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02




 血はとても苦手だ。
 ナイフを傾けてやると、みるみる白い腕に幾筋もの赤が伝って、体温が抜け出たみたいに身体の芯のほうが冷たくなる。そして、『彼女』が、泣く。恐ろしく、でもどこかで愛しくもある『彼女』が顔を覆って泣くから。イジュも悲しくて、苦しくてたまらなくなる。イジュは血が苦手。悲しくて、寂しい気持ちになるから。




「異常はないね」

 今年三十になる月白宮一の栗毛の美女、マルゴット先生は眼鏡のブリッジを押し上げると、カルテに何がしかをさらさらと書き付けながら言った。そばではマルゴット先生の三歳になる娘のジェシカが手製のうさぎのぬいぐるみを動かして遊んでいる。小さな丸椅子に座らされていたイジュは安堵とも肩透かしともいえない複雑な表情を浮かべて、そうですか、とうなずいた。

「急に激しい頭痛に襲われたんだろう? 立っていられないくらいの」
「はぁ。ヒヒがいうには、そのあと二時間ほど昏倒していたそうです」
「疲労かねぇ……睡眠は? ちゃんととってる?」
「ええ」
「眠れないということは?」
「あまりないですね」
「食欲は?」
「変わりありません」

 イジュが答えるたび、マルゴットはううんとかふぅむとかいいながら羽根ペンを動かす。ふわりふわりと動く白い羽根を所在なくイジュが見つめていると、先生の娘のジェシカがうさぎのぬいぐるみをイジュのおなかに押し付けてきた。いったいどこから入り込んだのやら、膝に手を載せて、「いじゅ、あそぼ!」と栗色の眸をきらきらさせる。
 ジェシカ、とマルゴットが眉間をしかめて叱ると、ジェシカはぷっくりした唇をへの字に曲げてうさぎを抱き締めた。勝気そうなそのさまが幼い時分の王女を連想させて、イジュは笑みをこぼす。少女の膨れた頬に手をあてがって、あとで遊びましょうね、こないだの探検の続きをしましょう、と約束すると、ジェシカはぱっと顔を輝かせ、大きく首を振った。

「悪いな、イジュ」
「いいえ、ジェシカは可愛いですよ」

 うさぎを渡して部屋を出て行ったジェシカに一瞥をやり肩をすくめたマルゴットに、イジュは笑って答える。あれで結構寂しがりやなんだ、とマルゴットは母親の顔で苦笑し、娘がいる間はしまっていた葉巻にいそいそと火をつけた。末尾にサインを走り書いた紙をこちらに差し出す。

「異常なしって書いといた。カメリオさんにはこれを渡しておけ」
「ありがとうございます」

 渡されたものを受け取ると、イジュは開いていたシャツの釦を止めて、深緑の上着を羽織り、折り畳んだ紙を胸ポケットに入れた。椅子を戻して、退室をしようとすると、「――イジュ」とマルゴットの女性にしてはハスキーな声がイジュを呼び止める。羽根ペンを置き、マルゴットはそれをペン立てに戻すついでといったふうにぽつりと呟いた。

「聖書はかく語れり。『恐れるな、ひとの子よ。望め、さすれば救いは与えられる。励め、さすれば幸福はお前のものとなる』。お前は天に絶望したことがあるのか?」
「は」

 あまりにも唐突に過ぎる質問に、イジュはきょとんとして声を失してしまう。マルゴットは相変わらずの冷めた表情で、イジュの左手首のあたりを示した。

「それ、古い傷痕だなぁって思ってたんだ。もう七年八年、下手したら十年くらい前になるんじゃないか」

 マルゴットの視線から逃れるように手首のあたりを右手でつかむ。目ざといですね、とかろうじて呟くと、職業柄目につくんだ、とマルゴットは苦笑した。ぎゅっとつかんだ右手からじんわりと赤くぬめった血液の感触が伝わってくるようで、それは幻だとわかっているのに吐き気や眩暈というものが襲ってきた。軽く咳払いをして、まとわりついた幻影を追い払う。イジュはジェシカの置いていったうさぎをマルゴットの顔に押し当てた。

「我が姫には言わないでくださいね」
「どうして?」
「どうしても、です」

 ぐぐぐ、とうさぎを押し付けると、苦しい苦しいとマルゴットが机をばんばん叩く。その指から葉巻を抜きとって、灰皿に押し付けると、イジュはにっこり笑って「お体に悪いですよ、マルゴット先生?」と子どもじみた仕返しをする。




 タン、タン、タタン

 軽やかなステップに合わせて、繊細なレースにふちどられた木綿のシフトドレスが翻る。マルゴット先生の診察を終わらせて、広間にやってきたイジュは愛らしい蒼色のミュールが床を踊る姿に翠の眸を瞬かせた。曲についていくのが精一杯という風の、まだどこかたどたどしさの抜けない動き。証拠に、少女の蒼色の眸には余裕など欠片もなく、必死さばかりが伝わってくる。

