真鍮の腕木に蝋燭のかゆらぐシャンデリアの下で、純白のチュチュが舞う。鳥の羽ばたきを思わせる、清冽な舞。ほっそり伸びた腕は風をまとい、舞踏するトゥシューズは澄んだ静寂を奏でる。処女雪がごとき白い肌、艶やかな黒髪、異国の踊り手ラン=スワンには、控えめながらも鮮烈な美しさがある。そしてふと俯いた女の横顔には、微かな寂寞がよぎるのだった。 演目は、『皇女ジェーダ』。性別を隠し、王の暗殺を目論む男装の皇女と、その皇女を愛し、付き従う男との異国風の恋愛譚である。海を越えた異国の伝承をもとにしているというが、皇女と男はなかなか結ばれず、さらには王の暗殺も失敗してしまい、物語はいよいよ暗澹たる憂いをこめて佳境へと向かっていく。嗚呼。ジェーダ宮の夜の淵にて、わたしの希望は潰えた! 星は見えぬ! オペラではかくのごとく語られる、望みを絶たれた皇女の舞踏は、バレエでは一言も台詞が発せられず、ただ壮絶なるラン=スワンの舞踏と、ピアノの音のみで表される。ルノはニヴァナ侯爵から贈られた竹の扇子を握りしめ、息を詰めて舞台を見守った。 「どうだった、姫。ラン=スワンのバレエは?」 暗殺の失敗によって三幕が終わると、一刻ほどの休憩が入る。接待係が持ってきたシャンパンを取り、ニヴァナ侯爵はルノには果実酒を氷で冷やしたものを勧めた。 侯爵が用意した席は、二階のボックス、特等席にあたる。バレエ好きで知られる父親のリシュテン老は対面のボックス席で鑑賞しているそうだが、こちらからはよく見えない。あとでお礼にうかがわないといけませんね、と呟けば、そういう堅苦しいことは嫌いなひとだから、と苦笑交じりに侯爵が首を振った。 「それよりは今日の感想を話したほうが喜ぶにちがいない。ファンとしてはね」 「ふふ、そうかもしれませんね」 扇子を開いて間をもたせつつ、ルノは考え込む。 「ラン=スワンの舞踏は本当に素晴らしかったわ。あの静寂の表現。特に皇女ジェーダが望みを絶たれ、夜の淵を舞い狂う姿は胸が切なくなってたまらなかった」 そこまでを一息に言って、「だけど」とルノは苦笑する。 「皇女の気持ちは私にはいまひとつわからなかったわ。『ジェーダ宮の夜の淵にて、わたしの希望は潰えた! 星は見えぬ!』」 オペラの台詞を諳んじてみせ、ほのりと首を傾げる。 「でも、私にはまだ希望が潰えたようには思えない。男も自分も生きているのだから、もう一度、王の喉を突く機会をうかがうと思います」 「ふふ、我らが姫君は勇ましいな」 「……おかしいでしょうか」 「いいや。そんな君を私はいとおしく思うよ。だけどもね、姫。この世には己の意思だけではままならない情動や、抗いきれない絶望といったものがあるのかもしれない。少なくとも、一部の人間にとってそれは確かに『ある』んだ。皇女ジェーダにも、もしかしたらね」 そんなものかしら、とルノは曖昧に顎を引く。 想像に難いことであったし、またそのようなものがあるのだとすれば、恐ろしい、とも思う。――だって、『わたし』はいついかなるときも強い姫君でいなくちゃいけない。何者にも跪くことなく、何にも脅かされることなく。ルノ=コークランはかくあるべきなのだ。 「姫?」 侯爵の声に、ルノは思考を取り戻す。 少し上の空になっていたらしい。いったい何の話をしているさなかだったのか。無意識のうちにそばに控える従者の姿を探すと、「ジェーダは東洋のラン国の伝承をもとにしているそうですよ」とやんわり合いの手が入った。従者の機転に内心では安堵し、「ランの物語は悲恋が多いわね」とうなずく。 「男装の皇女ジェーダ。確かあちらの言葉で翠石を指すのだったかしら……、そういえば、踊り子の中にもきれいな翠の眸を持っている子がいたわね」 「アザリア、彼女もラン=スワンにひけをとらない当世きってのバレリーナだよ。実は彼女は我がシャルロットの出身でね。父が踊りの才を見込んで、王都に連れてきたのがはじまりなんだ」 「そうでしたの?」 