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Episode-4,「蛇侯爵とリシュテンの聖女」


01



 幼い頃、一度だけ父にねだった。
 閉ざされた銀縁の窓から立ち上る冷気。曇硝子の向こうには、天を塞ぐかのように重く垂れ込めた雲としんしんと降る粉雪とが見える。室内を覆う、しろい、しろい冬の気配。暖炉の炎は爆ぜていたのだろうか。ぬくもりはなく、ただ指先を凍りつかせる寒さばかりが記憶に残っている。あの日のわたしは、まだ五歳になったばかりの小さな姫君だった。

 ――ちちうえ。ちちうえ。

 五歳のわたしにとって、父の腰掛ける肘掛椅子はとても大きく、城の要塞のように圧倒的で、手の届かないものだった。オーク材で作られた椅子の背もたれは高く、そこに収まった父の顔は見えない。仕方なくわたしは椅子の前に回り込み、ちちうえ、と声を張り上げる。父はくつろいだ風に頬杖をつき、一冊の本を読んでいた。黒革の、中央に銀の十字が描かれた本。母が天に召されて以来、父はその本ばかりを熱心に読んでいる。聖書、というのだと、賢しいわたしはすでに知っていた。

 ――ちちうえ、きいて。

 椅子の肘掛に手を載せて訴えると、父は聖書から目を上げ、なんだルノ、と切れ長の目元を穏やかに和ませた。五歳の娘に、父は優しかった。爪先立ちをして肘掛をつかむわたしを膝の上へと抱き上げ、父はくしゃくしゃと大ざっぱに頭をかき回した。背中から伝わる父の大きなぬくもりが心地よく、わたしはおなかに回った父の手のひらに自分の小さな手をふたつとも重ねた。

 ――あのね、ちちうえ。わたし、『鞘』を見つけたのよ。
 ――鞘? お前が拾ったノーネームのことかい?
 ――ちがう。ノーネームじゃないわ、イジュよ。イジュっていうの。鞘、という意味なのよ、ちちうえ。わたしが拾って名付けたの。ちちうえは、言っていたでしょう? ちちうえが『剣』で、ははうえが『鞘』。ふたつ一緒でひとつのもの。ちちうえ、わたしも、見つけたの。あの子がわたしの『鞘』よ。

 五歳のわたしは、負けん気の強い娘の顔をして、だからあの子が欲しいの、と言い募る。わたしは知っている。五歳のわたしが小さな胸にどれほどの決意を秘めて、父に戦でも仕掛けるような心持ちでもって、真摯にそれを言っているのか。夢を見ている十五歳のわたしは知っている。あの子は父の小姓ではなく、まして城の誰のものでもなかったのだけど、そのときのわたしはユグド教の唯一神に許しを求めるがごとき気持ちでそれを言っていた。あの子が欲しいの、と。しばらくして、折れたのは父だった。わかったよルノ、と苦笑混じりに言って、父はわたしに蒼い目を合わせた。

 ――おまえが願い、あの子も同じようにそれを願うなら、おまえにあの子をやろう。だがな、だがルノ。あの子は犬の子でもないし、猫の子でもないから、大事に、大事にしてあげなくてはいかんよ。
 ――うん、わかっているわ父上。イジュは神さまの子どもだもの。わたし、大事に大事にする。

 わたしの答えに父は満足してくれたようだった。
 いい子だルノ、と父は大きな手のひらでわたしの頭を思う存分かき回す。それからほんのしばし、口を閉ざした。快活な父の目元にふっと寂しげな気配が差したのが幼いわたしにもわかった。

 ――だから、ルノ。俺とひとつだけ約束をして欲しい。
 ――やくそく?
 ――ああ。おまえの望むとおり、あの子はおまえにやろう。大事に大事にしておやり。だがな、ルノ。俺とシュロの可愛い姫君。約束して欲しい。それはおまえが弱く幼い小さな姫君リトル・プリンセスである間だけ。いずれ王の娘を名乗るにふさわしい姫君プリンセスになったとき、おまえはあの子に本当の名前を返してあげなくてはいけない。……いいな、ルノ。泣いてはいけない。いつかおまえは、おまえの『イジュ』に名前を返してやるんだ――

