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16




「姫さま!」

 降りしきる雨の中、茫洋と立ちすくんでいたルノの意識を取り戻させたのは、珍しいカメリオの怒声だった。すっかり凍えて体温の失せた両肩を引き寄せられる。

「いったいどうなさったのです。こんなにお濡れになって、冷たくなってあなたさまときたら」

 皺の刻まれた手のひらから伝わるぬくもりが温かい。けれど、それでも睫毛をちらとも震わせず、ルノは静かに吐息し、カメリオの腕の中にいる。

「ルノさま?」
「……イライア」

 女官長に濡れた前髪をかきあげられるに至って、ルノはようやく俯いていた顔を上げた。重く纏わりついたドレスや裾のあたりに跳ねた泥などをひとしきり見回す。

「こんな姿じゃ、おばさまにお会いできないわね。着替え直すから、手伝って頂戴」

 かすれがちに紡がれた言葉はまぎれもなく自分の声でありながらも、自分のものでないようだった。凍えきった身体の底で燃え盛る炎があった。その炎に半ば突き動かされるようにして、ルノは今この場に立ち、吐息している。

「私、踊るわ」





 アカンサスが花咲けるオーク材の扉が開かれる。
 目に射したのは、外の曇天が嘘のようにまばゆいシャンデリアだった。真鍮製の腕木には千はあろうかという数の蝋燭たちが立てられ、吊り下げられた硝子が炎を映して七色に移ろう。中央には、珍しい東洋の花樹が持ち込まれ、まみどりの葉に白い花を咲かせていた。
 ワルツは、奏でられている。いちにさん、にぃにさん。ピアノの音に乗って、貴婦人のドレスがそよめく花弁のように揺れる。それらをひたと見つめて、ルノはおもむろに光の中へ踏み出した。着替えたドレスはコルセットできつく腰を締め、重いパニエで膨らませた伝統のものであった。イライアはルノの体調を慮って、シュミューズ風のラフなものを勧めてきたが、嫌よと断った。真珠を散りばめたペールホワイト。首には侯爵から贈られた勿忘草のチョーカーを巻いた。注がれる客人たちの眼差しを受けて、ルノはドレス裾を持ち上げ、軽やかな礼をした。

「今宵はお招きいただきありがとうございます、親愛なるおばさま。遅くなってしまって申し訳ありません」
「まぁルノ。ようこそいらっしゃい」

 花を綻ばせるように微笑むと、ルノは柔和に腕を開いたカレーニョ夫人の頬へふわりとキスをする。幼い頃から、会うたびに贈った大好きなおばさまへのキスだ。

「久しぶりね。あたしの椅子で騎馬ごっこをしていたお転婆姫が大きくなったこと」
「嫌だわ、おばさま。私もう、騎馬ごっこなんてしません」
「おや、あたしの可愛い姫のお転婆ぶりはさっぱり治らないと聞くよ」

 カレーニョ夫人はおかしげに笑い、「うれしい報せがあるそうじゃないか、ルノ。うん?」と声をひそめ、花樹のかたわらに立つニヴァナ侯爵へ視線を送る。ルノの結婚をスゥラ王はこの舞踏会で話さずともよい、とカメリオに語ったそうであるが、どうやらこの好奇心旺盛の叔母上はそれで済ます気がないらしい。ひそりとかわされる会話に思い当たったのか、表情を険しくして見守るカメリオたち、イライア、それから侯爵の影のようにそっとたたずむイジュを見つめて、ルノは息をつく。そして、わらった。

「ええ、そうです。おばさま。そしてお集まりの皆様。わたくしルノ=コークランは、かねてより婚約しておりましたニヴァナ侯爵との成婚が正式に決まりましたので、今日はそのご報告をさせていただこうと思っておりましたの」

 ルノの告白に、その場がわっと華やぐ。ニヴァナ侯爵が月白宮に滞在していることはすでに噂となっていたし、年齢を考えればいつ成婚の話が出てもおかしくはなかったが、それがルノ本人の口から認められたのである。そっと送った目配せに応じて、侯爵が左右に引けた人波の間を通り、優美な礼をする。

