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Episode-5,「狗と愚者」


01



 その奇妙な旅人は、冬の始まりに決まって北方シャルロットにやってくる。
 はじめて出会った日のことはすでに覚えていない。物心ついた頃にはその旅人は毎年シャルロットに滞在をするようになっていて、彼は冬が近付くといつも侍女がとめるのも聞かず、分厚い鎧戸のはめられた窓を開いて、旅人がやってくるのを待った。
 旅人は名を、クロエという。
 蝋人形を思わせる色素の薄い肌に、お世辞にもきれいに揃えられたとは言えない短い黒髪、それから何より目を惹く金の眸。異国じみた容貌であったが、流暢なユグド語を操り、時に彼の母親が眉をしかめるような俗語で下卑た冗談を言いもした。
 愉快な男であった。外見は二十歳前後ほどに見え、酒に酔ってころころとわらう姿はあどけなく、彼をそそのかして厨房からタフィーを盗ませるところなどは稚気じみているのに、彼の父は古い知己を扱うように、そして常に敬いを込めた目をしてこの奇妙な旅人を迎えた。よその土地から嫁いできた彼の母はあまり、この旅人のことを好かなかったようであるが。
 ひとつ、不思議なことに気付いた。
 クロエは歳を取らない。
 少なくとも彼にはそう感じられた。何しろ彼がまだろくに歩くこともできなかった幼子から少年へ、やがてシャルロットの若き次の領主と民に呼ばわれる青年へと長じても、この旅人ときたらまったく変わらない、いつまでたっても二十前後ほどの顔をした青年であったのだから。

「クロエ。君はいったいなんなんだい」

 こらえきれず、尋ねたことがあった。
 かつて兄のように慕い、また師として敬いもするこの青年は今や彼にとってかけがえのない友でもあった。赤々と燃ゆる暖炉のそばで、シャルロット産の火酒を舐めていたクロエは少し意外そうに目を上げた。

「ふふ。へんなことを訊くね。君はいったい俺をなんだと思っているの」
「友人さ」

 いっとう大事な、と彼は火酒を傾けながらこたえた。

「物知りで、愉快で、神出鬼没で、嘘吐きで、あとは歳を取らない」
「嘘吐きは余計だよ」

 ころころと屈託なくわらい、クロエは銀製の懐中時計を取り出してぱちん、と蓋を開けた。何とはなしに懐中時計を弄るのは、考えごとをするときのクロエの癖なのだと彼も知っている。上蓋にひとつ茨の彫られた銀製の懐中時計。彼の目から見ても一流の職人によって彫られたとわかる、年季物の時計だった。
 幼い頃、ほんの悪戯心からその蓋を開けて中をのぞいたことがある。クロエはめったに懐中時計を手放さず、また触れさせてもくれなかったから、幼い彼にとって不思議な旅人と同じくらいに懐中時計は好奇心をかきたてるものであった。しかれども、幼い彼はすぐに落胆の吐息を漏らした。中にあったのは、何の変哲のない時計盤だったのだ。彼は蓋を閉めようとして、ふいに盤面に刻まれた文字が見覚えのない幾何学模様であること、さらには長針と短針のさす時間が異なっていることに気付いた。今はちょうど昼下がりであるのに、男の時計ときたら、九時の方角を指している。壊れてしまったんだろうか。つまみを回そうとする、それを大きな手のひらが止めた。

『感心しないねえニヴァナ坊や。盗人ごっこかい』
『クロエ……!』

 長椅子でうたた寝ていたはずの男はいつの間にか金の眸を開いて、彼を見下ろしている。彼はおののいた。叱られると思って首をすくめると、しかしクロエは思いのほか機嫌よく『それで?』と尋ねた。

『見たかったものは見れた?』
『……ううん』

 幼い彼の手にはまだ重く感じる時計をクロエにしょんぼりと返す。バルコニーに出て、淡く積もった雪を払い、手摺に腰かけたクロエをならって、彼も必死に届かぬ手摺によじのぼろうとした。落ちそうになったのを苦笑したクロエが手を貸して隣に座らせてくれる。

