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17




「……ふっ」

 エメラルドグリーンとは異なる金の眸。
 軽く見開かれたそれを緩やかに細め、シャルロ=カラマイは引きつけでも起こしたかのように喉を鳴らす。知らず身構えたルノの前で弾けたのは、盛大な笑い声だった。

「ふ、あはははははは! すごーい、姫、大当たり。いやいや恐れ入った。恐れ入ったよ。メイドのアマンダはともかく、ガブリエル先生? ライスプティング? 何それまったく知らないよ。こんなにひやひやしたのはいつぶりだろう。何よりも」

 窓の桟に腰かけたまま、男は足を組み直す。弾みに翻った漆黒のローブは、夜の帳のようで底知れない。

「こんな人気のない場所で、俺とふたりっきりで、それを持ちだすキミの胆力に。恐れ入ったね、さすが姫だ。あるいは怖いもの知らずと言えなくもないのだろうけれど」

 くすりと小さく笑い、男は組んだ膝に頬杖をついた。

「お察しのとおり、ワタシはシャンドラ領カラマイ伯爵のご子息シャルロ=カラマイじゃあない。ご心配なく、本物は今頃初恋のメイド・アマンダ嬢とクレンツェで楽しくやっているよ。彼から四年の間、名前と身分を借り受けているのがワタクシ」
「お前の名前は?」
「キェロ=ツェラ。あるいはクロエ。あるいは、ああその先はもう覚えてないな。キミの質問が親から与えられた名前を意味するなら、エン。とはいえ、親に授けられた名前ばかりが真の価値を持つとは限らない。まったく赤の他人によって与えられた名前のほうが当人にとってより重大な意味を持つということもある。うん、そうだね。つまり今のワタシはやっぱりシャルロ=カラマイなんじゃないかな。少なくとも終末祭までは」

 キェロ=ツェラ、あるいはクロエ、あるいはエン。あるいは、シャルロ=カラマイ。男の言うことも道理で、この男にとって名とはさほどに価値を持たない流動的なものであるのかもしれない。唇を噛んだルノの前に、「どうする、姫」と男の長い影が差す。

「キミんところのじいやに言いつける? 素性知れずの男が大学に混ざっているって」
「お前は、いったい誰なの」

 なんだか泣きたいような気分に駆られながら、ルノは再度問うた。

「シャルロ=カラマイ。その前はキェロ=ツェラ。その前はクロエ? 別にどの名前で呼んだって構わないよ」
「そうじゃないわ」

 ローブの腰元に巻かれた革ベルトに掛けられている時計鎖へ目をやって、「それを見せて」とルノは言った。一瞥ののち、シャルロ=カラマイは観念した風に鎖を指に絡めて引き出し、ルノの前にぶらりと垂らす。
 見覚えのある銀製の懐中時計だった。丸い蓋に描かれた紋はひとつ茨。リシュテン家のものと細部の意匠は異なるが、似ている。リシュテン侯爵領の北方シャルロットは千年前、逆十時に架かったイバラの王の家族が逃げてきた地であると、ニヴァナ=リシュテンが話していた。リシュテンのひとつ茨の紋は、ゆえに彼らから伝わったのではないかとも。

「ひとつ茨はイバラの王――ユグド王に討たれて逆十時に架かった旧王家の紋章ね。そしてシャルロ=カラマイ。聖音鳥が泣いたとき、お前の手の甲に浮かんだのも逆十時だった」
「驚いた。よくお勉強なさっているじゃない姫」
「ごまかさないで」
 
 ぴしゃりと跳ねのける。
 月光に縁取られた男は漆黒のローブのせいで夜の深淵そのものを纏うようだった。お前は、と言いかけてためらい、それでも意を決して、ルノは口を開く。

「お前は、旧王家の人間なの?」
「――知りたい?」

 くすっと甘い笑い声が男の白い喉を震わせた。不意に差し伸べられた手のひらがルノのまるい頬に触れる。くるむ、のとは違った。そんな愛情に溢れた触れ方ではなかった。ひんやりした手のひらをあてがわれると、身体が冷たく強張って動かなくなる。それをいいことに、男は頬からこめかみに手を滑らせ、耳にかかった銀髪をひと房絡めて摘まむ。
 金の眸が、ルノを見つめていた。

「教える代わりに、あなたは俺に何をしてくださるの? 小さな姫君リトル・プリンセス

 誘惑者の月。
 それはルノではなくて、この男のほうだと背後に照り映える金色の月に呑まれそうになりながらルノは思った。美しくて、甘くて、キレイ。魔というのはきっとこういうものを言うにちがいない。わたしが。このわたしが、ひれ伏したくなる。すべてを捧げて、跪きたくなる。圧倒的な、それは圧倒的なまでの力の差だった。泣きたくなった。だって、まるで暴力のようだ。狂気のようだ。
 ルノは、この男に焦がれている。
 絶対的な金色に厭い、反発しながら、それでもずっとどうしようもない引力で焦がれていたんだ。