「皆様お待ちかねのようだ。一曲いかがですか、未来のシャルロット夫人」
「ええ、喜んで」

 レースで編んだ手袋に侯爵が口付けをする。そのまま恭しく引かれた手を軽く握り返した。一度は止んでいたピアノの旋律が再び緩やかに流れ出す。シャンデリアのちょうど真下は、まるで白日の下にいるかのように明るい。
 ルノはほのりと首を傾げて、侯爵を促した。長く重いペチコートの裾をけれど、それと感じさせないくらい軽やかに翻す。踊れ、とルノは思った。踊れ。踊れ。踊り続けろ。道化のように、芸妓のように、それしか知らぬ憐れな愚者のごとく。ここにいるのは、王女ルノ=コークラン、それでよい。だってわたし、そんな風にしか生きられない。そんな風にしか生きてゆけない。泥にまみれようと、悄然と濡れそぼろうと、光のもとに立つとき、ルノはいついかなるときも王女としてわらうのだ。
 熱に浮かされたように、ルノは踊った。そうして、長くもあり、短くもあった一曲が終わる。ふっと、ひんやりした空気が肺腑に通った気がして、ルノは思考を現に戻す。あたりを見回すと、変に間延びした沈黙が返った。
 ――悪かったのだろうか、出来は。疑心がもたげ、視線を彷徨わせる。無意識のうちにイジュたちの姿を探そうとしたところで、ぱちぱちと、別の方向から拍手が鳴った。それで我に返った様子で、集まった紳士淑女たちが手を叩き始める。

主役ヒロインはいつもきみだな……」

 肩をすくめ、侯爵が呟いた。離した手を再び引いて、「もう一曲いかがですか姫君」と続ける。ルノは苦笑した。

「結構よ。おなかが苦しくって、もう踊りたくないの」

 王女のあけすけな物言いは数多の貴婦人の共感を誘い、そして温かな笑いを光のもとへ呼んだ。





 月が天高く昇る頃になっても、ピアノの音は一向にやみそうになかった。今宵に限っては夜が明けるまで招待客は踊り狂う。例年そうであると聞いていたから承知はしていたものの、零時を過ぎる頃にはさすがに疲れてしまって、ルノは一度休憩を取るという名目でその場を退去させてもらうことにした。
 長い廊下の暗がりをひとりで歩く。途中まではイライアが明かりを持っていたのだが、いたずらな風に吹かれて消えてしまったのだった。女官長が明かりを取りにいっている間、ルノはのんびりと廊下を歩き出した。幼い頃から時折出入りしていた夫人の館は見知らぬものでもない。
 虫の声すら静まる夜陰のなか、己の足音だけが高い天井に響いている。等間隔に設けられた窓からは蒼い月光が射していた。ふと、前方に大きく翻るレースのカーテンを見つけて、ルノは眉をひそめる。夫人の侍女が窓を閉め忘れてしまったのだろうか。考え、そちらに向かうと、窓の桟から垂れる長い足が見えた。夜の漆黒に溶け入りそうな黒ローブ。胸には、黒数珠を連ねたロザリオ。ルノの視線に気付いたのか、月のほうへ向けられていた金の眸がふっとこちらを見やった。その硬質さに魅入られたのは一瞬で、すぐにもう見慣れてしまった笑みがへらりと男の口元に浮かぶ。

「ごきげんよう、姫君。奇遇でございますねぇ」

 奇遇などと。
 一介の神学生であるこの男がそうやすやすとカレーニョ夫人の邸宅に入り込めるはずがない。ルノは一時言葉を忘れたのち、そんな己を恥じて顔を思い切りしかめた。

「お前はいったい、こんなところで何をしているのよ。どこから忍び込んだの?」
「そりゃあもちろん、本日いちばん輝いていた姫君に賞賛と拍手とを贈らせていただけないかと思って待ち伏せしていたわけですよ」
「窓の上で?」
「そう、窓の上で。今宵の月はキレイでしょ? ちなみにチケットなら、持っているよ」
「嘘」
「嘘じゃない。キミのお兄さまがくれたんだ」

