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「なんですって?」

 イジュをニヴァナ侯爵に貸し与える。侯爵の突然の申し出に驚いたのはルノばかりではないだろう。茶器を下げていたイジュもまた、いぶかしげに柳眉をしかめた。

「私にルノさま以外の方に仕えろっていうんですか」
「そんな大仰なことは言ってない。半年だけだ。何せ、カメリオが言うにはきみはたいそう有能な従者なんだそうじゃないか。私もここには不慣れだし、きみがそばにいてくれると心強い」
「その間のルノさまのお世話は誰がするんです?」
「リラやイライアがいるだろう」
「ですが、私はルノさまのしもべです。そう簡単に『貸し与え』られちゃ困ります」
「イジュ」

 あくまでも引く意思がないイジュに、見兼ねたイライアが割って入った。その顔つきは月白宮の女官長にふさわしく厳しい。
 
「お前は使用人の分際でどなたにもの申しているのです。見苦しい」
「ですが、」
「ルノさま。ご采配を」

 イジュの言を退け、イライアはこちらをうかがった。次いで、ニヴァナ侯爵とイジュもルノを見つめる。まるで助けを求めるかのような翠の眸に胸が痛くなって、ルノは命令をためらった。こういうとき、ルノは心を潰すようにして己を叱咤しなくてはならない。

「……イライアの言っていることは正しいわ。父上とカメリオが話しあったことに、私も異存はない。イジュ、お前これから半年、侯爵にお仕えしなさい」
「ルノさま」
「これは私が決めたことよ。口答えは聞かない」

 精一杯胸を張り、腕を組んでぞんざいに言いつける。見開かれた翠の眸がルノの意を悟ってそっと伏せられた。ああ、私。近頃お前に悲しそうな顔ばかりさせている。

「いいわね、イジュ」

 他にかけるべき言葉も見つからぬままそう念を押すと、「ルノさまの仰せのままに」というかぼそい声がぽつんと返ってきた。





 ルノの指示でニヴァナ侯爵の滞在する部屋は月白宮の南向きの客間と決まった。夏の深まる王都といえど、夜は肌寒い日もあり、日当たりのよい南の客間がふさわしいであろうとのことだった。ルノとニヴァナ侯爵が談笑している間に、使用人たちで手分けして取り急ぎ部屋を整える。しばらく使っていなかったベッドのシーツと天蓋をかけ代え、大理石の床を磨き、サイドボードや暖炉の埃を払い、最後に、ニヴァナ侯爵つきの使用人・侍女たちが持ってきた荷物を中へと運び込んだ。彼らは侍女頭を名乗る老婆をひとり残して、別の客間へ移ってもらう。そうしてようやくニヴァナ侯爵を客間に通すことができた。

「突然のご指名で悪かったね」

 イバラのカフスのついたリネンのシャツの衿を緩めながら、ニヴァナ侯爵はしかしちっとも悪びれた風もなく言った。そもそも本当に「悪い」と思っているのなら、イジュがごねたあの時点でこんな申し出は取り下げていたはずだ。いいえ、と侯爵同様口先だけで返して、イジュは預かり受けた薄い外套をハンガーにかけた。
 ニヴァナ=リシュテンがイジュは出会った当初から好きではない。単純明快、ルノの婚約者だからだ。男にはじめて出会ったのはイジュが十五のとき、王宮にやってきてすぐの時分だ。幼い王女を肩に載せて歩くこの婚約者殿をイジュは窓から頬を膨らませて見つめていた。イジュは、ルノの隣を歩くことはできる。求められれば、口付けることも、その小さな身体を抱き上げることもできるだろう。けれど、肩に載せるのはちがう。それは、スゥラ王やこの婚約者殿にしかできない。イジュはそのことが無性に寂しかった。愛する私の姫君を急にやってきた男に奪われてしまった気がした。そういう子供っぽい独占欲は十年経ってもちっとも変わらなくて、ただひとつ変じたことといえば、あのときは戻ってきたルノにしがみついて仇敵のように侯爵を睨み付けていた自分もさすがに愛想笑いのひとつくらいは覚えたことだろうか。それでも胸中ではさっさとこの場を退出してしまいたくて、イジュは男の身の回りの調度をひと通り整えると、「他に何かございますでしょうか」と、ない、という言葉を期待して尋ねた。

「それじゃあ、紅茶を一杯」

 長椅子でくつろいでいたニヴァナ侯爵はイジュを見もせずに言った。
 先ほどあれだけ私の姫君とお茶の時間を楽しんでおいてまだ茶がいると。
 舌打ちしたい気分に駆られたが、我慢する。

「ブラックティ、ミルクティ、どちらにします。砂糖は?」
「ミルクティ。砂糖はたっぷり」

 その要望が王女とまったく同じなのはわざとなのか。イジュは人知れず吐息を漏らし、リラを呼んで茶器を運ばせた。カップを湯で温め、自らの手でもって紅茶を淹れる。侯爵のシアンの眸は探るようにそれを見ていた。落ち着かない、と思うほどイジュも不慣れではない。カメリオ仕込みの鮮やかな手つきで茶を淹れ、「どうぞ」と男へ差し出した。