「お前に、差し出すものなど何もないわ」

 その金色を睨みつけ、きっぱりとルノは断じた。

「なんにもないわ、シャルロ=カラマイ」
「――よいね。実に賢明な選択だ」

 ふっと柔らかな笑みが溶ける。
 銀の髪房を弄っていた手が離れ、滑り落ちた髪の残像が弧を描いた。間違ったことなど何ひとつしていないのに、淡い後悔が胸を襲う。シャルロ=カラマイは残っていた葉巻の燃えさしを窓硝子に押し付けて消してしまうと、するりと窓の桟から中へと降り立った。

「それにしても、姫。キミのワルツはとても情熱的だったけれど、なんだかちょっと格闘技みたいでいただけなかったよ。婚約者殿を殴りに行くんじゃないんだからさ」
「み、見てたの?」
「もちろん」
 
 パン、パン、パン。
 嫌味なくらい間をもたせた拍手が響く。踊りきったルノがあたりを見回したとき、最初に響いた拍手がそれだった。

「お前、どうして」
「だから、さっき説明したじゃない。ウル王子に招待状をもらったの。俺はれっきとした『お客さま』なんだってば」

 お客さま、の部分を強調して言う。されど、大広間でこの男の姿を見かけなかったことも事実だ。金髪金眸はどうあっても人目を引く。自分が気付かないはずがないのに。

「客人として招かれたのなら、ひとつくらい踊っていったらどう?」

 しかし、そのあたりを追及しても栓のないことだとはわかっていた。何しろ神出鬼没を体現したかのごとき男である。
 代わりに、ルノは男のほうへ手を差し伸べた。

「どうぞ一曲。お相手してやってもいいわ」

 意外な申し出だったのだろう。金の眸がはたとひとつ瞬いたが、それはやがていつもの気ままな微笑へと変わった。踏み出した革靴が一歩ルノへと近づく。だが、開いた手のひらが重ねられることはなかった。

「遠慮しておきます、姫君。キミと格闘技みたいなステップを踏むのは疲れそうだし――、何よりダンスは苦手なんだよ」

 苦笑混じりに肩をすくめると、シャルロ=カラマイは古式の礼をして、悠然と、まるで取るに足らないものを相手にするかのようにルノの横を通り過ぎた。ルノは振り返らない。振り返って、愛らしい淑女のように、相手を引き止めたりはしない。ただ空になったこぶしを握って、たぶんもう男が見ているはずもないのに精一杯肩肘を張って、そこに立っているだけだ。

「イバラの王は」

 声が聞こえたのは、足音が遠くなってずいぶん経ってからのことだった。

「あのひとはもうずっと前に死んでしまって、あのひともあのひとの子も、どこにもいやしない。ワタシはただ彼らの死に立ち会い、それを見送ったというだけ。そう、主人の亡骸にまとわりつく愚かな狗のごとくね」
「……シャルロ=カラマイ?」

 背を引かれる心地がして、ルノはついに振り返った。しかし、そこにすでに金眸の青年の姿はなく。風を孕んだカーテンがふわりと翻り、その向こうでは漆黒の闇が口を開けてのぞいていた。
 ぱちん、と。
 どこからともなく懐中時計を弄る音がする。







 巡礼街道のメガネ橋のたもとから、王都の朝は明けていく。
 人気のないリィンゼント通りに一騎の馬車がやってきたのは、まだ朝も早い時間だった。地味なフロッグコートに身を包んだ男が馬丁の引き出したステップを踏んで、石畳へと降り立つ。身はやつしているが、このあたりにはまず似つかぬ、どこか高貴なにおいをまとった男だった。男はひとりきりの随身を伴って、リィンゼント通りを奥へと進む。

「待っていたよ」

 薄暗がりから顔を出したのはひとりの女だった。まだあどけない、少女といってもよい年頃である。しかし子供というにはいやに豊満な肢体が得も知れぬ色香を醸し、彼女を女たらしめている。まとめていない栗毛は釦を外したブラウスにかかり、栗毛の合間からのぞいた白い左胸には三本の醜く引き攣れた傷痕が見えた。伝承にのっとって、焼き鏝で作ったものだ。少女がリシュテンの聖女を演じていた見世物小屋はすでに片付けられ、荷車に幌が積まれている。

『あなたはシュロ=リシュテンじゃない。アタシこそが本物のシュロ=リシュテンよ』

 教皇の前にしずとたたずむ聖女に向けて言ったというのは騙りであるが、この見世物は大いに沸いた。今代の“長すぎる”聖女が恰好のゴシップであったのはもちろんのこと、背後には、鴉片密輸で放逐を受けたジュダ老騒ぎといった教会そのものへの不信があるのは言うべくもない。
 報酬を求めてきた少女に男はコートの内側から出した小袋を与えた。ずしりと重い。紐を解いて中を確認すると、まばゆい金貨がぎっしり詰まっていた。
 少女は口元に軽薄な笑みを浮かべる。

