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 父王であるスゥラ=コークランから、カメリオを通じて呼び出しがかかったのは皇女ジェーダの観劇を終えた翌々日だった。カメリオを伴い太陽宮にある王の書斎に赴けば、窓辺のソファで談笑するスゥラ王とニヴァナ=リシュテン侯爵の姿がある。ルノに気付いたニヴァナ侯爵が、白磁の茶器を置いた。

「ごきげんよう、姫。気分はいかがかな?」
「ごきげんよう、侯爵、父上。悪くはありません」

 素直に悪いと言わなかったのは、せめてもの理性だ。
 皇女ジェーダ観劇の日に起きたイジュにまつわる一件以来、ニヴァナ侯爵とのルノの間にはあきらかな溝が生まれてしまっている。観劇の後半はほとんど口を利かず、そのあとも顔を合わせることは避けていた。ルノの性分の問題で、面と向かえば、どうしても先日の件を問いただし、やり込めたくなってしまう。頭を冷やす時間が必要だと感じていた。

「……それで、今日は何の御用ですか」

 勧められた席に腰掛け、ルノはさっそく切り出した。
 対するスゥラ王は呆れ混じりに蒼の眸を細めている。

「まったくおまえときたら、肉親と半月ぶりの会話を楽しむ気はないのか」
「父上がお忙しいことは、よく存じているつもりです」
「見ろ、これだよ」

 スゥラ王はニヴァナ侯爵に向けて肩をすくめ、ひとまずルノのぶんの茶器を用意するよう給仕に命じた。まもなく運ばれてきた茶は、普段愛飲しているものとは微かに色が違う。飴色に近い色合いで、近づけると強い花香がくゆった。「皇女ジェーダの舞台となったラン国の茶葉だよ」とカップを品よく摘まんで、ニヴァナ侯爵が言い添える。どうやら茶葉は侯爵が持ち込んだものらしい。思いのほか甘く飲みやすい茶を、ルノは苦い気持ちで飲み下した。

「聞いたぞ、ルノ。初花がきたらしいな」
「ああ、ええ。……カメリオですか」

 書架に控える侍従長へ一瞥をやると、ただ思慮深い眸が伏せられた。

「カメリオを責めるんじゃない。いずれ俺の耳には入ることであるし、嫌なら自分で伝えにくればよい」

 ルノは口をつぐんだ。その話題を避けて、体調が戻ったあともずっと月白宮に引きこもっていたのはルノである。不自然にひらいた間を茶を口に含んで誤魔化し、「それで」と話の穂を継いだ。
 
「初花が参りました。そのことで、何か?」
「婚礼の準備を始めようと思っている」

 端的な言葉は、それゆえルノの胸にまっすぐ突き刺さった。
 眸を大きく開き、ルノは絶句する。婚礼の、準備。無論相手はニヴァナ=リシュテン侯爵をおいて他にはいない。
 ルノの婚約者がニヴァナ侯爵で決まってからというもの、いつ告げられてもおかしくない言葉のはずだった。それなのに。ルノはひどく動揺した。してしまった。

「……いつ、」

 なんとか吐き出した言葉は震えて、微かにかすれていた。
 ルノはソファに広がるドレスの布端を握り締め、頤を上げる。

「いつを、お考えですか」
「俺は千年祭を考えているんだが、どうだ?」

 思ったよりもずっと早い。千年祭が執り行われるのは聖夜、もう半年もない。さっと蒼褪めたルノの気色を読んだのか、「何も婚姻までを済ませるわけじゃない」とスゥラ王は軽く笑った。

「今年はちょうど千年紀だ。そして、聖夜はお前の生まれた日でもある。その日に、貴族連中や国の者らに向けてお前とニヴァナ侯爵の結婚を発表しようと思う。実際の式は、……その半年後くらいか。どう思う、カメリオ?」
「ルノさまさえよろしければ」

 話を向けられた侍従長はそう断った上で、慎ましやかに口を開く。

「今度のカレーニョ夫人の舞踏会で、うちうちの親族への発表を済ませてみてはいかがと。カレーニョ夫人は陛下の叔母君にあたるおひとでございますし、招待客は王族にゆかりのある者に限られておりますから。ルノさまとニヴァナ侯爵が一曲踊られたのち、婚礼について告げるというのはいかがでしょう」
「うーむ。おまえはどう考える、ルノ」
 
 スゥラ王の叡智を秘めた双眸がルノを見つめる。
 あえてこの場に招き、意見を求めるのは、父王のルノの性分を知悉するゆえの優しさであり愛情だ。胸が不意に心細く締め付けられる。ルノはそんな父王の目を暫時見つめ、やがて首を振った。

「私に異存はありません」

 かたずをのんで見守っていたカメリオとスゥラ王の表情が明るくなる。それに一抹の後ろめたさを抱きながらも、「ただし」とルノはきっぱりと言った。

「侯爵が、イジュに先日の非礼を詫びれば」
「イジュに?」
「ええ」

 聞き返した侯爵に、ルノは顎を引く。

「あなたが仰ったことは私にとって許しがたいことです、侯爵。その気持ちを抱えたまま、あなたを伴侶にする誓いはできない。ワルツを踊ることもです」
「姫。私は君の従者を貶めた覚えはないよ。ただ忠言をしたまでだ」
「忠言にしては度が過ぎます」
「悪いが、度が過ぎているのは君の従者への入れ込みようのほうだ」
「なんですって?」
 
