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15




 残されたルノは文字通り呆然とした。
 少ししてから、自分があの神学生に本当に置いていかれてしまったのだと理解する。そしてその事実にも、しばし呆然となった。まさか、という甘えがあった。いくら薄情で、利己主義を絵に描いたような男だからといって、まさかこんな命を賭けた局面でルノを本気で置いていくなどと。ないと思っていた。ありえないと思っていた。助けてくれると、思ってた。

「なんって男なの!?」

 ルノは男が消えた扉に向けて叫んだ。

「非常識にもほどがある! あの悪魔! 守銭奴! あんな奴が仮にも神学生を名乗ってるだなんてどうかしているわ! 私が死んだらどうしてくれるのよ!!」

 気付けば、息が上がっていた。ぽろぽろとこらえきれなかった涙が頬を伝う。そんな自分が悔しくて、みじめったらしくて、ルノはシャルロ=カラマイが残していった忌々しい縄を足で何度も踏みつけてやった。縄のそばに落ちていた硝子の先端が足裏を刺す。痛っ、と思わず足を引き、ルノは足裏を押さえた。鋭く走った痛みがルノの昂ぶった感情を急激に冷やしていく。私が死んだら、どころではない。このままぼぅっと突っ立っていれば、あの鉄の塊みたいな銃で頭に穴をあけられ、ユグドの森だか海だかに人形みたいに捨てられる運命が待っているのだ。
 ルノは喉を震わせ、何度もしゃくり上げる。
 頭が少し冷えて、理性が舞い戻ってくると、今度は苦い自己嫌悪が胸をせりあがってきた。――取引してごらんよ姫。二年前みたいにさ。シャルロ=カラマイがそう持ちかけてきたとき、何故ルノは乗ろうとしなかったのだろう。万に一つの可能性をかけて勝負を仕掛ければ、起死回生の一手をつかめたかもしれないのに。ルノはためらい、怯えて、勝負そのものを放棄した。そう、怖かったのだ。うまい取引を持ちかけられずに、己の矜持をずたずたに引き裂かれることが。目の前の男に落胆されることが。怖かったのだ、ルノは。臆病風に吹かれたのだ。それが、悔しくて、恥ずかしくて、たまらない。そして、逃げを打ってもなお、相手が救いの手を差し伸べてくれるのではないかとどこかで甘い期待を寄せていた自分が今、とても嫌い。
 ルノは喉のあたりでこごった熱っぽい息を吐き出すと、床に落ちていた硝子片を手に取った。背中に手を回された状態で拾い上げたので、うまくつかめず、少し手間取りながらなんとか縄を切り始める。だけど、さっぱりうまくいかない。焦って力をかけすぎてしまって硝子片を取り落としてしまったり、尖った面を上手に縄にあてられなかったりして、ちっとも作業は進まなかった。苛立ち、途中で投げ出したい衝動に駆られながらもルノは奥歯を噛みしめ、手を動かす。最後のほうは半ば無理やり引きちぎったといってよかった。おそらくはシャルロ=カラマイの二倍くらいの時間をかけて縄をちぎり、ルノはやっと自由の身になる。固く縛られていたせいでまだ少し痺れている手のひらへ目をやると、硝子片で切ったのか、ところどころ皮が裂けて真っ赤になっていた。それを握りこみ、ルノは扉と向かい合う。シャルロ=カラマイが作った扉の痕が残ってはいないかと淡い期待をかけてみたが、表面の木目は滑らかで、先ほど浮かび上がったはずのノブも綺麗さっぱり消えていた。試しにドアノブをまわしたり、扉に体当たりをかけてみたりしたが、びくともしない。ヒヒのようなガタイのいい男ならともかく、ルノのような非力な少女が体当たりをしてみたところで扉が開くわけがなかった。

「誰か!」

 ルノは最後の望みを賭けて、扉をこぶしで叩いた。

「誰かいないの? 助けて! 閉じ込められているの! ねぇ誰か!」

 骨が折れてしまうんじゃないかというくらい強く叩く。だが、古びた扉はそ知らぬ顔を決め込んで沈黙するばかりだ。ルノはシャルロ=カラマイ、そしてのっぽたちが出て行ってから経過した時間を考えた。ゆうに一時間は過ぎている。今の状態なら、もういつ帰ってきてもおかしくはない。
 どうする。どうすればいい。
 ルノは苛々とあまり広くもない部屋の中を歩き回る。どこかに隠れていて、のっぽたちが戻ってくるや隙をつき、後ろから頭を殴って銃を奪う。そんなことも考えてみたが、すぐにルノは首を振った。現実的でない。ルノのような武術の心得のない娘がうまく男の背後に回りこめるかわからないし、ましてや殴って気絶をさせるなど。その過程で誰かに発砲されてしまったらアウトだ。かといって、狭い部屋に他にドアや抜け道のたぐいはなく、無数の木箱が山のように積まれているだけだった。それでは、木箱に隠れるのはどうだろう? ルノは考え、そばにあった箱によじ登って、中を開いてみる。葡萄酒らしき瓶が詰まったそれ。確かにルノの身体くらいなら入りそうだったが、あまり長く隠れられそうにはないし、箱を開けられてしまったらもう逃げ場がない。得策とは言えない気がした。