「これでアタシの仕事はおしまいだね。ありがとう。よい仕事だったよ、おにいさん」

 生真面目そうな眉をひそめた男に、少女は「大丈夫」と笑う。

「これだけ金貨を弾んでもらって、ひとに話そうなんて考えない。リシュテンの聖女が真でも偽でも、アタシはどうだっていいもの」

 ふふっと妖艶に笑い、少女は男の手に娼婦のキスをする。懐に抱いた金貨へ頬をすり寄せ、少女は荷車に飛び乗った。相方らしき老人が荷車を動かす。石畳に響く車輪の音を男は眸を細めて見送り、やがて重ったるいコート裾を翻した。短い悲鳴のあと、車輪の音がぱったりと途絶える。
 ふと、目の前へ黒い燃えカスが落ちた。
 薄荷にも似た甘い葉巻煙草のにおい。どこか覚えのある香りにぎくりとして顔を上げれば、黒ローブに身を包んだ金髪の神学生が眸を眇めてこちらを見ていた。革靴が石畳に落ちた燃えカスを踏み消す。

「ごきげんよう。朝早くからご苦労さまなことだね、ニヴァナ侯爵」

 随身の男がいぶかしげな顔をする。拳銃に手をかけた男を制して、「ごきげんよう、貴殿こそ早いお目覚めじゃないか、クロエ」とニヴァナ=リシュテンは微笑んだ。

「失敬、今はシャルロ=カラマイだったかな」
「覚えていただけて光栄だね。光栄ついでに教えてよ。偽のリシュテンの聖女を暗躍させて、つまらない噂を煽っていたのは、アナタ?」
「さて、何のことやら」
「ふふん、言うようになったじゃないか泣き虫坊やだった君が。ではワタシから教えてしんぜよう。リィンゼント通りの娼婦に金を渡して、リシュテンの偽聖女の見世物をさせていたのはアナタだ、侯爵」

 ニヴァナは一笑する。

「何故私が? そのような見世物を? 意味をはかりかねるな」
「そうだね、ワタシも教えて欲しいくらいだよ侯爵。あなたはいったいいつからワタシたちと別の方向を向いていたのだろう。ニヴァナ」
「クロエ」
「――ご存知のとおりこの国に、今リシュテンの聖女はいない」

 滔々たる声音で、シャルロ=カラマイは言った。
 
「知っているのはごく限られた人間だけ。そして君は、リシュテンの聖女に、あの子にまつわるすべてを誰にも言わないって俺と約束したはずだよ、ニヴァナ」

 上っ面ばかりの笑みが消えると、微かな悲哀のような、慈愛のような、それでいて苦悩じみた複雑な表情が男の横顔によぎる。「そうさ約束した」、ニヴァナは感情の籠もらぬ声で呟いた。

「だが、先に私たちを裏切ったのはお前のほうだ、『エン』!」

 銃声が爆ぜた。橋の下で眠っていた鴉たちが驚き目覚めて、明け初めの空を逃げていく。硝煙の饐えたにおいに眉をひそめ、ニヴァナは眼前にうずくまる男を見下ろした。目当ての場所は外したが、それでもかわしきることはできなかったらしい。太腿あたりの黒ローブがみるみる染まって、灰色の石畳に透き通った血の色が広がる。喘いだ男の額に銃口をつきつけ、ニヴァナは眸を細めた。

「時を渡る魔術師。大賢者がザマないな」
「俺が何をできるって? 君たちはいつも、ワタシたちを買いかぶりするんだ。冗談じゃない」
「そうだな。君はいつも言っていた。“ワタシにできるのは落ちた鉛を木片に変えるくらい”。どうやらそのとおりらしい」

 男の喉がぜぇぜぇと鳴って、額に脂汗が浮く。
 血管が傷ついたのだろうか。太腿にあてられた手のひらはすでに真赤に染まり、それでも血はとめどなく石畳を流れ続けている。憐れなものだと不意に思った。膨大な知識と記憶を持つこの魔術師は、しかし己の銃創ひとつ手当てすることができない。只人と同じように背を折って、苦痛に耐えるだけだ。
 エン、とニヴァナは気まぐれを起こして、男の名前を呼んだ。
 熱に浮かされた金の眸がひたとこちらを仰ぐ。

「我が師。我が友人。そしてかつての忠実なる僕。永遠に眠れ」

 引き金を引く。
 吐き出された銃弾は男の額に吸い込まれ、遅れた銃声がまだ空白むリィンゼント通りを切り裂いた。






 
 明け初めの蒼天を、聖音鳥は澄んだ空色の眸で見つめていた。
 ――わたしの。わたしのおうはどこ。
 憐れな狗のごとく歌いながら。




……Episode-4,END.

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