リシュテン老がバレエに造詣深いのは聞き知っていたが、よもや踊り子の養成にまで関わっていたとは初耳だ。もしかしたら今回のチケットもその縁で贈られたのかもしれない。それとなくルノが尋ねると、姫にはなんでもお見通しだな、と侯爵は苦笑した。 「王都では珍しいかもしれないが、北方は寒冷地だからかな、全体的に色素が薄いのが特徴でね。翠の眸は結構多いんだ。そういえば、キミも北方よりの容姿をしているね、イジュ。お母上かお父上は北方出身だったのかい?」 「ニヴァナ侯爵。お話してませんでしたか、イジュは――」 この子は孤児で。 十年前の聖夜、私が拾ったんです。 「ええ」 いつものように続けられるはずだった口上は、しかし当人の声によってあっさり遮られた。 「私の母は北方出身の芸子だったんです。各地を回りながら旅をして、やがて王都にのぼり、界隈の芝居小屋で舞をするように。それをたまたま通りかかった父が見初めたのだと、父がよく語っていました。実際のところは定かではありませんが、私の顔は母譲りらしいので、そうなのかもしれませんね」 そんな話を、ルノは聞いたことがなかった。 この子は孤児。父も母もいない、私だけの名無し。勝手にそう思っていた。だが、ルノは一度だってイジュに問うてみたことがあったろうか。 『お前は何者なのか』と。 ためらいがちに見上げた先の青年は、何ということもない顔をして照明の落とされた舞台のほうを見つめていた。その顔は、遠い。 「踊り子か。北方は優れた舞い手が多いからね。きみのお母上もさぞや美しい女性だったのだろう。なぁ姫?」 「あ、ええ。そうですわね」 我ながら鈍い反応であった。それを誤魔化そうと扇子を取ろうとして、するりと取り落とす。指をすり抜けて足元へ落ちていく扇子の残像がルノの目にはやけにはっきりと映った。押し殺そうとしていた動揺が胸に沸きあがる。ああ、だめ。だめよ、ルノ=コークラン。こぼれかけた息を殺して、口を引き結ぶ。 ふっと、足元でさやかな動きを感じたのは刹那である。 「ルノさま」 落ちた扇子を拾い上げ、埃を払うようにした手のひらがルノのほうへと差し出される。どうぞ、と言ってイジュはルノの未だ強張った手に扇子を握らせた。その際軽く握られた手のひらを通して、徐々に己に血が通っていくのがわかった。それを見取ってか、イジュは手を離す。 顔を伏せたいような気分になった。ほんの一時であったが、彼に自分のすべてを見透かされた気がしたからだ。 「そうだわ、イジュ。リシュテン様に私からの礼状を届けてくれないかしら? そうね、この花を添えて」 髪に挿していた秋薔薇を抜いて、青年の手に置く。控えていたリラを呼び、ペンと上質紙とを持ってこさせた。リシュテン老に宛て、ルノはさらさらとお礼の言葉を書きつける。――今度、ぜひお気に入りのプリマのお話をさせてください。そう結んで、乾きかけのインキの上に薄紙を置く。メッセージカードはジェーダにちなんでか、美しい翠をしていた。こういうところがイジュという男は本当に気が効く。 「くれぐれも粗相のないように。未来のお父上になる方なのだから」 「……ええ」 そのときだけ従者は微かな翳りをよぎらせたが、リラにあとのことを頼んで下がった。 『皇女ジェーダ』は半日に及ぶ長い演目であるため、プリマの休息や昼食もかねて、休憩時間は長めに取られる。今から従者が訪ねていっても、迷惑にはならないだろう。考え、ルノは少しぬるまってしまった果実酒を口に含む。動揺を気取られぬためにこの場から遠ざけた、己の浅ましさに可愛い従者は気付いたろうか。 「彼はとてもきれいなユグド語を話すね」 イジュの背を見送ると、ニヴァナ侯爵はシャンパンを喉に流しながら独白めいた呟きを漏らした。 「どういう意味です?」 「いや。ただ普通、私のような地方の者はどうしても言葉に訛りが入るものであるから。どんなに取り繕っても、ちょっとしたアクセントや発音の違いはなかなか治せるものじゃない。だが、この数日一緒にいて気付いたんだが、イジュのアレは一分の狂いもない、完璧なまでのユグド王都の言葉だ。