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 初花を迎えている間は殿方と食事をともにすることはできない。
 よって、ニヴァナ侯爵を迎えた晩餐が月白宮で開かれたのはルノの体調の落ち着いた三日後のことだった。キャロットオレンジのペチコートに袖口にレースのアンガジェ、胸元には薔薇のコサージュをつけて、広間に向かう。すでに席に着いていた侯爵に、「こんばんは、侯爵」とペチコートの裾を軽く持ち上げて挨拶すると、「顔色がよくなったね」と侯爵はほっとしたように微笑んだ。
 ルノ、ニヴァナ侯爵、ウル王子。多忙のため、スゥラ王は同席しなかったが、集った面々の前に食前の杏酒を置かれていく。ヒヨ豆とレタスのサラダに、栗南瓜のポタージュ。白鳥のロースト。おもてなしの料理はコックのニコが腕によりをきかせた自信作ばかりだ。室内はあっというまに芳しい香気に包まれる。
 
「まずは五年ぶりにいらっしゃったニヴァナ侯爵に乾杯。きちんとしたおもてなしをご用意できなくてごめんなさい」

 グラスを掲げ、ルノは謝意をこめて首をすくめた。私こそ、と侯爵は鷹揚に首を振る。

「こんなときに押しかけてしまって悪かったね。姫君も顔色がよくなって何よりだ」
「それでは、乾杯!」

 宙に三つの杯が上がる。ほんの少し上げただけなのはウル王子だ。眉間に気難しげな縦皺を寄せて、杏酒をちびりと飲む。この兄王子は昔からひとが多く集まる場所が嫌いで、今もひとり増えた食卓を不快に思っているにちがいなかった。相変わらずの兄の偏屈ぶりに、ルノは胸裏で眉根を寄せる。

「そうそう、ニヴァナ侯爵」

 南瓜のポタージュが空になり、サラダ、白鳥のロースト、といった品々も次々ときれいに平らげていく。イジュに葡萄酒を足してもらいながらナプキンを口元にあてていたルノは、ふと思いついて顔を上げた。

「北方のシャルロットについて聞きたいわ。あちらではオリーブは咲いている?」
「いいや、私があそこを発つころはまだ。ルバーブ畑の純白の花たちなら満開だったよ」
「ルバーブの?」
「茎は煮込んで薬に使ったり、あとはジャムにして食すのもおいしいね」
「そういえば、ニコがこの間作ってくれたガレットもルバーブだったわ」
「おや我が姫。お呼びですかな?」

 そのときちょうど、食後のパイを焼き上げたニコがやってくる。切り分けられたパイ皮からのぞく草色の蜜と甘酸っぱい香りに、「そうよ、それ!」とルノは声を弾ませた。葡萄酒に口をつけながらルノを見守る侯爵の目は温かだ。

「姫君はご存知かな。シャルロットというのは、千年前、逆十時に架かったイバラの王の家族が逃げてきた地なんだよ」
「そうだったの?」

 歴史好きなルノでもそれは初耳であった。
 千年前、聖音鳥シュロを引き連れこの地に降り立ったユグド王は悪逆の限りを尽くしていたイバラの王を捕え、逆十時に架けた。ユグド王国、及びコークラン王朝の始まりである。イバラの王については聖書や歴史書にも記述があるが、その家族についての話は聞いたことがない。

「もともと、イバラの王が治めていた場所が北方なんだ。だから、旧王家に好意的なひとが多かったのだろうね。彼らはシャルロットに落ち延び、ほら、私のこのカフスはイバラだろう? コークラン王家の世界樹に対して、旧王家の紋はひとつ茨だったんだ。その後彼らは史実から姿を消したが、紋だけは北方の地に伝えられたのかもしれないね」

 ひとつ茨?
 その言葉に引っかかるものがあって、ルノは記憶をたどる。同じ紋をどこか別の場所でも見た気がする。そう遠くない過去だ。ここではない、もっと思いも拠らない場所で――。ぱちん、と煩わしい開閉音が脳裏を響いた。黒ローブに揺れる銀の鎖、いとしげに銀蓋を撫でる仕草、そうあれは男の懐中時計だった。

「ところで、姫」

 傾けていたグラスを置いてニヴァナ侯爵が穏やかなシアンの眸を上げる。それでルノはよそにやっていた思考を取り戻した。変に空いた間をごまかすように葡萄酒に口をつけながら、「なんでしょう」と先を促す。

「バレエには興味があるかな? 今度王立劇場で稀代のプリマの白鳥の舞があってね。私の父がチケットを手に入れたんだが、よろしければ姫もと思って」
「プリマ? もしかして、ラン=スワンかしら?」
「知ってるのかい? 黒髪が美しい、」
「東洋の美女! 行きたいわ、侯爵。私、彼女の舞を見るのが夢だったの!」

 ルノは興奮のあまり頬をほんのり紅潮させて言い募る。王立劇場のラン=スワンといえば、東洋風の容姿とすらりとした手足とが美しい踊り子だ。その舞は清楚でありながらも艶やかで、さながら一羽の白鳥がごとくだという。「それじゃあ、決まりだな」と侯爵はうなずいた。

「そうだ、イジュ。君も随行しなさい。君もバレエは初めてだろう?」

 ニヴァナ侯爵の言葉に、紅茶をカップに注いでいた青年が顔を上げた。「いえ……」とこの青年にしては歯切れ悪く言い澱んでから、「仰せのままに」と淡白な口調で応える。その横顔に随行への安堵と言い知れぬ不安との両方を感じながら、ルノはぬるい葡萄酒を口に含んだ。





 薔薇色に染まった天に教会の鐘の音が響く。夕刻はユゥリートにとって、心安らかに過ごせる唯一の時間だ。ひとと交わることを好まないユゥリートは、たいてい寮棟の屋上で鳩に炒った豆をやりながら、書物を片手に夕食前のこの時間をのんびり過ごす。毎日定時にユゥリートが豆をやるので、それを覚えた鳩たちが幾羽も屋上に集まるようになっていた。一羽一羽にそれぞれつけている名を呼び、手から豆をやる。生まれたばかりの子鳩は膝に載せて、首を撫でながら炒り豆を啄ばませた。穢れのない雪のごとき羽毛は温かい。

「暇そうだねぇ、ユー君」

 ふと背後から差した影にユゥリートは目を眇めた。振り返らずともわかる。このようなことを嫌味たっぷりに言う知り合いがユゥリートにはひとりしかいなかった。くるると鳴いた子鳩を取り上げて首を撫でる青年はやはり思ったとおりの顔で、「……何の用だ」と子鳩を男から取り返しながらユゥリートは険のある声で訊く。

「やだなー、ユー君。ヒトを害虫みたいに」

 肩をすくめ、シャルロ=カラマイはひょいと屋上の立ち上げに腰掛ける。

「害獣の間違いだろ。用を言え」
「用もなしにキミを訪ねちゃいけない?」
「用もなしに私を探すほど、お前はまめだったか?」
「じゃないねぇ。ふふ、キミがご存知のとおりだよ」

 すい、と男が立てた指先には一枚の紙片が挟まれていた。下部には国立劇場の印、表には『皇女ジャーダ』と大きく印字されている。

「今日はお誘いにやってきたんです。どうだろう、ユー君。キミ、バレエに興味はある?」

 残照に爛と金の眸をきらめかせ、男は嗤う。


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