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17




「っうううううう」
「この私の前にのこのこと、よくも何食わぬ顔で出てこれたものねシャルロ=カラマイ!」

 殴られた頬を手で押さえる神学生の鼻先にルノはぴっと指を突きつけ、声を張る。

「この悪魔! 冷酷非道! 守銭奴! 私が死んだらどうしてくれるのよ!」
「痛いなー。何も殴ること」
「あるにきまっているわ! 本当なら十回殴りつけたって足りないわ!」
「どーどー。結局生きて戻ってこられたんだからいいじゃないですか姫」

 ゴッ。
 骨を砕く勢いで殴った。そこにあった椅子を持ち上げて放り投げなかった自分の賢明なる理性を褒めて欲しいくらいだ。

「冗談も休み休み言いなさい?」
「……ウル。キミの妹姫、どうにかしてよ。怖いよ」

 さらにもう一発殴ってやろうとこぶしを固めていると、シャルロ=カラマイはあっさり白旗を掲げてウルの背中に逃げ込んだ。ウルのほうは相変わらず我関せずといった風に、本を片手に紅茶を啜っている。

「ふん。じゃじゃ馬の手懐け方など僕が知るか。獣使いかそこのイジュにでも任せとけ」
「キミねぇ。これってもうじゃじゃ馬どころか暴れ馬の域だよ」
「馬馬うるさいわ!」

 ばんと机を叩いて、さんざんな評を下す男ふたりに食って掛かる。いきり立つルノを藍色の眸で一瞥すると、うん、とウルは兄妹の情をさっぱり感じさせない冷ややかさで尖った顎を引いた。

「そうだな。これはもはやひとより獣に近い」





「……それにしても。知らなかったわ、兄上とシャルロ=カラマイが知り合いだったなんて」

 ウルのおよそ男らしい厚みのない背中をひとしきり叩いて鬱憤を晴らすと、ルノはペンネが淹れ直してくれた紅茶に息を吹きかけ、冷ましながら呟いた。ふん、と不快そうに鼻を鳴らして、ウル王子は椅子の背もたれに軽く腰掛ける男をひと睨みする。

「知り合いも何も。僕が大学に入る前からの腐れ縁だ。友人ではないが」
「うわぁその言い草傷つくなぁ」
「僕はお前に騙され落とし穴に落とされたあの日からお前とは絶交している」
「うん、それゆうに十年は前の話だよね。相変わらず執念深さだけは一流品なんだからさぁ、ウルのお坊ちゃんってば」
「誰がお坊ちゃんだ、ウル殿下様と言え」
 
 腐れ縁なのかなんなのか知れないが、子どもみたいな応酬を重ねるふたりをよそに、そういえば、とルノはほとりと手を打つ。

「あの風刺画カリカチュア。いったい誰の仕業だったのかしら。ユゥリートも追いかけている間に見失ってしまったし、結局そこだけ謎なのよね」
「風刺画?」
「ああ、兄上は知らない? 最近こういうものが王都に出回っていたのよ」

 ルノはポケットから件の風刺画を引っ張り出す。ロバ面にされた国王と、司教杖を持っているハリネズミたち、その頭の上には花籠が乗っている。

「今思えば、これってきっと教会関係者が鴉片アヘンの密輸をしているんじゃないかって疑いを持っていたひとが描いたものなんだと思うのよ。ほら、ハリネズミは司教杖を持っているし、頭の上の花籠は花罌粟ポピー、つまり鴉片の原料になるケシの実で……」
「僕だが?」
「は?」
「だから、その絵を描いた学生だろう。僕だが?」

 しれっと放たれた言葉の意味を理解するのには、ルノの頭を持ってしても寸秒の時間を要した。

「えええええええ!? あ、あにうっ、ええ、兄上!?」
「なんだ」
「だって、だって何をやっているんですかあなたは! ち、父上をロバになんかしてこんな」
「ロバ。国の駄馬たる父上にふさわしいじゃないか。そもそも顔も少し似ているしな」
「でも、だからって、何もこんな風刺画にすること」
「ウル殿下サマサマはさー、父王に教会が怪しいですよって伝えたかったんだよ。でも素直に言うのも癪だからこんな手使っちゃってさ。可愛いよねぇ」
「クロエ」
「シャルロ=カラマイだってば」

 口を挟んだ当人は肩をすくめて苦笑する。
 
「まぁよいや。よかったねぇルノ姫。クレンツェ人は捕まったし、謎も解けて一件落着。俺もこれにて失礼するよ。今日は一睡もできなかったから眠くって」

 ふわあ、と大きなあくびをひとつすると、シャルロ=カラマイは最後の一枚のクッキーをくわえて、黒ローブを翻す。朝のミサまではまだ少し時間がある。また図書館にでも行くのだろう。別れの挨拶もそこそこにシャルロ=カラマイが部屋を出てしまうので、「待って!」とルノは小走りにその背中を追った。待って、というルノの声が聞こえないわけでもないだろうに、シャルロ=カラマイの歩調は全然緩まない。階段を一段下りたところでようやく追いつき、黒ローブの裾を引っ張るに至って、男の足はやっと止まった。