しかも、君たち王族・貴族の使っているものと相違ない」 「彼は十年近く私に仕えていますから、当然でしょう」 「君に出会う前の十五年間に培った言葉はなかなか消えないものだよ。姫。君はいったいどんな風に彼を拾ったのだっけ」 「十年前の聖夜に、この王都で。あの子は凍えて道にうずくまっていたんです」 「ほう。つまり言語を習得した幼少の頃は少なくとも彼は孤児などではなく、貴族かそれに近い者が周囲にいる環境で暮らしていたわけだ」 「先ほどから何なのです? 仮にあなたのおはなしのとおりだとして、何か問題が?」 こちらを探る侯爵の碧の眼差しには、獲物を狙う蛇のごとき冷徹さがあり、ルノをいたく不快にさせた。冷ややかな声で尋ねたルノに、侯爵は苦笑気味に肩をすくめる。 「いいや、まったく問題ではない。君がイジュを可愛がっているのは私もよく知っている」 「侯爵」 「姫。彼がこれまで君に隠れて誰かと連絡を取るようなそぶりを見せたことはなかったかい? あるいは君に執拗に何かを聞きたがったりしたことは?」 「侯爵!」 ぱん、と扇子を勢いよく投げだし、ルノは身を乗り出した。 何を、何を言っているのだこの男は。その言い草ではまるで。 「イジュが、あの子が、うすぎたない間諜だとでも言いたいのですかあなたは!」 「そうは言ってない。可能性のひとつを示したまでだよ、姫。そう声を荒げないでくれ。ただ、私は解せないんだ。何故、聡明な君は無条件に彼を信用する? 君はこれまで一度でも彼に聞いたことがあったのかい? 君と出会う前の彼がどのような出自と経歴を持ち、どのような人生を送ってきたのか。そもそも君は彼の本当の名前すら、知らないんじゃないのかい?」 あの子の名前など、知っている。 『イジュ』だ。 それ以外の名前なんてない。ルノが見つけたその瞬間から、彼は『イジュ』で、ルノだけの『鞘』なのだ。ほかの誰のものでもない、ルノだけの。 「それに、姫。君はわからなかっただろうが、彼の母親、芝居小屋の踊り子というのはね、つまり春をひさぐ女性、娼婦ということなんだよ。その意味が――」 ぱしゃん。 翻したグラスからこぼれた果実酒が男の顔面に降りかかった。ルノさま、と驚き止めようとしたリラの腕を振り払い、ルノは婚約者の襟をつかんだ。 「撤回してください、ニヴァナ侯爵」 低い声で言う。喉が痛いくらい震えていた。 「あの子を選んだのはこの私。あの子を貶める言葉は私が許さないわ!」 「……姫」 身を砕かんばかりの激しい剣幕に、侯爵は驚いたようだった。碧の眸に複雑な光を湛えて、されるがままにルノを見つめる。 「君は彼が自分にふさわしい従者だと思うのかい」 「ええ、そうです。彼の母親が踊り子でも。乞食でも。老婆でも、盗人であったとしても。私の魂があの子を見つけたのです。これ以上に何がふさわしいというのです、あの子は――」 「ルノ」 さらに重ねようとした言葉を遮ったのは、来ないとばかり思っていた兄王子だった。大学に寄った帰りらしい。黒ローブにロザリオの装いをしたウル王子は脇に抱えた書物を椅子に置きながら、淡白に言った。 「袖端が濡れている。みっともない。イジュ、そのみっともない王女をどうにかしろ」 「ああ、はい」 水を向けられてはじめて、間仕切りになっているカーテンのあたりに立っていたイジュが動く。戻りの早さをルノはいぶかしんだが、どうやらリシュテン老が不在であったらしい。メッセージカードと花をあちらの従者に預けてきた旨を手短に説明し、イジュは、ルノさま、と促した。 ルノは口をつぐむ。レースのアンガシャントは汚れていたし、ウルの指摘は正しかったからだ。 「わかりました、兄上。ニヴァナ侯爵、申し訳ないですが、一度失礼致します。演目がはじまるまでには戻って参りますので、そのように」 モスグリーンのドレスの裾を持ち上げて、礼だけは丁寧に身を翻す。 苦い笑みを口元に湛え、侯爵は顔にかけられたシャンパンを拭いながらそれを見送った。 |