ニヴァナ=リシュテンと初めて出会ったのは五歳のときだ。 物心つかぬ幼子ではなかったが、さりとて許婚の意味を正確に理解していたともいえない。ただ、自分より十五も年上のオトコノヒトの向ける眼差しがひどく優しげだったのは覚えている。騎士さながらの所作で手を差し出された。自分のものよりずっと大きな手のひらを取って、中庭に出る。青年の足元のあたりでちょこちょこと膨らんだスカートを揺らして歩くルノを不憫に思ったらしい。彼は、「失礼」と声をかけて、ルノを抱き上げ、肩に載せてくれた。ぐん、と視界が広くなる。季節は初夏で、降り注ぐ陽光をきらきらと弾く世界樹の翠が遠くに見えた。足元に咲き乱れる白や黄や赤の薔薇たち。こんなに高い場所から世界を眺めたことはなかった。ルノが手を叩いて喜ぶと、彼は森林を思わせる緑の眸を細めて、少しだけ笑った。ニヴァナ=リシュテンと会話をしたのはそのときと、そのあと――おじいさまが亡くなった葬儀のときだけである。王都から遠く離れた北方シャルロットに城を構えるニヴァナ=リシュテンはなかなかそちらから出ることができない。彼の父であるリシュテン老は教会の七大老を務めているため都から動けず、実質シャルロットを治めているのはまだ年若いニヴァナと彼の母であるといえた。 「五年ぶりだね、姫君。見違えるようにきれいになった」 「ありがとう、侯爵。あなたもますます素適になられましたよ」 「そうかい? 君に比べたら、歳をとるばかりだけど」 「素敵に年を重ねられています」 くすりと微笑み、ルノは緩やかにシェルピンクの裾を摘んで礼をした。ニヴァナ侯爵もまた優雅な所作で跪き、差し出したルノの手の甲に唇を触れさせる。 「本当にお久しぶりです侯爵。いつこちらへ? 突然だったからびっくりしてしまいました」 「もともと終末祭はこちらで過ごそうと思っていたんだ。少し予定を繰り上げたのだけど……、突然押しかけてしまってすまなかったね」 「いいえ、うれしいです。ただ、手紙で先に伝えてくれれば、きちんとお出迎えの準備をしましたのに」 「未来の夫に気兼ねはいらないよ」 ニヴァナ侯爵は優美に微笑み、ルノが勧めたのにあわせてベルベットの長椅子に腰掛ける。気を利かせた女流画家がさりげなく辞退を申し出、入れ違いにイライアが銀の盆に茶器を載せてやってくる。もとは女流画家へ持ってこられたはずの白磁のカップは結果的にニヴァナ侯爵の前に置かれた。 「しかし、本当にびっくりするくらい大人になったなぁ姫君。どうだい、カメリオやルブランといった面々もみな変わらず?」 「ええ。カメリオなんて、毎朝櫛で髭を梳く癖も変わってないですよ」 「ああ、薔薇の櫛でね」 「そう、可愛らしいピンクの薔薇の櫛でよ」 侯爵とはなかなか会うことができない代わりに十年間文通を続けていた。書つけたささいなエピソードも覚えていてくれたのがうれしくて、ルノは声を立てて笑う。ニヴァナはイライアの淹れた紅茶の香を嗅いで、「茉莉花だね」と言い当てた。 「東の茶葉だ。この国では珍しい」 「知り合いのおじいさんに譲ってもらったのよ。あのあたりを旅して、最近戻ってきたの」 「もしかして……吟遊詩人のおじいさん?」 「そう!」 思わず弾んだ声を上げる。 高揚するルノを見守るニヴァナ侯爵の眼差しは穏やかだ。 「そういえば姫君。私の贈った桜花の扇子はお気に召してくれたかな?」 「もちろんよ。あちらでは樹と紙で扇子を作るのね」 あの扇子は気に入って、今は寝室のチェストにしまってあるはずだ。ルノはリラにそれを持ってくるよう命じて、「あの花は桜花というのね」と呟いた。白い花が雪のように乱れ散る情景、それから雲間にたなびく月。美しいのに、どこかもの悲しいような。そんな光景。 「でもどうして? 私が東方に興味を持っているって話、手紙に書いたかしら?」 「ああ、それはエルド師から聞いたんだ。もっとも私が聞いたのは――姫君から藍国の政治機構について質問攻めにあったと、そちらのほうだったけれど」 「もうこの国の星詠み師はお喋りなんだもの……」 エルド師というのはこの国の『星詠み師』、つまり国の宰相職にあたる。