『ねえ、クロエ』

 北方シャルロットの空は淡い。
 ユグド王国の北の最果てにあるこの土地は、針葉樹の森に囲まれ、常に霧がかった空は蒼灰色をしている。王都ユグドラシルの空をこのときの彼はまだ知らず、夕暮れになると薔薇色に染まる、と何かの拍子に呟いた旅人の言葉に胸を躍らせ、薔薇色、薔薇色の空ってどんななのだろう、と蒼灰に閉ざされた天を仰ぎながら夢想したものであった。
 その蒼灰の天からひとひら雪が舞う。
 長い冬が始まろうとしていると、彼は肌で感じた。

『クロエの時計は壊れているの?』
『何故そう思うの』
『だって、文字がへんだし、長針と短針もへんな方をさしているよ』
『はは。そうだねえ。へんな方、さしている』

 彼の物言いが愉快であったらしい。クロエは喉を鳴らしてわらい、ぱちん、と慣れた仕草で懐中時計を開いた。ごらん、と彼を引き寄せて、幾何学模様の描かれた盤面をなぞる。

『これは失われてしまったとある国の言葉で書かれている』
『失われてしまった国……?』
『“――ユグド歴七八一年、聖夜。その日、国がひとつ、滅んだ。名をユグドラシル。英名高き女王が君臨し、彼女の名のもとに楽園と呼ばれた国だった”。この時計はいっとう忠義深くって、今もその時を指し続けているんだ』
『クロエおかしいよ。そんなこと、歴史の先生も言ってなかったよ』

 それに今はユグド歴九七五年である。クロエの物言いだと、一〇〇年以上前に国が滅んだことになるが、そのような話は誰からも聞いたことがない。
 ふふっとわらって、クロエは蓋を閉じた。

『そうだね。今のは俺の作り話だもの』
『クロエ?』
『だけど、覚えていてくれ。俺は君がだいすきで、ニヴァナ。君も君の父上も、たくさんの兄姉たち、それからもうすぐ生まれる赤ん坊のことも。これまでも、これからも。君たちを見守っているよ。俺の愛した女王の眠る地、シャルロットの子どもたちよ』

 冬の始まりに旅人はシャルロットを訪れる。
 それは愛したひとの墓を詣でるためなのだと、いつかの折、父が呟いていたのを思い出す。花も枯れゆく極寒の地で、旅人は古い蝋燭に火を灯す。墓すらない真白の雪にひとり立ち、そっと祈りを呟く男はどこか悲しい、と彼は思ったのだった。



「――君たちをいっとう愛している旅人ですよ」

 つかの間の回想にふけっている間に、クロエは火酒を空にしたらしい。頬をほんのり赤らめながら、そのように言う。この完璧に近い男が実は酒に弱いことを知っている彼は、苦笑気味に酒瓶を取り上げた。うそつけ、とわらう。

「お前は、クロエ。とびきりの詐欺師だからな」
「とんでもない。俺はいつだって本当のことしか言わないよ」

 窓辺に架かる月を眺めながら、額を合わせて笑いあう。
 あれは。
 あれはいったい、いつの日のことであったか。







「侯爵」

 随身の男の呼びかけに、ニヴァナ=リシュテンは窓外に向けていた視線を戻した。王都の一角にある、リシュテン邸。教会で七大老をつとめる父が王都に構えた屋敷である。教会内の居室で過ごすことが大半の父に代わり、今はニヴァナが必要な時に自由に使っている。表向きは、月白宮に滞在しているニヴァナであったが、週に何日かはこちらの屋敷に戻り、シャルロットから持ち込まれる政務をこなしている。ルノ姫を含め、周知の話だ。
 しかし、政務のほかにも使い道があることは誰も知るまい。

「入れ」

 顎をそらして促すと、随身らに引かれるようにしてひとりの女が姿をあらわす。長い黒ローブに身を包んだ妙齢の女性で、名はオテルといったか。クロエがどこぞより拾い、育てた娘。クロエに連れられ北方シャルロットにやってきたときはまだ十にも届かない少女であったが、今や美しい女に成長していた。

