついに叫んだ。 「それじゃあ、何か方法はないの!?」 「だから、今それを考えている最中なんですってば。うるさいなぁ」 煩わしげに片頬を歪めて、シャルロ=カラマイが答える。方法が浮かばないことに起因する苛立ちであることは明白だった。ルノは唇を噛む。誤算だった。ルノの見立てでは、見張りの男さえいなくなってしまえば、シャルロ=カラマイの魔術でどうにかできると踏んでいたのに。頼みの綱である神学生は壁に背を預けたまま目を瞑ってしまったので、ルノはやきもきしてきて、立ち上がり、部屋の中を意味もなくぐるぐる歩き回った。壁に無造作に立てかけてあった箒を見つけて、「あ」と声を上げる。 「箒で空を飛んで、あそこの高窓から逃げ出すのはどうかしら?」 「あのねー……。その細っこい柄でキミとワタシの体重が支えられると思う? それこそ、ワタシの大嫌いな『ふぁんたじー』だよ」 「それなら、扉に大穴を開けてしまうのは?」 「できなくはないけど、そのレベルの魔術は瞑想に三十分余必要」 「……あなた」 「ナニ?」 「万能そうに見えて、実は結構役立たずね」 思わず本音を漏らしてしまうと、シャルロ=カラマイは「ほう」と冷ややかな視線をこちらへ寄越してきた。アナタこそ、とシャルロ=カラマイは立ち上がって、ローブの裾を払いながら口を開く。 「さっきからワタシにどうにかしろって言ってばっかり。少しは自分の力でどうにかしようとしたらいかがでしょうかねルノ姫」 見れば、シャルロ=カラマイの両手は自由になっており、男の足元にはふたつに切れた縄と硝子片とが忘れ物みたいに残されていた。ずっと壁を背にして座っているだけなのかと思っていたら、硝子片で縄を切っていたらしい。目を瞬かせたルノのかたわらにしゃがみこみ、シャルロ=カラマイはルノの後ろ手首を拘束する縄を手に取った。てっきり解いてくれるのかと思ったのだが、男はそのまま動かなくなってしまう。 「……何で助けないのよ」 「いやね、どうしようかなぁって思って。さっきから姫、全然可愛げがないんだもの。お金ももらってないしねぇ。果たして、役立たずの名までいただいたワタクシなぞがあなた様ほどのお方に力添えする必要があるのかなぁって」 「ちょっと、お前まさか私を見殺しにするつもりじゃ」 「されたくないなら、取引してごらんよ姫。二年前みたいにさ」 ふたつの金色にすぅっと眸を覗き込まれる。妖艶な、魔物のような眸。 男の眸には冷ややかな理性と好奇心とが同居しているだけで、イジュやカメリオ、ヒヒやイライアたちのような慈愛のこもった温かさなどは欠片もない。当たり前だ。ルノを守り、慈しむ彼らと、この男とは違う。ルノとは何の関係もない、男。男の性格から考えて、王族に盲目的にかしずく人間でもないのだろう。彼と五分のフィールドに立つには、ルノは常に知略を駆使して取引を持ちかけねばならない。しかも彼を満足させるだけの、高級な。ルノの心に、それまでなかった、たぶん、生まれてこの方感じたことのなかった、淡い恐怖が生まれた。そのことに自分自身で戸惑う。――負けたくない。負けることが、こわい。この男に、負けることが、こわい。ルノが知らず男から目を伏せてしまうと、くつくつと喉奥から忍び漏らすような、狡猾な、ハリネズミの嗤いが落ちた。 「――時間切れだ」 ぱこっと懐中時計を開き、男は腰を上げた。そのままルノを置き去りにして扉のほうへと向かう。指に淡い光の粒子が集う。それが扉の木目にあてられると、みるみる中にもうひとつ小さなドアが浮かび上がった。木製のドアノブを調整でもするみたいにかちゃかちゃと回し、ひと息に押し開く。外へ通じた。満足げにうなずくと、シャルロ=カラマイはローブのフードをひょいとかぶって腰をかがめ、半身をくぐらせた。 「ま、待って! 待ちなさいよシャルロ=カラマイ!」 「ごめんねぇ、ルノ姫。ワタシも我が身が可愛いからさ。じゃあ、お先に。せいぜいきみはそこで無様に這い蹲って、お祈りでもしていらしたらいかがでしょう? ここは教会だから、もしかしたら優しい神サマが気付いてくれるかもしれない」 まったくあてにならないことを笑いながら言って、小さなドアからひらひらと手だけが振られた。ぱたん、と扉が閉じる。その瞬間、扉は元通りになり、急ごしらえだったドアノブも煙みたいに消えた。 |