 唖然とするルノをよそに黒ローブから取り出したチケットをひらりと振って、シャルロ=カラマイは中天に架かる月を仰いだ。よく見れば、その指先には太い葉巻が挟まれている。男の黒ローブからは苦いような甘いような、不思議な香がした。

「ご覧、ルノ姫。半分しか顔のない月は、誘惑者の月。じぃっと見つめていると、確かに美しすぎて気が狂う心地もする」
「お前の言うことはわけがわからないわ」
 
 独語する男の背に悪態をつきつつ、ルノは己の胸のあたりをぎゅっと握り締める。ひりひりと胸焼けのごとき気分の悪さが広がっていた。ああやはり会いたくなかった、と思う。この男に、ずっと会いたくなかった。教会付属大学の図書館で、通り過ぎる神学生たちの中で金髪の頭を知らず探す。探していたのは、会いたくなかったからだ。見つけたその瞬間に、先に背を向けてしまおうとそう考えてルノは男の姿を探していた。

「そーう? 残念。キミは月の名前を冠しているっていうのに、ちっとも月夜の情緒というのがわかんないみたいだねえ?」

 だって、この男はルノを乱す。

「うるさいわね。学者気取り」
「だって学生だもの。神学生」
「神学生なら、少しはそれらしく神への祈祷でも捧げてほしいものだわ」
「あはは、神ねーえ。それって樹上のなーんにもしてくれない神さまのこと? それとも世界樹にしがみついてる小鳥さんのことかな?」

 小首を傾げるようにして、男はルノをのぞきこむ。

「あなたは、なんなの」

 その眸を真正面から捉えて、ルノは声を落とした。

「シャルロ=カラマイ。歳は二十一歳。男。大学の成績はおおむね良好で、天文学が大得意。好物は葉巻と酒とペンネおばさんの無花果パイ」
「そんなことが聞きたいんじゃないの」

 思わず語気が強くなる。
 はた、と金色の眸が無垢に瞬いた。

「ひとつ、聞いたことがあるわ」

 ルノの持ち札は常に少ない。それでも仕掛けるのならば今だと本能が告げていた。きっと、そうなのだろう。この話をするために、ルノはシャルロ=カラマイを常にどこかで探しもした。

「シャンドラ地方のカラマイ伯爵の子息シャルロ=カラマイについて」

 はっきりとかちあった視線に臆すことなく、ルノは「お父上はお元気?」とゆるりと口端を上げた。

「持病の肺の病気は、落ち着いたのかしら。医者のガブリエル先生はまだいらっしゃる? 金髪のメイドとたいそう仲良かったそうね。あなたの初恋は彼女なのかしら。よく癇癪を起こして使用人を叩いていたと聞くわ。好きな食べ物は、ライスプティング。メイドのアマンダとよく分け合っていた。父上に怒られそうなとき、あなたが隠れたあの場所は、まだ覚えている?」
「……」
 
 冷ややかな沈黙が落ちる。怜悧に変じた金の眸をまっすぐ捉えて、「知っているわけないんでしょうね」とルノは言った。

「宮中に出入りしていた画家が一度、カラマイ伯爵とその子息の肖像を描いていたの。彼女は私が敬愛する、とってもすてきな画家さんでね、聞けば自分が描いた肖像にまつわることはぜんぶ記憶しているのですって。今から十年ほど前。肖像には、カラマイ伯爵とその奥方、お兄さまとあなた。今の話は、肖像を描くためにひと月ほどシャンドラ地方の城館に滞在した画家の記憶よ。彼女はこう言ったわ。シャルロ=カラマイ。伯爵家の困り者の次男。彼の眸は、燃え盛るような森林のあお。エメラルドグリーンであったと」

 そしてルノは問う。
 お前はだれ、と。


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