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08




 安静にするように、と言われても、生来動き回ることが好きなルノには退屈でしょうがない。お呼ばれしていた昼食会やダンスの練習もなくなってしまったし、大好きな歴史学やつまらない修辞学の授業もなくなってしまった。抜け出しなどはもってのほかで、ルノの部屋の前には童話の姫を守る騎士さながらの様相でヒヒが立ちはだかっているという始末。
 初花は、女性にとって祝福するべきことであったが、同時に血を流すという穢れでもある。慣習上、初花の間はスゥラ王やウルとともに食事を取ることは許されない。ルノは日がな、たくさんのクッションを積んだベッドに横たわり、進まぬ読書にふけり、イライアたち使用人が運んでくるミルク粥を匙ですくった。身体は鉛のように重く、気だるくて、気付けばとろとろと惰眠を貪っている。まるで病人か何かにでもなってしまったようだ。

「“退屈。退屈。嗚呼、退屈。この世はなんともつまらない。ああ今すぐ隣国が砲台を構えてどでかい砲弾をぶっぱなさぬものか!”」

 仕方なく昔愛用していた詩集を取り出してきて、朗読してみたりなどする。かつてイジュに眉をひそめられた詩篇の数々をすべて朗読してみて、誰の反応も返らぬことを確かめると、ルノははぁと重いため息をついた。

「本当になんて暇なの……」

 目を閉じると、瞼裏に傷ついた顔をする青年ばかりが蘇る。傷つけてしまったろうか。悲しませて、しまったろうか。ねぇお前のせいではないのよ、私のイジュ。ヘイズルの髪を撫ぜて、すべらかな頬に口付けてやりたい。
 
「ルノさま」

 こんこん、とオーク材のドアを叩く音を聞きつけ、ルノは詩集から顔を上げた。どうぞ、と声をかけると、失礼します、と丁寧な声が返って、いつもながら一分の隙なく使用人服を着こなしたイライアが現れる。ルノが呼んだわけではないし、壁掛け時計の時間を考えても、まだ午後のお茶アフタヌーン・ティーには早い。

「どうしたの?」
「ええ、それが。マリアさまが例の完成品を届けに上がったとのことで……いかがいたします?」

 イライアの言葉に、「ああ!」とルノはほとりと手を叩く。マリア画家に自分の肖像画を描いてもらっていたのはひと月ほど前だ。下書きと彩色を終え、絵を乾かすためにしばらく工房にこもっていた画家だったが、ついに完成したらしい。私が受け取っても構いませんが、と申し出るイライアに、「会いたいわ」とルノは首を振る。ここ数日部屋にずっと押し込められていたせいでひと恋しくなっていたというのもあったが、何より、長い時間をかけて肖像画を完成させてくれた画家に一言お礼を伝えたかった。実際、気だるくこそあれ、立ち上がれないというほどでもない。『初めて』の経血は最初の二日ほどでほとんど止まってしまい、今は少し下着を汚す程度である。「だめ?」とルノが上目遣いにこの母ほどに歳の離れた女官長をうかがうと、普段は厳格な女官長も苦笑して、「客間のほうにお通しします」と答えた。
 画家を案内するために一度下がったイライアに代わり、リラがやってきて着替えの用意をする。パニエやコルセットで腰を締め付けるのはさすがに苦しいので、ゆったりしたシェルピンクのペチコートを何枚か重ね、腰には大きなリボンを巻くだけにする。乱れていた髪をくしけずり、少しかさついていた唇には蜂蜜を。いつもより多めに爽やかなシトラスの香水を吹きかけ、ルノは画家の待つ客間に向かった。


 イライアと窓辺で談笑をしていた画家はルノが現れると、優雅な所作で男性風のお辞儀をした。スケッチをするときいつも連れていたジスト少年はいない。

「久しぶりね。……ジストは今日はいないの?」
「はい。工房のほうで顔料を溶いております」
「顔料?」
「姫君が仰った“肌色の絵の具”をなんとか作りたいそうですよ、彼は」

