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15




 ルノの心の翳りを映し取ったかのようなあいにくの曇天の中、カレーニョ夫人の舞踏会は開かれた。今は未亡人である夫人の城館は、階段、手摺のいたるところに摘み取ったばかりの花々が飾られ、昼であるにもかかわらずシャンデリアには火も灯されて、輝かしい光に満ちている。
 はやりの東洋風の文様で縁取られたショールを羽織り、紙の扇子を開く貴婦人。そうかと思えば、古きよき伝統的な正装に身を固め、息がつまるんじゃないかと思うほどコルセットをきつくしめて、どっさり連なるフリルのドレスを重たげに抱え上げている貴婦人もいる。対する紳士たちは皆、灰や黒のフロックコートにネクタイを締め、そこだけは趣向を凝らしたタイピンや釦で個性を競い合う。部屋の中央にはグランドピアノが置かれ、楽師の演奏にあわせて紳士が淑女を誘い、淑女は口元を隠していた扇子をぱさりと閉じてそれに応える。昼過ぎから始まった舞踏会はすでに、何曲かのワルツを数えていた。

「ルノさま。そうぎゅっと唇を引き結ばれては紅が塗れませんよ」

 ルノ姫は、しかし未だ控えの化粧室に座し、不機嫌そうな膨れ面に白粉をはたかれていた。「ルノさま」と今一度イライアが促せば、仕方なしといった風に唇が綻ぶが、噛まれてばかりいた唇はところどころの皮膚が傷ついて、ひどいありさまだった。仕方なく、クリームを塗った上で少女らしい、橙に近い色合いの明るい紅を差す。身にまとうドレスは孔雀色(ピーコックブルー)。裾にふんだんに薔薇の造花がほどこされたあの、画にも描かれたドレスだ。もともとはニヴァナ侯爵がルノに贈ったもので、首元の勿忘草のチョーカーも同様である。それが、余計にルノ姫の気を揉ませるらしい。先ほどまではドレスを着ることすら嫌がっていたのだが、侍女たちに泣きつかれて、仕方なく袖を通したのだった。常より丹念な化粧を済ませると、銀髪を結い上げ、みずみずしい咲き初めの薔薇を添える。

「ほら、姫さま完成です。お美しい」
「……あたりまえよ」

 唇をつんと尖らせて言うが、いつもの覇気がない。
 イライアは苦笑した。

「外でルノさまを迎える準備をしてまいります。三十分後、扉を叩きますからね。そのときまでにはいつもの愛らしい笑顔でいてくださいませ」

 まだ少女らしい細い肩にかかった後れ毛を梳いて、イライアは侍女たちを促し部屋の外に出る。扉を閉める際、目に入ったルノ姫はじっと唇を噛んで何かを乞うように窓の外を見つめており、イライアは知らず嘆息をこぼした。