 ルノの声音が険を含む。侯爵はスゥラ王とカメリオをうかがったが、ふたりが無言で促すのを見て取り、口を開いた。

「ルノ姫。かねてから提案をしようと思っていたんだ。私との婚礼が済んだのちは、イジュを手放しなさい」
「……意味を、はかりかねます」
「幸い彼は優秀だ。カメリオつきで別の仕事をさせても、問題はないだろう。なんなら私の世話役につけてくれても構わない」
「意味がわかりません。あの子は私の従者です、あなたのものではない!」
「姫!」

 荒げた声にかぶさるように男の怒声が降った。ルノは貴族の子女のように身をすくませたりは、しない。むしろ反感を抱いて、男をきつく睨みつけた。侯爵のシアンの眸は押さえきれない苛立ちを宿して細まっている。

「君は、どうかしている」

 侯爵は呻いた。

「私の何が、どんな風に、おかしいというんです」
「私は君の賢さに敬意を表しているつもりだが、姫。わからないというなら教えよう。いったいどこの国に自分の世話を別の男に任せる妻がいる。君は私の妻になるんだ、ルノ姫。いつまで君のわがままで、イジュを縛り付ける。本来の名まで奪って」

 ぱん!
 乾いた音が爆ぜた。目を瞠る侯爵を見据え、ルノは華奢な肩で荒い息をつく。頬を張った手のひらからじわじわと熱っぽい痛みが広がる。こめかみがつんと痛んできて、ルノは唇を噛んだ。

「ワルツは、踊りません」

 葛藤の末、吐き出したのはそれだけだった。侯爵とスゥラ王、カメリオを見つめ、「踊りません」と繰り返す。形だけは辞去の礼を取り、淡い檸檬のシフォンを重ね膨らみを出したドレスを翻す。ドアノブに手をかけた瞬間、困った風に目配せを送り合う父とカメリオの姿が目に付いたが、ルノは迷うことなく扉を閉めた。





「嫌よ」
「ルノさま。そう仰らずに」
「嫌と言ったら、嫌」
「ルノさま」
「お前がどんなに頼んだってここからは出ません」

 そして、この問答である。
 長時間にわたる説得を突っぱね返され、おまけに扉の向こうにはクローゼットのバリケードまで張られ、カメリオは重苦しい息をついた。
 すでに二日になる。例の一件以降、ルノ姫は月白宮の寝室に引きこもってしまっているのだった。ひそかに食事を届けているマルゴット先生はこの年頃の娘ならではの癇癪だろうとはなから傍観者気取りであるが、カメリオにすればそうもゆかぬ。何せルノ姫ときたら――

「舞踏会でニヴァナ侯爵と踊るのなんて絶対嫌よ」

 こう言って聞かないのだ。
 昨晩、試しに窓から護衛官のヒヒに侵入を試みさせたが、姫君の愛読書である『男の哲学』で脳天を打たれ、すごすごと引き返してきた。おまけにマルゴット先生を含め、女官の何人かはルノの味方についているものだから、余計にたちが悪い。
 痛んできたこめかみを揉み、「イジュを」と言いかけ、カメリオは舌打ちした。かの青年は侯爵について昨日か太后の離宮に出かけており、月白宮にはいない。

「スゥラ王も先日のことを鑑みて、舞踏会での発表は控えるとのお考えです。それで、よいではありませんか」
「……」
「ルノさま」

 沈黙する扉に、カメリオは呼びかける。

「カレーニョ夫人の舞踏会をお勧めしたのは私ですが、参加されるとお返事したのはあなたさまご自身のはずです。今年はニヴァナ侯爵も参加なさるというのに、婚約者のあなたがダンスを踊らなくては周りもいぶかしがりましょう」
「それでも、嫌よ」
「いい加減になさいませ、姫様」

 珍しく、カメリオは厳しい声を出した。
 業が煮えた、といってよい。

「侯爵とダンスを踊るのは、王女ルノ=コークランへのスゥラ王のご命令です」
「父上なんか嫌い」
「ええ、ええ。それならどうぞカメリオめもお嫌いになってくださいまし。それでもダンスは踊っていただきます。よいですね」

 ルノは、押し黙った。
 気分を害されたか、とカメリオはすでに何度目かになる嘆息をする。

「……あのとき、お前は止めなかったわね」
「ルノさま?」
「父上も、お前も、同じ風に考えていたの? 最初からイジュをどこかへやってしまうつもりで、侯爵の世話係をやらせていたの?」

 扉を隔てているせいか、ルノの声は常になく心許ない。初花は女性の精神を不安定にさせるという。姫君のそれはすでに終わったが、まだその名残があるのだろうか。それとも、長く仕えていた自分に裏切られたような心地がしたのか。

「いずれイジュには別の仕事を与えるつもりでおりました」

 それだけで十分であったらしい。癇癪を起こしたのか、何か重いものが扉にぶつかる音がした。それきり扉の向こうは静まり返る。ルノさま、と今一度優しくノックする。返事は返らなかった。泣き声すらも返らなかった。あの勝気な姫のことである。泣くのなら、かぶったシーツのうちにうずくまりひとりで声を殺して唇を噛むに決まっていた。カメリオはときどきそんな姫君を痛ましいくらいに、もろい、と思う。


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