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16




 落ちていく。落ちていく。下へ下へ、どこまでも下へ。まるで底なし沼に落とされたかのような錯覚が一時ルノを襲ったが、しかし、実際のところ落下していたのはほんの一秒にも満たない時間であったにちがいない。ルノさま!と叫ぶ、柔らかな男の声が聞こえた気がした。伸ばされた腕がルノの身体を抱き止める。どん、と大きな衝撃があって、気付けばルノはイジュを下敷きにして地上にいた。教会の廊下の一角だ。見れば、ルノがさっきまで這っていたらしい天井には四角い穴が開いており、外れた天井板が一緒に床に落ちていた。脚立に足をかけたヒヒが目を丸くしてこちらを見ている。どうやら、落ちて、助かったらしい。

「っつー……」

 押し潰されたイジュが呻くような声を上げたので、ルノは慌てて視線を足元に戻す。

「なんで、お前、どうして……」
「姫さま、ご無事ですか!」

 脚立から飛び降りたヒヒがルノへと駆け寄ってくる。ヒヒに半ば抱き上げるようにしてイジュの上から下ろされ、ルノは「お前も」とヒヒの袖をつかんだ。

「どうしてこんなところにいるのよ?」
「カメリオさまのご命令です。手分けしてルノさまをお探ししている最中に、イジュの奴が天井のほうからルノさまの声がしたって言ったんですよ。それで脚立で天井板を外していたら、ルノさまが降ってきたと」
「そ、そうなの? イ――」

 だとしたらたいしたものだと感心しかけ、ルノは軽く目を瞠った。ぎゅう、と身体をきつく抱き締められる。跪いた青年がルノの背中にぎゅっと手を回しているのだった。頭を引き寄せられ、頬に頬をくっつけられる。人肌を確かめるように。どちらもひどく冷たくなっていたが、すりすりと頬をすられるとくすぐったくて、だけど、青年の透き通った白い肌がルノの煤けた頬でみるみる汚れてしまうのが、なんだか少し悲しかった。

「どこ行ってたんですか……」

 潰れそうな吐息が耳朶を撫ぜる。

「こんなに煤で汚れて。こんなに手も怪我して」

 皮膚の破れた手のひらをそっと包みこみながら、イジュはなおも幼子が甘えるようにルノの頬に頬をくっつけようとする。淡い乳香にも似た、青年の優しい香りがふんわりくゆる。あたたかな安堵が身体を包んで、泣きそうになった。ごめんね。ごめんね、ごめんね、イジュ。イジュの身体があんまり冷たくて、微かに震えてすらいるので、ルノはそれがつらくて、でも愛しくてたまらなくて、自分よりずっと広い背中を何度もさすってやった。

「姫さま」

 ヒヒがかたわらに跪いて、ルノを促す。ばらばらといくつかの足音がして、顔見知りの王兵が声を張った。

「阿片密輸のクレンツェ人を捕縛致しました!」

 ヒヒがよし、と表情を明るくしてこぶしを握る。東の窓辺から差し込み始めた淡やかな朝陽が長い、長いこの冒険の夜が終わったのだとルノに告げていた。





「ほーら。じっとしていてくださいルノさま」
「いいい嫌よ、嫌、お前そんなことを言って痛いことをするんでしょ――きゃあああ!?」

 足裏に一度煮詰めて冷ましたつんとした臭いの薬草の汁をかけられ、ルノは思わず悲鳴を上げた。硝子片で切った傷は思いのほか深かったらしく、とても沁みる。痛い痛い痛いとこぶしをぶんぶん振るルノのかたわら、イジュは、ペンネが持ってきてくれた湯の張った盥にハンカチを浸して、ルノの煤けた足裏や足首を丹念に拭く。それから、寮の薬草ハーブ園で摘み取ったばかりの薬草を傷口に置いて、真新しい包帯を丁寧に巻いていった。この男は、拾い上げたばかりの少年の時分から、世情に疎かったわりに、こういった妙な知識ばかりは人並み以上にある。あとは神学。語学。まるで修道士だ。

「でも、まさかウルがこの国のお姫さまだったなんてねぇ……」

 次に手のひらの手当てを始めたイジュを横目に、ペンネが苦笑混じりに息をつく。それからはたとなった様子で、ぎこちなく身を正した

「って、私ったらルノ姫さまにこんな口の利き方。申し訳ありません」
「嫌よ、変えないで。あとペンネが謝るのはおかしいわ。嘘をついていたのは私のほうだもの」

 ルノは足を庇いながらイジュの肩に手をついて立ち上がり、ペンネに向かってちょこんと頭を下げる。

「ごめんなさい。ウルだなんて嘘を言って。性別も偽って」
「そうだぞ、ルノ。お前みたいなじゃじゃ馬が僕の名を騙るなんて失礼もいいところだ」

 首を振りかけたペンネを遮って、ひょい、と背後から顔を出した青年が深々と息をつく。その姿を認め、――その、さもずっと前からそこにいたとでもいうように平然とルノに淹れられたはずの紅茶を啜りつつ本を開いている二十代半ばの顔はまぁまぁ美しいのに猫背で格好悪いいかにも怠惰そうな男を認めて、「――あああああ兄上っ!?」とルノは唖然と指を指した。

