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13




「まったくあの方ときたら、くだらぬ偏見ばかり! 踊り子だから、何がいけないというのよ、私だって叶うならこんな重いドレスよりもチュチュをはいて王宮を歩き回りたいくらいだわ。そうしたらあの方は目を剥いて、卒倒されるんでしょうね!」

 王立劇場の階段を早足で下りながら、ルノは苛立ちのままにひとり喋り続ける。先ほどまでニヴァナ侯爵に向かって繕っていた笑顔はすでにない。幕間のため、席を立った観客がそこかしこに集い談笑していたが、目も暮れずに長い廊下を突き走る。

「お前はどう思う!」

 勢い込んで振り返ったルノは、思っていたよりもずっと後ろを従者が歩いていたことに気付いた。

「イジュ?」

 くろがねの飾り窓から射す月に照らされた従者の顔は、薄暗がりになっていてよく見えない。首を傾けようとし、ルノは別のことに気がついた。

「……ごめんなさい。お前のお母さまのことを馬鹿にしたわけじゃ、ないのよ」

 苛立ちのままに、きっと言い過ぎてしまった。
 しゅんとなって肩を落とすと、淡い苦笑が夜気にこぼされた。

「そんなこと、思っていませんよ」

 ――それなら、どうしてこんなに距離を開けて歩くの。
 口にしかけて首を振り、ルノはドレスを翻して自ら彼の前に取って返した。ちょうど、心地よい初夏の風が吹き抜けるくらいの数歩ぶん。わたしたちはいつもこれくらいの距離を愛してきたはずだ。前に立ってまっすぐ仰ぐと、彼は言葉のとおりさして気分を害した風でもなかった。ほらね、この距離だったら、手に取るようにわかる。ルノは満足して、少し眦を緩めた。

「イジュ。お母さまとお父さまの話をして。お前のお母さまはどんな風にしてお父さまに出会ったの? 王都の片隅の芝居小屋でお父さまがお母さまを見初めて、それから?」

 幼い頃、童話をねだったときのように尋ねる。
 イジュは微笑んだ。

「母はそこでいちばんの踊り子だったそうです。見初めた父が赤い薔薇を贈った。愛情を意味する赤い薔薇。母はそれを髪に挿して踊った。終わると、父は花代の代わりにまた薔薇を一輪。賞賛らしい賞賛を、父はほとんどしなかったそうです。公演を終えた芝居小屋の裏にやってきて、逃げるように母の胸に薔薇を押し付け去ったのだと。母の評判は少しずつ王都界隈に広がり、やがて小さな舞台で踊れるようになった。ある日、母はいつものように薔薇を渡して去ろうとした父を呼び止め、赤薔薇を差し出したそうです。少ない給金からようやく買い取った薔薇を一輪。ふたりは愛し合って、そして私が生まれた」
「素適ね。まるで御伽噺みたい」

 北方出身であったというイジュの母親はきっとこの従者と同じように、柔らかなヘイズルの髪と新緑を思わせる澄んだ翠の眸を持っていたのだろう。チュチュをまとい、しなやかに舞い踊るバレリーナ。彼女に惹かれ、薔薇の花を差し出す青年の後ろ姿が目に浮かんだ。

「母は私を産んで、しばらくあとに亡くなってしまったそうですが、父はそのぶん私を愛してくれました。真面目で敬虔深く、やさしいひとだった。私の知っている聖書の物語はみんな、父が寝物語代わりにしてくれたものなのですよ」

 何かを懐かしむように目を細めて語られるイジュの言葉は、柔らかな彩りに満ちている。けれど、それなら何故、とルノは疑問に思いもするのだ。真面目でやさしく、愛情深い父親の子どもが何故、あんな凍える雪の夜に、孤児と見まごう姿で道にうずくまっていたのだろう。きれいなヘイズルの髪をざんばらにして、肌もひどく薄汚れて。ほとんどぼろきれしか身にまとわず、彼はそこで何かを待っていた。

「イジュ」

 おそるおそる口を開く。
 見上げた青年は、夜のあわいと月のひかりを連れて、まるで祭壇画の神さまみたいにきれいだと思った。爪先立ちをして手を伸ばし、ほの白いその頬に己の手をあてがう。

「ねぇ、イジュ。お前の名前は――……」

 神学と言語学に秀でていた少年。
 そのくせ、世の常識を何ひとつ知らなかった少年。
 北方出身の母を持ち、おそらくは貴族の父を持つ。
 雪の中に打ち捨てられていた少年。