輪舞ワルツですか?」

 グランドピアノの椅子に腰掛けるカメリオに尋ねる。この気のいい侍従長は隠れたピアノの名手であって、その腕は親しい身内にはよく知られている。今日はダンスの練習をする王女のために一曲披露したところなのだろう。譜面台には「子猫のワルツ」と書かれた楽譜が広げられている。

「今度カレーニョ夫人の開かれる舞踏会があるからな。姫に恥をかかせるわけにはいかんだろう?」
「あの方がイエスと言ったんですか」

 意外に思ってイジュは聞き返す。十五を迎えた王女のもとには近頃さまざまな舞踏会や社交界の招待状が届いた。今までそれに目を通しこそすれ、すべて、くだらないわ、の一言ですげなく断っていたルノであったというのに。いったいどんな心境の変化なのだろう。

「私自ら説得にかかったのだよ。いい加減姫にも立派な淑女として巣立っていただかないと。何せ乙女が乙女である時間は短い」
「はぁ。そういうモンですかねぇ」
「お前がそうであるから、私の心労は絶えんのだよ」

 はぁ、とカメリオは深々と息をつく。思わぬところから攻撃を受けてしまい、イジュは「『そうである』ってなんですか」と心外そうに眉根を寄せた。だが、カメリオは手に負えないという顔をして肩をすくめるだけだ。

「――で、どうだった? マルゴット女史は何と?」
「ご心配なく。異常なしだそうですよ」

 声音をひそめて尋ねてくる侍従長に、ルノから視線を解かないまま答えて、イジュはマルゴットからもらった診断書を渡した。老眼鏡を取り出して、カメリオが文面に目を落とす。

「過労から来る貧血か……。イジュ、お前しばらく長い休みを取ったらどうだ?」
「ただの貧血ですって、やめてくださいよ。第一、私がいなくなったら誰がルノさまのお世話をするって言うんです?」

 これだからマルゴットのもとに行くのは嫌だったのだ。辟易と眉根を寄せれば、カメリオは気難しげな顔をして「しかしな、」と首を振ろうとする。

「イジュ!」

 そのときこちらに気付いたらしい王女が鈴を転がすかのごとき声を上げた。たどたどしいステップを踏んでいた蒼色のミュールが止まる。イジュを見つけるなり、ひらひらと紋白蝶の羽根にも似たシフトドレスを翻して駆けてきた姫君は、「ずっとどこに行っていたのよ!」と開口一番、不機嫌極まりない。イジュはカメリオの胸ポケットに診療書を押し込んで王女に向き直ると、申し訳ありません、とまず詫びる。

「所用で街に出てまして。それよりルノさま、舞踏会に行かれることにしたんですって?」
「ああ、おばあさまのね。他のご夫人ならともかくあの父上のおかあさまだもの。嫌だけど、嫌って言えないでしょう? やんなっちゃうわ」

 はぁと嘆息して、ルノはリラの持ってきた椅子に腰をかける。蒼いミュールを脱いで、赤く腫れた足を手で撫でさすった。イジュはリラに氷水を持ってくるよう促し、それからかがんで、投げ出された主人の白い足を手で包む。ルノは膝に頬杖をつきながら、「私のワルツ。どうだった?」と首を傾けた。そうすると、王女のまとめそこねてほつれた銀髪が華奢な肩にさらりとこぼれ落ちる。気丈げに見える蒼い眸にはほのかな不安が透けて見えて、イジュは眸を細めた。

「とても可愛らしかったですよ。特に、たどたどしいステップがさながら『子猫のダンス』といった具合で愛らしく――」
「もう! お前なんか大っ嫌い!」

 イジュの返答はどうやらルノの望んでいたものではなかったらしい。頬を膨らませてそっぽを向く姿などは、さっきのジェシカとほとんど大差なく見えた。不意に溢れるくらいの愛おしさに駆られて、イジュは王女のむくれた頬にそっと手の甲を触れさせた。やわらかなあたたかさが手に触れる。銀の睫毛に縁取られた眸をひとつ瞬かせた少女を眩しそうに見つめ、「私は、ルノさまを愛しておりますよ」とイジュは微笑む。
 蒼い眸がふと大きく開かれ、自分のほうを見た。何かを探るような、見出すような。けれど、沈黙は長くは続かない。一瞬少女によぎった複雑な表情はすぐに高慢な微笑にとって代わり、「当然よ!」とルノはいつものルノ=コークランらしく胸を張った。





 二週間ほど前に王宮に戻ってきていたウル王子から月白宮に訪れる旨があったのはその晩のことである。


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