 くすりと茶目っけたっぷりに微笑んでみせる画家に、ルノは「あら」と目を瞬かせる。そういえば、あの可愛らしい少年にそんな無理難題を突きつけた気もする。

「かわいそうなことをしてしまったかしら?」
「いいえ? あれから前にましてスケッチも熱心にするようになりました。いつか姫君を描きたいのですって」
「本当に? うれしい。……もちろん、スケッチの時間が短ければ、の話だけども」
 
 ルノが肩をすくめると、画家はくすくすとおかしそうに笑った。東の島国から入った珍しい茶葉でお茶を淹れるようリラに命じ、椅子にかけるよう勧めたところで、画家の後ろに、腕に抱きかかえられる程度の大きさの紗のかけられた額縁らしきものを見つけて、ルノは眸を眇めた。

「その肖像画だけど、完成したのですってね? 私にも見せてもらえるのかしら」
「もちろん。今日はそのためにうかがったのですから」
「自信のほどは?」
「満足のゆけぬ作品を持ってくるわけがございません。無論、こうして目にする姫君の美しさには敵うべくもありませんが」

 見え透いたおべっかも、この画家が口にすると、不思議と気にならない。ルノは苦笑して、イライアに紗を下ろすよう言った。イライアの白い指先が紺青の紗を引き去る。アカンサスの葉の彫られた銀縁の額に納められた絵はなるほど、ルノ=コークランそのものであった。流れるような銀髪を結い上げ、薔薇の花飾りを挿し。孔雀色ピーコックブルーのドレスはパニエでふわりと外向きに広がり、裾にもいくつも淡い薔薇が咲き乱れている。背後の花瓶にはみずみずしい白百合、そして乱れ咲く赤薔薇。胸元に勿忘草のチョーカー。何よりも少し顎を上向けるようにまっすぐ前を見据えるルノは怖いものしらずで自信に溢れている。ああ、とても私らしい。王女ルノ=コークランらしい。申し分ないわ。そう考える自分に微かな違和を感じて、ルノは目を見開いた。

「……ルノさま? お気に召しませんでしたか」

 長らくルノが言葉を失っていたせいだろう。画家が微かに顔を曇らせて、尋ねる。ルノは慌てて首を振った。

「違うわ。すごく素敵で。見とれていたの。……きっとあなたは才能溢れる画家さんなのね」
「そのようなことは。私の役目は、目の前に立つお方の魂を見定め、筆にあらわすこと。もしも画中のあなたを美しく感じられたのなら、姫君の魂こそが美しいのでしょう」

 まるで哲学者のような物言いをする。
 ルノは曖昧に相槌を打って、紗を畳んでいたイライアのほうへ目をやった。

「いいわ、イライア。紗をかけて。シャルロットの『侯爵』に届けて差しあげるといいわ」

 そう、絵の注文者は実はルノではない。
 十五歳の王女ルノ=コークランの姿を画中にとどめておきたいと願った別の者の意向だ。絵画は通常多くの寓意を託して描かれる。『愛情』をあらわす赤の薔薇、『純潔』をあらわす白百合。『わたしを忘れないで』、かくのごとく訴える勿忘草。これらの表す寓意は――

「いいや、イライア。紗をかける必要はないよ。それは私のもらうものなのだからね」

 突如として背後からかけられた声に、ルノは目を瞠った。
 かつん、と高らかな足音がして、すらりとした長身の青年が現れる。淡い栗毛、というよりはローアンバーに近い髪の色。短い髪はきれいに撫でつけられ、皺のひとつも見当たらない青灰色の上着、糊の張ったシャツ、茨の銀カフスで飾られ、一分の乱れなく折り返された袖口は青年をいかにも神経質そうに見せた。北方の森林を思わせる眸の色。その面影は記憶にあるものからいくぶん変わっていたけれども。