「お前の、名前は――」

 イジュ、と名付けた。
 他ならぬルノが雪の中から見つけて、わたしの鞘、と名付けた。
 あれは遠い昔、イジュを連れて帰った晩、父であるユグド王はルノを膝の上に抱き上げながら言った。ルノ。俺のかわいい姫君。おまえが願い、あの子も同じようにそれを願うなら、おまえにあの子をやろう。イジュを、大事にしておやり。だが、それはおまえが弱く幼い小さな姫君である間だけ。いずれそのときが来たら、お前は彼に本当の名前を返してやるんだよ、と。
 だけど、父上。名前をかえしたら、きっとイジュは。
 いじゅは、わたしのものではなくなってしまうわ。

「……いいえ。なんでもない」

 ふわりと瞬いた翠の眸から目をそらし、ルノは手を下した。どうしてか寒気がする心地がして、ショールをかき寄せる。けれど、決して俯けないルノは唇を噛んで、虚空を見据え続ける。





 まもなく開幕のベルが鳴る。
 ――少し、話し過ぎてしまったな。
 ベルトに提げた懐中時計を開いて時間を確認し、王立教会のリシュテン老はため息をつく。幾人ものバレリーナを育てているリシュテン老にとって、彼女たちは皆わが子のようなものだ。舞台裏で、踊り疲れた足をさする娘たちに、檸檬を差し入れ、そのついでにあれこれと話し込むうち思いのほか長居をしてしまった。
 裾に銀の刺繍のほどこされた長衣を裁いて、階段をのぼる。道幅の狭い急階段は席に戻ろうと急ぐ者で溢れ、従者ともはぐれてしまいそうになる。背後に首をめぐらせたリシュテン老は、フードをかぶった女性がよろめいたことに気付き、とっさにその肩を支えた。

「大丈夫ですか、ミス」
「――王立教会の、リシュテン老でよろしいか」

 しかし女性から返って来たのは転倒を免れたことへの謝礼ではなく、怜悧な誰何だった。目を瞬かせたリシュテン老に、女は黒ローブの飾り釦をさりげなく顎でしゃくってみせる。ひとつ茨の紋様。リシュテン老の視線が鋭くなる。女は添えられた手からやんわり肩を離し、一緒に階段をのぼる風を装った。

「私は名をオテルという。貴殿もよくご存知のシャルロ=カラマイ、もとい『クロエ』と呼んだほうがあなたがたには馴染み深いだろうか。彼の唯一の弟子、志を同じくする者。今晩は『クロエ』から貴殿へ言付を預かってきた」
「話は聞いているよ。十年以上前、西の農村で才能溢れる少女を拾い上げたと。もっともわたしが知っている君はまだ七つの子供だったがね。――クロエは?」
「所用で別の場所に」

 オテルと名乗った女は近くの男にぶつかったふりをして、リシュテン老にさらに身を寄せた。「話がある。リシュテンの『娼婦』について」、声をひそめて女は囁いた。娼婦、というからには教会で崇める聖女ではなく、巷の見世物小屋で騒いでいる偽者のほうであろう。

「戯れは、よせ」

 腹の底から響くような声で、女は告げた。

「『彼女』と『小鳥』のことはすべて『エン』に任せると、若き青年侯爵であった頃のお前はクロエに約束したはずだ、リシュテン」
「……もちろん覚えている」
 
 リシュテン老はちらりと従者に視線を向けながら言った。クロエの弟子を名乗るこの娘がどれほどの才を持っているかは知れないが、このひとごみの中で接触をはかったことから考えても、クロエ譲りの胆力と自信の持ち主であるのは間違いない。息を吐いて、「しかし」とリシュテン老は女の黒い双眸を見つめた。

「そう言う彼は、わたしたちの味方であるのかな?」
「彼は、誰の側にもつかない。つく気がない」

 女の言葉は明瞭だった。柳眉をひそめて、どうしてわからない、とでもいうように苛立たしげに眸を細める。

「彼はこの楽園の傍観者。誰にも拠らず、誰にも与せず、ただ己に課された時を生きるだけ。それを知らぬ貴殿ではなかろう」
「しかし、ひとの子は疑り深きもの。リシュテンは、案じているのだよ。長き時を渡る中で、彼は私たちにまつわるすべてを忘れてしまったんじゃないかってね」
「彼は、今も王を愛している」
「彼の心のうちなど、私たち若輩にはかれるのかい?」

 首からかけたロザリオに指を絡め、リシュテン老は苦笑した。
 最後の一段をのぼる。「戯れとは判じかねるが」と前置きして、リシュテン老は言った。

「不逞の輩がいるようならば、取り締まろう。彼には深い恩義がある私であるから」
「信じよう」

 視線が短く交差する。女は黒ローブを翻して、その場をあとにした。

「老?」

 足取りの遅くなったこちらに、あとから追いついた従者が問う。なんでもないさ、と首を振り、リシュテン老は天井を仰いだ。
 霞んだ目を閉じれば、明け星にも似た金の眸がひかりをまどろませてわらう。あの頃と寸分変わることなく。


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