「どうすればいいのよ……」

 ルノは髪をぐしゃぐしゃとかき乱して、抱いた膝に顔を突っ伏した。あれもだめ、これもだめ、八方塞だ。強張った喉が震え、泣きたくなるのをルノは必死でこらえる。真っ黒い絶望がひたひたと足元から這い上がって身体ぜんぶをのみこもうとしているのがわかる。ねぇ、ほんとうに? 本当にこれで終わりなの、ルノ=コークラン。偉そうなことばかり言って、お前って所詮そんなものだったの。尋ねる声がする。
 別に、ユグドの森だか海だかに人形みたいに打ち捨てられるのが怖いわけじゃない。――いいえ。怖い。本当を言えば、きっと怖いのだけど、ルノがいちばん恐ろしいのは、自分の、ルノ=コークランの敗北だ。負けたくない、負けたくないから、ずっと何にも負けてこなかった。ルノ様はお強いと皆が言う。そのとおり、ルノ=コークランは強靭だ。幼い頃から。スゥラ王がほとんど構ってくれなくて、唯一の兄がルノを置いて王宮から出て行ってしまったって、ルノは泣き言なんか言わなかった。たったひとりの理解者であった母親、シュロ=コークランが樹上に召されたときですらも。めそめそ泣いたりしなかった、少なくとも人前では。わたしは、強い。ルノは、そう信じている。わたしは、強い。それは呪文だ。ルノが、ルノ=コークランであるための。呪文。
 ゴォン、と鐘が鳴った。
 夜明けを知らせる鐘だろうか。地響きにも似た重低音が床や壁をびりびりと震わせる。
 ――せいぜいきみはそこに這い蹲って、お祈りでもしていらしたらいかがでしょう?
 激しく打ち鳴る鐘と一緒に小馬鹿にするような男の声が蘇り、ルノは唇を噛む。と、不意に思い当たることがあって、天井へ視線を跳ね上げた。まもなく沈みそうな月を映している窓のその隣。――空気口。かなり小さくはあったが、ルノの身体ならやろうと思えば通り抜けられる。

「これだわ」

 そのあとのルノの行動は早かった。木箱の中に入っていた葡萄酒瓶をすべて外に出し、軽くなったそれを重ねる。五つほど積み上げると、狭い天井近くの空気口にも届く高さになった。しがみつくようにして木箱をよじ登り、空気口のふちに指をかける。だが、そのとき、外のほうから複数の足音が戻ってきた。がちゃがちゃとノブが回される音。ルノは慌てて空気口の中に身体を押し込めた。どっと押し寄せてきた埃に軽くむせながら、肘を使って身体を押し進める。背後でドアノブが回され、扉が開く。それとルノの爪先が木箱を蹴って空気口の中に入りきるのは同時だった。いなくなったルノたちに気付いたのか、男たちがクレンツェ語で狼狽した風に何かを言い合う。それを背に聞きながら、ルノは肘を使って懸命に前へと進む。不自然に重ねた木箱は置いてきてしまったから、ルノが空気口から逃げたと彼らが気付くのは時間の問題だろう。ルノの小さな体躯でもぎゅうぎゅうのこの通路に大の男が入ってこられるとは思えなかったが、それでもやはり怖い。肘が擦れてじんじん痛んでくるのも構わずに、ルノはがむしゃらに前進を続ける。こんなところで殺されてるなんて嫌よ、と思った。あの非道で悪魔な守銭奴に一発拳骨を食らわせてやらねば、死んでも死にきれない。それに、ルノがこんなところで馬鹿みたいに死んでしまっても、悲しむ人間はいるのだ。カメリオやイライアやヒヒや。スゥラ王。そして、イジュ。あの、可愛いわたしの鞘。

「死んでたまるもんですか……」
「ズメッティラ!!」

 そのとき、背後から制止を促す野太い声が飛んだ。少し広い場所に出たため、ルノは首をひねって声のしたほうを振り返る。四角い光の中から無骨な鉄の塊が突き出された。銃口。身体中がぞっと凍りついた。今撃たれたら逃げ場がない。蝋燭の炎が掲げられる。男もルノの存在を認識したらしい。銃の撃鉄が引き起こされ、引き金に指がかかった。目の前が真っ暗になるのを感じながら、それでもルノは目をそらしはしない。睨みつける。がこっと足元が大きく揺れたのと、耳をつんざくような銃声がしたのは同時だった。


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