他の国では『宰相』『丞相』と呼ばれる国政の最高職がユグド王国ではどういうわけか『星詠み師』という不思議な名前があてられているのだった。一説には、その昔ユグド王国にもまだ数多の魔術師がいた頃、星を詠み、月を詠み、空を詠み、国の行く末を占い、天候を占う星詠み師という役職が王の助言役として重宝されていたからだという。今代で二百六十九を数える星詠み師であるエルドは数年前に惨劇のあったノースランドやリシュテン侯爵の住むシャルロットに近い北方出身で、王の信頼が篤く、ルノも幼少時から仲がよい。 こんこん、と扉を叩く音が響いたのはイライアが紅茶を注ぎ足そうとするさなかだった。おそらくは先ほど扇を取りに行ったリラだろう。思って声をかけたが、入室を許されて中へ入ってきたのは別の青年。――イジュだった。銀盆には、リラに頼んだはずの扇が載っている。 「扇子をお持ちいたしました」 「……君は、ああ、イジュだな」 ニヴァナ侯爵が青年を認めてうなずく。 ええ、と恭しく目を伏せた青年はいつもの穏やかな笑みを口元に湛えている。というよりは貼り付けている。扉の向こうで申し訳なさそうに頭を下げるリラの姿が見えて、ルノは嘆息した。この様子だと、途中で行きあったイジュが仕事を奪ってきたようだ。 「ニヴァナ侯爵におかれましては長旅の疲れも見えず相変わらずの麗しいお姿で何より。まさか、突然、わけもなく、ふらりと、この宮に来るとは思いませんでしたが」 「突然、わけもなく、ふらりと、許婚のもとに訪れてはいけない?」 「突然、わけもなく、ふらりと、ルノさまのもとにお越しになられてもルノさまが困ります。少し前までベッドから起き上がれずにいらしたのに」 「イジュ!」 ルノは慌てて制止の声を上げる。 だが、少し遅かった。 「ベッドで? 身体を壊しているのか、姫」 「い、いいえ、」 「そういえば少し顔色が悪い。熱はないんだろうね」 「ええと、ですから、その」 隠していることもできなくなって、ルノは俯き、口を開いた。 「……初花が参りましたの」 ぽそっと、消え入りそうな声で応える。しばらく間があった。おそるおそるふたりの男をうかがうと、思ったとおりイジュはいぶかしげに眉をひそめており、ニヴァナ侯爵のほうは諒解した様子でからりと笑った。 「そうか。それはめでたいな、姫。おめでとう」 「めでたくなど、ありません」 「そんなことはないさ。これで名実ともに大人の女性の仲間入りをしたということなのだから。もう小さな姫君だなんて口が裂けても言えないな」 甘く苦笑して、紅茶を啜る。そこには予想していたような驚きはない。 ニヴァナ侯爵は今年で三十。思えば、女性の初花などさほど珍しいものではないのかもしれない。だって、どんな娘だって遅かれ早かれ初花は迎えるものだ。考えつつ、何かおめでたいことがあったんですか、という顔でこちらを見ているイジュのほうへ目を向ける。この男のときどき見せる常識の欠如を今はとても呪いたい。 「そういえばイジュはまだ姫君の世話をしているのかい?」 「あ、――ええ。今はちょっとちがうのですけど」 さすがに初花になった娘の世話を成人男性のイジュがするというわけにもいかない。そういうわけで今はリラや別の使用人たちがルノの身の回りの世話をしていた。もともと、イジュがいくらルノに可愛がられている従者であっても、着替えや入浴といったものの世話までさせられないので、日々の細やかな身の回りの世話はリラ、外向きの随伴やその他もろもろの雑事はイジュ、といった具合で近頃は自然に分配がなされてはいた。ふぅむ、と思案げにうなずいてみせたニヴァナ侯爵は「ものは相談だけども」と口を開く。 「先ほど父上とスゥラ王にカメリオも交えて話したんだがね、終末祭までの半年ほど、こちらの月白宮の客人として滞在させてもらうことになりそうなんだ。もちろん、あるじたる姫君の了承が得られれば、だけども。その間の世話係をどうすべきかとカメリオと少し話したんだが――、手があいているならちょうどいい。イジュを私に貸してはくれないかな姫君」 |