「ニヴァナ侯爵」
「久方ぶりだね、姫君」

 北方領シェルロットの領主、ニヴァナ=リシュテン。
 ルノ=コークランの幼少時からの婚約者である。





 手元の書物に落ちる己の影の濃さに、あたりがいつの間にか暗くなっていたことに気付く。窓の外へ目をやると、世界樹の巨大な陰影のかたわらに白い月が輝いている。明かりでも灯そうかと本に栞を挟み、ランプの置いてある暖炉のほうへ何気なく目をやると、女がいた。霞んだ目の見せた幻影などではない。まぎれもない、女である。暖炉の薄暗がりの中から、長い黒髪に黒眸、黒ローブをまとった女が何食わぬ顔をして出てきた。しばし呆気に取られていたウル王子は手に持っていた本をテーブルに置き、はぁと息をつく。

「……聞きたいんだが。どうしてお前ら魔術師連中は素直に門から入ってくることができないんだ?」
「手続きが面倒だからに決まっているだろう」

 女は尊大な態度で腕を組み、胸を張る。
 昔からそうだった。シャルロ=カラマイ――当時はクロエと名乗っていたが――が幼いウルの前にひょっこり現れ、『弟子』の少女を引き合わせたときから。オテル、と名乗ったこの娘は何故か妙に尊大で、賢しく、生意気にもウルと対等な口を利く。一国の王子であるウルにとってこれは本当に珍しい。同い年、幼馴染とも、ただの腐れ縁とも呼べる娘。この国で唯一、己に比肩する頭脳を認める女。

「――で? 何の用だ。はるばる王宮までやってきて、僕に愛を囁きに来たわけでもあるまい、オテル術師」
「忠告をしに」

 そしてこの国一つまらぬ女でもある。一国の王子の甘言にも顔色ひとつ変えず、女はたしたしと毛足の長い絨毯を豹のようにしなやかに歩き、ウルの腰掛ける長椅子の背もたれに軽く腰をかけた。ちょうど背中合わせになった娘をウルは首を捻って仰ぐ。

「忠告?」
「お前の妹姫のこと。好奇心旺盛なのは一向に構わないが、出過ぎた行動は控えてもらいたい。コークランの血族が近づくと、シュロが騒ぐ。千年祭を前に暴れられると、こっちは迷惑なんだ。私があの晩、いくつ術式を練り上げたと思っている?」
「ルノのことを僕に求めるな。第一、あいつはだめだと言ったところでさっぱりきかんよ。そういうところだけ、父上そっくりだ」

 吐き捨て、組み直した無駄に長い足をテーブルに乗っける。人目をはばからぬ行儀の悪さに微かにオテルが眉をひそめたが、暖炉から出てきた奴が何を言う、とウルは思う。

「クロエはどうしてる?」
「知らん。相変わらずあっちこっちほっつき回ってる。変わったことといえば、葉巻の量が増えたくらいか」
「術式は完成したのか?」
「さぁ。あいつのことは私にはわからない。完成は、させるだろう。千年祭の刻限までに。そういうところは実に不愉快な男だからな」

 もう十年以上の付き合いになるお前がわからぬなどと、笑いたくなったが、思えば自分とて生まれた頃からの付き合いになるのにあの男に関してはまるでつかめない。金の眸を持つ放浪の旅人。最初は父の客人として出会った。あの明るく寛容で、その実隙のないところのある王が子供のように懐いていた男。その後何度も彼は自分の前に現れたが、あるときは詩人、あるときは商人、あるときはクロエで、あるときはキェロ=ツェラ、今はシャルロ=カラマイ。名前も、容姿もそのときどきで変わり、口調すらも一貫しない。自由で、気まま、天真爛漫な魔術師。お前の本当の名前はなんて言うんだ、と苛立ち混じりに訊くと、おしえないよ、と微笑った。

「早く大学に戻りたいよ」

 呟いて、娘の背から垂れた黒髪に指を絡める。猫の毛でも撫ぜるようにいじっていると、背もたれのほうから不機嫌そうな視線が返ってきた。苦笑して手を離す。この娘を怒らせると面倒くさい。それから、「ああ、そうだ」とウルはテーブルに積まれた本の下から二通の蝋で封の押された手紙を取り出した。

「ちょうどよかった。これをお前らに送ろうと思ってたんだ。クロエを見つけたら渡しておいてくれ。『侯爵』もやってくる」

 リラの花をあしらった印で封のされたそれは、十日後にカレーニョ夫人のもとで開かれる舞踏会への招待状だった。


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