「久方ぶりだな、オテル術師。貴女が私を訪ねてくるなんて珍しい。何かあったのかい?」
「まどろっこしい言い回しはよせ。あいつをどこへやったのか、それが知りたい」

 魔術をたしなむものならば、北方にも少なからずいた。無論、星詠み塔主の徴たる金眸を持つクロエやクロエが何の気まぐれか自ら育て上げたこの娘には敵うべくもなかったが、ニヴァナは今は占い師としてリシュテン家に仕える老魔術師にリィンゼント通りの眼鏡橋周辺に多量の血痕とともに術師にしかたどれぬ痕跡を置かせたのだった。血痕のみが残され、死体の上がらなかったリィンゼント通りの事件は王都界隈をにぎわせた。これで気付かないようなら、別の方法を考えなければならなかったが、オテルは師の異変にすばやく気付き、老魔術師のつけた痕跡を追ってここまでやってきた。

「……優秀な貴女のことだ、『痕』には気付いたようだね」
「あいつをどこへやったと私は訊いているんだ」
「ずいぶんな物言いじゃないか。私が彼に何かしたと?」
「あいつは馬鹿だが、暴漢相手に遅れを取るほど呆けちゃいない。おまえが私を呼んだのは、この話をするためだろう?」
「相変わらず、貴女は勇ましい。知っていて、ひとりで飛び込んでくるなんて。あるいはそれほどに、彼を慕っているのか」
「愛しているよ。貴様にはわからんだろうが」

 心底軽蔑した風に、オテルはニヴァナを睨みつけた。
 この娘は昔からそうだった、とニヴァナは内心苦笑する。北方シャルロットにても誰とも交わらず、誰にも心を開こうとせず、まるで敵でも見るような眼をしてニヴァナを睨んだ。その手はいつだって、クロエのローブを握り締めていた。

「彼が生きていると信じるような口ぶりだね」
「いっそ死んでいたらよい。そうしたら、おまえを殺して終いにできるのに」
「オテル術師」

 敬意をこめて、ニヴァナは女を呼んだ。
 それでも女の視線が緩むことはない。構わなかった。

「シュロ=リシュテンを見つけ出せ」
「……なに?」
「クロエ……いや今は『シャルロ=カラマイ』だったか? あいつが十年前、教会の最奥から俺の妹をさらって、魔術をほどこし、隠したはずだ。連れてこい。ただし、生かしたまま。そうすれば、貴女の愛する師を貴女に返すさ」
「貴様らしくもない。おまえなら、とっくに狗らを放ち、その妹とやらを捕まえていると思ったがな」
「顔を知らないのさ」
 
 ニヴァナは肩をすくめた。

「生まれてすぐにあの子は父に取り上げられ、教会の最奥に連れてゆかれてしまったから。あの小さな赤子がどんな風に成長して、女になったのかを私も知らない。だが、貴女ならシャルロ=カラマイの魔術の痕跡を追い、探すことができるだろう?」
「私が逃げ出したらどうする」
「構わんさ。ただし、貴女の愛する師も永遠に貴女のもとに帰ることはないがね」

 ぱちん、とポケットから取り出した銀の懐中時計を鳴らして、ニヴァナは微笑む。見る間に女の顔色が変わった。

「おまえ、ニヴァナ!」

 歯を食いしばって睨みつける女は獣か何かのようだ。肩をすくめてわらい、「よい結果を期待している」とニヴァナは随身のひとりに手を振った。

「それにおまえが触れるな!」
「もとは『わたし』が与えたものだ。不出来な狗から取り上げたまでのこと」
「あいつはおまえを愛していたのに!」
「世迷い言だな」

 蓋を閉じると、呻く女を引き立てて随身たちが部屋を出ていく。オテルはそれでもまだ何がしか叫んでいたが、そのうち扉が閉められ、女の声も断ち切られた。彼は窓辺近くに置いた椅子に深く身を沈める。こめかみが痛んだ。術師との対峙は思いのほか、彼に緊張を強いていたようだった。

「……すべて、世迷い言だ。そうだろう、クロエ?」

 頬に差す光を感じて、目を上げる。幼い頃焦がれた王都の空は鮮やかな薔薇色に染まり、されど彼に疲弊だけを抱かせた。


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