「何? もう一発殴られるのは嫌なんだけど」
「そんなことしないわよ。謝るつもりもないけれど」
「わぁ、嫌われたねぇ」

 眦を和らげて苦笑する男に、「当たり前よ」とルノはそっけなく返す。

「お前なんか大っ嫌い。……ただ」
「ただ?」
「あのとき腰が引けて逃げたのは認める。次はもうあんなことしないわ」
「『次』、ねぇ」
「何よ」
 
 自然と身構えて睨みつけると、シャルロ=カラマイは改めて身体ごとこちらを振り返った。階段の段差があったため、いつもよりずっと視線が近くなる。

「たとえば、キミが言うようにあのときのルノ=コークランは逃げを打ったのだとして。キミは俺との前哨戦から逃げたけど、運命との本番勝負には勝った。だから、ここにいる。キミはここに立っている。どうして、目を伏せるの。それは誇るべきことだよ」

 ふっと金色の眸が柔らかく細まった。
 わらったのだと、わかった。眩しい金色が不意に綻んだような。腕が伸びて、くしゃっと頭を撫ぜられる。

「おめでと。よくがんばりましたね、小さな姫君リトル・プリンセス

 息が、止まる。シャルロ=カラマイがきびすを返して、階段を下りる足音が遠のき途絶えても、ルノは微動だにせずその場に佇んでいた。顔が上気しているのがわかる。どうしたのだろう。何があったのだろう。でも。でも、どうしてなんだろう、うれしい。うれしくて、たまらない。あの男を一時でも捕まえて、認めてもらったのがうれしくてうれしくてたまらない。

「ルノさまー?」

 ひらひらと眼前で手を振られ、ルノははたと我に返る。

「……イジュ?」
「る、ルノさま、どうなされたんですか! 真っ赤っかですよほっぺ!」

 イジュのひんやりした手のひらが頬を挟む。どうしてか羞恥心でいっぱいになってしまって、ルノは目を伏せがちに「うううううるさいわ知らないわ知らないんだからっ」とわけのわからぬことを口走った。



 

 天楼図書館。
 目当ての場所の目当ての部屋にたどりつくと、先客がいた。

「リー君」
「何故『彼女』を起こした」

 足を一歩踏み入れるや、有無を言わさぬ口調で問われる。
 じろりと睨みつける怜悧な黒の眸を見つめて、そんな怖い顔しないでよ、と彼は首をすくめる。

「俺のせいじゃないよ。『彼女』が勝手に目を覚ましたんだ」
「本当に?」
「本当。巻き込まれて、追いかけられて、こっちはいい迷惑だよ」

 黒ローブの袖をまくり上げ、彼は包帯の巻かれた右腕へと目を落とす。するすると包帯を取り去ると、そこには傷はおろか染みひとつない滑らかな肌があった。何かを確かめるように腕をなぞり、彼は脇に抱えた書物を机に置く。ふわあ、と気ままなあくびをひとつ落として、書物の上に腕を横たえ、フードをかぶった頭を乗せた。呆れたような吐息をこぼしてユゥリートが椅子を引く。

「研究は進んでんの、リー君」

 片目を開けて、彼は本を抱える青年の手元を見つめた。

「夜な夜な図書館にもぐりこんでやってるんでしょ。もしかして、俺らが捕まったの見てた?」
「見てない。入れ違いだよ。私はお前ほど薄情ではないから、その場にいたら、王女くらいは助ける」
「王女くらいは、ね」

 どいつもこいつも毒のある言い方をしてくれるものである。

「懐かしいな」

 片頬を歪める彼をよそに、ユゥリートがぽつりと言った。

「ウルを思い出す。お前、あいつもよく苛めてたっけ」
「人聞き悪いなぁ。可愛がっていたの間違いでしょ」
「嘘吐きめ」
「キミに比べたらずぅっとマシだよ」

 ふっと笑い、彼は金色の眸を閉じる。
 なだらかな曲線を描く窓辺から射し込む朝陽に身を浸して、戯れのごとくまどろむ。それがあまりに心地よかったので、ユゥリートがいついなくなったのかは覚えていない。瞼裏に広がるまばゆい金色の朝。美しい翠。豊かな水。歌声。そして、天へさなりと翠の枝葉を伸ばすユグドラシルの樹。今なら夢で、久しぶりに私の姫君マイ・プリンセスに会える気がした。




……Episode-3,END.

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