 あの日のわたしは無謀で不敵でものの通りを知らぬ、五歳の小さな姫君リトル・プリンセスだった。




 ところで、ユグド教の聖女シュロ=リシュテンの左胸には、聖音鳥のつけた三本の爪痕がある。豊かな白い乳房に刻まれた三本の爪痕は醜く引き攣れ、それゆえどこか殉教者を思わせる清冽さが漂う。教会のステンドグラスにはいつだって囀る聖音鳥をいとおしむような目で見つめ、陶器のごとき白い乳房を木綿の上衣から投げ出す聖女シュロ=リシュテンの姿が描かれた。蒼天へそびえ立つ世界樹に住まう、ひとの魂を運ぶ鳥。聖音鳥。その声を聞くことのできる、ひとでありながらひとにあらざる乙女。シュロ=リシュテンの人気はいつの時代も高い。
 それはあるミサのこと。一幅の絵画のごとく教皇の隣にしずとたたずむ聖女シュロ=リシュテンの前に、十字架を逆さに吊るした栗毛の娼婦がやってきてこう言った。

『あなたはシュロ=リシュテンじゃない。アタシこそが本物のシュロ=リシュテンよ』

 さらけ出された豊かな胸には、柔肌を醜くする三本の爪痕。
 長い睫毛をふうわりあどけなく揺らしたシュロ=リシュテンをよそに、未だかつて女の柔肌を拝んだことなどないであろう清廉な教皇はコルセットを締め過ぎた女君と同じ様相でふらりとその場に倒れてしまったのだそうな。――そんな笑話が今、千年祭の近づいた王都を賑わせている。




 北方シャルロットから王都への道のりは遠かった。
 馬を何度も乗り替え、街の城門をいくつも越え、そうしてやってきた。平らかに舗装された白の石畳を歩き、巡礼者たちに混じり、まず世界樹のもとに座する王立ユグド教会に参る。深山を思わせる尖塔と薔薇窓の美しい教会は何度も増改築を繰り返しているものの、千年前に建てられた当初から場所を変えていない。祭壇に向けて祈りの聖句を唱え、「イェン・ラー」と結ぶ。
 とん、とすぐ隣にひとが座る気配がしたのは黙祷のさなかであった。いぶかしみながら目を開ける。この国では珍しい金髪を黒ローブのフードの下に隠した男。男は木製のベンチに背をもたせかけ、肘をつきながら面白そうにこちらを見ている。

「……クロエ?」
「ごきげんよう、ニヴァナ坊や。見ないうちに大きくなったねえ。あんまり熱心に祈っているもんだから聖職者に転向したのかと心配になったよ」

 男は金色の眸を細めて笑い、「ああ、今は『ニヴァナ侯爵』とお呼びするほうがふさわしいのかな?」とわざとらしく首を傾げてみせる。もう十年ぶりになるというのに、クロエの面差しは最後に別れたときからちっとも変わっていない。魔を秘めた金の眸も、上辺だけは慇懃さを繕う口調も、それでいて子供のような悪戯を好む性格もすべて健在であるようだった。連なる巡礼者にはばかって早々に席を立ちながら、相変わらずだな君も、と彼が苦笑すると、「あなたこそちっとも変わっていらっしゃらない」とクロエは先ほどとは反対のことを言った。男のまとった黒ローブには長い黒数珠を連ねたロザリオがかかっていて、男が歩くたびちゃりちゃりとやかましい音を立てる。そういえば、噂で聞いていた。どうやら今は教会付属大学の神学生などをやっているらしい。

「古の都シャルロットから王都までの旅路はいかがでした?」

 礼拝堂の外には薔薇の花がささやかに植えられた庭があり、いくつかのベンチが置いてある。外套を抱え持った従者に離れたところで待つように言い、そのひとつにニヴァナは腰掛けた。