「さすな指」

 他にもっと言うことはあるだろうに、いちばん些細でつまらぬことを眉間に縦皺を寄せて指摘し、男はずずっと紅茶を啜った。ウル王子。ユグド王国第一王子、つまりは次期国王の座を生まれながらに手に入れながらも、大学で天文学の研究に没頭する変わり者王子。ルノとは九つ違いなので、現在二十四歳である。十代で王宮を飛び出し、かれこれ十年近く大学に住み着いている。こちらはもう長い付き合いだからか、いくぶん親しげにペンネが「殿下」と苦笑した。

「兄上、じゃじゃ馬とは何ですか! 失礼な! 引きこもりでもやしのあなたがっ」
「思ったことを言ったまでだ。ちなみに引きこもりじゃない。研究熱心と言いたまえ馬鹿」

 心底見下しきった口調で言い切ると、ウルは無駄に長い足を扱いにくそうに組んだ。ルノのカップに紅茶を注ぎ足して口をつけ、「久しいなイジュ」と盥を片付けていた青年のほうへ声をかける。

「何年ぶりだ? まだ愛想を尽かさずこの子のお守りをやっているとは、お前も相変わらずマゾだな」
「ウルさまこそ、お変わりないようで何よりです」

 イジュが卒なく微笑み返すと、ウルは少しだけつまらなそうに頬を歪めた。これだ、とでも言いたげに大仰に肩をすくめ、足を組み直す。

「捕まった男たちは、先だってクレンツェで一網打尽にされた密輸ギルドの残党だったそうだ。こっちに逃げがてら、鴉片を持ち込んだらしい」
「教会の関与は?」

 ルノの質問に、柔和なペンネの表情が少し強張る。教会付属大学で寮母をしているペンネにとっては気分のよい話ではないだろうが、ルノはさらに続けた。

「鴉片はここの図書館の本の中から見つかったのよ。中身をくりぬいて、外からはわからないようにして。密輸した。きっと手引きした者がいるわ。教会の誰かが彼らと繋がって私腹を肥やしていたのよ」
「それについてはこれからお前んとこの兵が調べるだろう。ま、教会は嫌がるだろうがな」

 他人事のように呟き、ウルは目を伏せてまた紅茶を啜った。
 この兄と相対すのはいったい何年ぶりになるのだろう。兄が住みなれた王宮を出ていったのは、ルノが四歳の秋の頃だ。それから十一年。王宮には帰らず、まるでこちらが自分の居場所だとでもいうように大学に住み続けている。最初のうちは年に一度くらいの割合でふらっと戻ってきたが、そのうち数年単位で顔を見せなくなった。もう何年会っていないのか、数えるのも忘れたくらいの。

「……次はいつお戻りになるんですか」

 兄とは別の方向を睨みつけながら、ルノは問う。
 ふふんと鼻で笑ってウルは肩をすくめた。こちらを小馬鹿にするようなその仕草に、ああまた何年も帰ってこないつもりなのかと息をついていると、「明日、戻る」と寝耳に水なことをウルが嘘みたいな平静さで言った。

「……は?」
「だから明日。明日、戻る。クソ父上から手紙があったんだよ。戻ってこないなら僕が王宮に置いていった望遠鏡をぶっ壊すと。僕の、あの望遠鏡だぞ? 一国の王がそんな脅しを使っていいと思うか?」

 そんな脅しを使う王も王だが、そんな脅しで帰還を決める王子も王子である。はぁそうですか、とルノが冷めた面持ちでうなずくと、ウルは「ああ面倒くさい。しち面倒くさい」ととぐろを巻いた。

「いいか。それもこれもみんなお前のせいなんだからなルノ!」
「なっ、私のせいとは何事ですか!」
「ああ。へえ、知らないのか。ふぅん、まぁいいけど。お前もせいぜいダンスのステップでも習っとけよ、そこのイジュ相手にでも」

 ダンスのステップ? いぶかしげな顔をしたルノをよそに、所在無く机のあたりに落とされていたウルの眸がふっと瞬く。その夜の空を思わせる藍色の眸が珍しく輝き、はっきりとした笑みを象った。

「クロエ!」

 初めて見る兄の表情に面食らい、何かと思って視線の先を追えば、金色の頭がひょこ、と顔を出す。一同の注目を一身に受けたシャルロ=カラマイは、居心地悪そうに首をすくめた。

「やめてよ王子さま。クロエは前の前の名前。今はシャルロ=カラマイなんだからさ」
「ちっ、長ったらしいなぁ。クロエのほうが短くて、ずっと覚えやすかったのに。また名前変えろよ」
「うーん、まぁそのうちね。考えとく」

 苦笑混じりに、机に置かれたクッキーを摘む男を認めて。
 ルノはぐーのこぶしで思いっきりその頬を殴りつけた。


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