「ありがとう。いただくよ」

 茶葉は先ほどとは異なる濃い目の深い味わいのものを選んだ。ハーブや果実による華やかな着香はないが、そのぶんミルクティにしても舌にしっとりした味わいが残る。カップをわずかに傾け、茶葉特有の香りを楽しんでから、侯爵は上品に白磁のふちに口をつけた。

「うまい。さすがあの姫が褒めるだけのことはあるなぁ」
「恐縮です。では私はこれで」
「まぁ待て。そこに座って、お前も飲みなさい」
「イエ。どうぞお気遣いなく」
「話し相手がほしいんだよ」
「カメリオを呼んで参りましょうか」

 ルノ姫を、と言わなかったのはイジュの意地である。

「いいや。お前がいいんだ」

 シアンの眸を細めて、ニヴァナ侯爵は真摯に重ねた。ここまで言われてしまってはイジュの分際では断りようがない。「失礼します」と自分でポットから紅茶を淹れ、対面に座る。改めて仰いだ男は、以前に増して堂々たる知性と貫禄とを身につけたように見えた。撫で付けられた髪や皺ひとつないリネンのシャツは清潔で、銀色のイバラのカフス以外、宝石や宝飾のたぐいをほとんどつけていないのも好感が持てる。

「実は姫に北方土産を渡したくてね。いろいろと買ってきたんだが、彼女は何がいちばん気に入るだろう」

 まだ運び込まれたままの荷物の中から古びたトランクをひとつ引っ張ってきて、男は小さな包みをいくつも取り出した。檸檬と矢車菊で香り付けをした東大陸の茶葉に、クレンツェ産の精緻なオルゴール。天球儀に、難しそうな書物もいくつかある。イジュは目を眇めた。問いかけるシアンの眸から目をそらし、「どれでもお気に召すんじゃないですか」とそっけなく返す。嘘をついたわけではない。本当にその通りだから、余計腹立たしいのだ。

「不満げだね」

 イジュの横顔を見つめ、ニヴァナ侯爵はふふっと笑みをこぼす。
 
「姫のおそばを離れるのがそんなに嫌かい?」

 ええ嫌です。嫌ですとも。わたしはルノさまをあいしている。
 今にも口をついて出そうになる怨嗟がごとき言葉をイジュはかろうじて飲み込んだ。
 
「初花の意味を教えようか。知りたかったんだろう」

 紅茶をのんびりと啜りながら侯爵はふと思いついた風に言った。イジュは無表情を努めていた面を微かに揺らす。ハツハナ。ルノが顔色を悪くしてイライアを呼んで以来、侍女たちがこそこそと囁き合っていた言葉だ。ルノもさっき、同じ言葉を口にした。意味をカメリオに教えてもらおうと思っていたのだが、あいにく忙しい侍従長をつかまえることができないまま聞けずじまいになってしまっていた。とはいえ、目の前の男に教えを乞うのは御免である。強情に口をつぐんだイジュを見て、侯爵は甘く苦笑した。

「他意はない。ただ君が知らないようなら姫に代わって私が話すべきかと思ってね」
「ルノさまのことなら、ルノさま本人に聞きます」
「でも知りたいんだろう? 何故、姫君やイライアたちがキミを姫君から遠ざけるのかを」

 知りたい。わからない。知りたい。胸裏のおこがましい欲求を読み取った風に、ニヴァナ侯爵はシアンの眸を細めた。

「初花というのはね、少女が女になるということ。その証に女の子は血を流す。この国で血は穢れだからね、スゥラ王やウル王子とも会わず、姫君が部屋に引きこもっていたのはこういうわけさ」
「血、って。い、痛くはないんですか…?」
「まぁ死ぬほどじゃあない。私の上の姉も妹もみんな初花にはなったが、数日ベッドに横たわるだけであとはけろりとしていたよ」

 どうやらそういうものらしい。己の身体から血が流れるだなんて血の苦手なイジュには恐ろしいことこの上なかったけれども、そういえばイライアを呼んで、とすがる直前のルノはひどく顔色が悪かった。お前ではだめなの、という言葉も。そのとおり、世知に疎いイジュには初花の痛みなんかわからない。

「それで、ものは相談なんだけどね。イジュ」

 とっくりイジュに考える時間を与えてから、侯爵は口を開いた。

「君はこれを期に姫君から少し離れたらどうだい? 女の姫君を男の君が世話をして回っているというのは考えてみればずいぶんおかしい。もちろん姫君の強い意向があって、君がそうしていたことも知っているが、初花は月に一度訪れるものだし、そういうときは姫君も女性の世話係が必要だ。君の役目は終わりつつあるんだよ」
「終わる?」
「ああ。この先姫を支えるのは、伴侶となる私の役割だ」
「終わる」

 長い口上であったにもかかわらず、その言葉だけが鮮烈にイジュの胸に刺さった。終わり。終わる。――ほら、ほらね。どこからともなく声が聞こえてくるようだった。オリーヴの花香る風の中、美しく育った王女が手を差し伸べたその瞬間から、薄々気付いていたことだ。終わる。エイエンと思っていた時間が、終わる。わたしの愛する姫君をこの侯爵が連れてゆく。そう考えるとき、イジュは。死にたい、と思う。


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