「何度旅しても遠いな。千年前王都からシャルロットへやってきたという先祖はよほどの物好きだったと見える」
「あの頃は今のように馬車もございませんでしたからねぇ」

 のんびりと笑い、クロエはカッターで切り落とした葉巻に指を鳴らして火をつけた。教会の敷地内で葉巻を吸うか、とニヴァナは呆れ返る。幸い、周りに巡礼者や聖職者らしき人影は見当たらない。背後を振り仰ぐと、柱の影で所在なくたたずむ従者の少年の姿が見えた。荘厳な石造りの教会の尖塔が降り注ぐ光を浴びて白く光っている。

「熱心にさ、何を祈ってたの。ニヴァナ侯爵」
「あいにく私は口が堅くてね。君こそ何を祈っていたんだ、クロエ」
「そりゃあワタシは尊き神の僕でございますから。この国のあまねき幸福と平和を祈っていたよ。当たり前じゃない」

 冗談のようなことを真面目くさった表情で言い、クロエは深く葉巻を吸う。

「今はここの学生をやってるんだって? 賢者を名乗る君がなんとも殊勝なことじゃないか」
「有能な愛弟子が手はずを整えてくれてね。毎日楽しくやってるよ。本は読みたい放題、昼寝はし放題、学生ほどワタシに向いてる職業はないのかもしれない。そういや、侯爵。こないだここで君の可愛い許婚にお会いしたよ」
「ほう、彼女に? 相変わらずお転婆をやっているのかな」
「まぁねぇ。愛らしい獣みたいな婚約者殿だよね、アレは。見ていて飽きない」

 『彼女』の姿を思い出したのか、くすくすと男は日に焼けていない白い喉を鳴らして笑った。珍しいことだが、クロエは『彼女』をいたく気にいったらしい。長い時間を生きる彼にとって、飽きない、という言葉がどれだけ希少であるかをニヴァナは知っている。ふぅむともたげた興味に顎を引きつつ、ニヴァナは箱から抜いた葉巻にカッターをあてる。火元を探していると、指をぱちんと鳴らす音と一緒に葉巻の先が熱く灯った。軽く目を瞠らせれば、クロエは悪戯めいた笑みを口元に載せて「そうそう侯爵」とどこからか取り出した灰皿に葉巻の先端を押し付けた。

「近頃王都界隈を賑わせているリシュテンの聖女の噂はご存知?」
「噂?」
「ええ。『あなたはシュロ=リシュテンじゃない。私こそがシュロ=リシュテンよ』。そう言って、ぺろっと上衣をめくってみせたんですって。あわや童貞うん十年の教皇はあまりのことにふらっと貧血を起こしてしまったという。イエ、実際は鼻血の間違いかな?」

 愉快そうにクロエはくつくつと喉を鳴らす。

「くだらない。娘のストリップショーくらいで王都中が騒いでるとはこの国も平和惚けしている証拠だな」
「あっはっは、ストリップショー。言い得て妙だ。確かにアレはショーと名付けるにふさわしい。だけどもね、侯爵――」

 おもむろにクロエは身を乗り出した。ちゃり、とロザリオのぶつかる煩わしい音がしたかと思えば、すぐ耳元に手のひらがあてがわれる。ひそ、と囁かれた言葉。眉を鋭くひそめたニヴァナの表情を金の眸が怜悧に観察する。ふふっと甘く狡知に微笑むと、クロエは弾みをつけて腰を上げた。

「それとねぇ、侯爵。ワタシは今クロエじゃなく、シャルロ=カラマイっていうんです。神学生シャルロ=カラマイ。シャンパーニュ地方の冴えない次男らしいよ。ハジメマシテ、どうぞよろしくね」

 恭しく腕を胸に置いて礼をすると、シャルロ=カラマイは優雅な貴族らしい所作でローブを翻す。ちゃりちゃりとロザリオの数珠の揺れる音に混じって、さぁ花よ歌え、風よ祝え、と口ずさむ声がしたが、やがてそれも初夏の薔薇の香混じりの風が連れ去った。

 ――侯爵。裸の王様って知ってる?

 謎かけめいた男の言葉を胸に、北方シャルロット領主ニヴァナ=リシュテン侯爵は最後の旅路へと発つ。


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