 イライアたちが去ったあともしばらくの間、ルノは窓から薄曇りの空を睨んでいた。
 そしておもむろに立ち上がり、しつらえられた鏡の前まで行って己の姿を顧みる。大きな鏡に映されたルノ=コークランはきれいな孔雀色のドレスをまとい、裾にまでふんだんに縫い取られた橙の薔薇、首元のチョーカー、レースを絡めて結い上げられた銀髪、とびきりの装いをしているのに、ちっとも美しくなかった。貧相な身体をめいっぱい飾り立ててたたずむ娘がそこにいた。
 弱い自嘲が口端に浮かび、ルノは眉根を歪めて鏡に手をつく。
 不意に、耐えがたいほどの息苦しさを覚えた。ルノは鏡から離した手のひらでさ迷い求めるように窓を開く。ふわりと頬を撫ぜた夏の終わりの、湿り気を帯びた風。広がる空。翠の大地。窓の桟から身を乗り出して、ルノは声なき声を張り上げた。はやく、むかえにきて。むかえにきなさい。
 そうよ、おまえはいつだって最初にわたしの呼び声にこたえてくれた。
 泣きたくなって、ルノはきれいに結い上げた髪のピンをむしり取った。薔薇の花を投げ捨て、ドレスをたくし上げて、窓の桟に足をかける。抜け出し方は知っていた。いつもやっていたことだ、この城館でだってひとりでできる。
 破いたカーテンを繋ぎ合わせて、窓のすぐ近くの柱に結びつけ、庭へと垂らす。窓の桟に手をかけ、長くて重いローブの裾を持ち上げるようにして、揺れるシーツから庭に下りた。いつもよりずっと手間取りながら、地面に足をつける。靴を履くのを忘れたせいで、草先がちくんと足裏を刺した。
 のしかかりそうな天。ひとのいない庭をルノは走る。
 どこへ、行こうと思ったのだろうか。いつものように城を抜け出そうとでも? 抜け出して、街へ出て、塞いだ気を晴らそうとでも? それとも不忠な従者の頬を力任せに張ろうとでも? わからない。ただ、走りたい。ここではないどこかへ行きたい。
 いつしか、空から銀の霧雨が降り始めていた。雨滴が額をぽつりぽつりと射し、ドレスを重くする。それでも、走った。コルセットできつく締められているせいですぐに息が上がる。苦しさにぜいぜいと息を乱れさせながら、ルノは走った。きついコルセットも、パニエも、ペチコートも、みんな脱ぎ捨ててしまえばいい。首に巻きついたチョーカーもいらない。このまま裸足で、どこまでも走ってゆけたら。
 いいえ。走りたいんじゃない。
 わたしは、どこかへにげたかった。

「……っ」

 けれど、ついに、ルノの足は止まった。
 ルノの上背よりもずっと高い城壁が目の前にそびえていたからだ。整然と積まれた石壁に足をかける凹凸はなく、のぼることなどできそうにない。立ちすくみ、そしてルノは壁にこぶしを叩きつけた。悔しくてたまらず、嗚咽すら出てこない。雨でしとど濡れそぼり、泥でドレスを汚し、髪を振り乱した自分は今、たいそう不細工だと頭の端で思った。

「ルノ」

 そのとき、膝に手をついた己の背に低い声がかかった。
 ルノは雨雫を宿した銀の睫毛をゆっくり上げる。

「……兄上」
「イライアたちが騒いでいたぞ。何をしてるんだお前は」

 ウルの言葉は、相変わらず淡白でそっけない。
 灰色の傘をルノのほうに差し出すでもなく、ただひどく冷めた顔でこちらを見つめている。

「兄上こそ。このような場所で何をしているのです」
「散歩だ」
「嘘でしょう。壁の花になるのが恥ずかしくて逃げ出してきたんです」
「そういうお前はニヴァナ侯爵とダンスを踊るのが嫌だとごねて逃げ出したらしいな。まるで子どもだ」
「子どもで結構です。私は子どもですもの」
「威張るな、みっともない」

 ぴしゃりと跳ねつけ、ウルはきびすを返した。

「……どこへ行くのです」
「決まっているだろう。イライアに城壁の前で突っ立っている妹を見つけたと言ってくる」
「裏切り者! やめてください!」
「何が裏切りなのやら」

 肩をすくめて、ウルは歩き出した。しかし数歩行ったところで、何かを置き忘れてきたかのようなそぶりで足を止める。ルノ、と暫時のちウルは呟いた。

「踊れ」

 嫌悪の視線を投げかけたルノに、兄王子は目を眇める。

「踊り、笑え。馬鹿みたいに阿呆みたいにそれしか知らない愚者のごとく。王女なら、踊り続けろ、みすぼらしい姿など誰にも見せるな、常に胸を張れ。もしもそれができないというのなら」

 白い指が雨の吹き溜まる泥濘を差した。

「そこで、死んじまえ」

 その言葉は。
 深く、深く、深く、深く。
 ルノの胸を抉った。
 声も失って、呆然と立ち尽くす。
 そんなルノにいっぺんたりとも声をかけず、ウルは灰色の傘を返した。強くなった雨が肌という肌に突き刺さり、絶え間ない雨音が脳髄を浸食していく。泣きたかった。けれど、泣くことすら忘れて、ルノは濡れそぼったみすぼらしい姿のまま城壁の前に立ちすくむ。膝を折ることも、できずに。


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