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02




 血はとても苦手だ。
 ナイフを傾けてやると、みるみる白い腕に幾筋もの赤が伝って、体温が抜け出たみたいに身体の芯のほうが冷たくなる。そして、『彼女』が、泣く。恐ろしく、でもどこかで愛しくもある『彼女』が顔を覆って泣くから。イジュも悲しくて、苦しくてたまらなくなる。イジュは血が苦手。悲しくて、寂しい気持ちになるから。




「……ジュ。イジュ。イジュ!」
「――はひっ!?」
 
 突如として視界に割り込んできた侍従長の怒り顔に、イジュは思わず身をのいた。弾みにノートに書き取っていたペンが手のうちを滑り、からん、と落ちる。静まり返っていたホールに、それはいやに大きく反響した。しまった、と顔を蒼褪めさせるが時すでに遅し。ニヴァナ=リシュテン侯爵とともに筆頭司祭の話を聞いていた王女が眉をきゅっとしかめて椅子を立ち、こちらに向かってくるところだった。


「おまえはどうしてそう! 侯爵の侍従だと、粗相ばかりするのよ」
「返す言葉もありません……」

 深緑の生地に銀糸のふちどりのなされた上着の襟をつかまれ、ホールの外に連れ出される。どうやらいったん休憩になったらしい。苦笑交じりのカメリオの指示で、壁際に控えていたリラたちが動くのが扉越しに見えた。

「まったくおまえときたら!」

 中庭のベンチにイジュを座らせたルノは、腰に両手をあてがって、説教を始める。銀灰の長い睫毛を伏せ、頬を赤く染めて叱る姿は大真面目であるぶん、余計に愛らしい。
 先立ってカレーニョ夫人に招かれた舞踏会で、ルノはニヴァナ=リシュテン侯爵との結婚を一年後に予定していることを親交深い貴族たち・諸侯に告げた。これに伴い、来る千年祭ではユグド王国民に向けてこの吉事を発表せんと、カメリオたち王女の侍従は大忙しだった。そうした慌ただしさの中で短い夏は過ぎ去り、秋の気配が王都を包む。今日はふた月後に迫った祭事の段取りを筆頭司祭をまじえて話しているところであった。
 王女は千年祭当日に着る予定の清楚な真珠色のドレスに身を包んでいる。どこか花嫁姿を思わせる白は、そのあとの発表を意識して、カメリオが作らせたものにちがいなかった。ルノのすべらかな銀髪は真珠やクリスタルを散らしてまとめ上げられている。普段は長い髪に隠されて見えないうなじは、陽にあたらないせいか、あらわになると透けるように白い。

「……ちょっと。何よ?」
「は? いいえ」

 気付けば、少女のうなじのあたりに指を置いていた。不審げに睨まれ、イジュは手を引く。少し考えた末、「寒くないんですか?」と自分の上着をルノの華奢な肩口にかけつつ尋ねると、ルノは蒼い眸をぱちりと瞬かせたあと、呆れた風に息をついた。

「おまえ、私の言うことをちっとも聞いてなかったでしょう」
「そんなことないですよ」
「嘘よ。聞いてなかった。ちがうというなら、私が言ったことをはじめから終わりまで繰り返してごらんなさい」
「……だから、戻ったら、きちんと身を入れてお仕えしますって。それで、怒ってらしたんでしょう?」
「ほらね。聞いてなかった」

 今度はこれみよがしに息をつく。おもむろに伸ばした手のひらをルノはイジュの額に触れさせた。うなじのあたりと同じでひんやりと、心地よい温度。前髪を梳く指先に為されるがまま目を閉じ入っていると、「おまえ、先帰ってなさい」と頬のあたりをつねって、ルノが言った。

「はい?」
「額が熱いわ。目もぼんやりして。そんないつ倒れてもおかしくないような顔で突っ立ってないでって、さっきは言ったのよ」
「別に、へいきですよ。あと少しでしょう? 終わるまでいます」
「イジュ。私の言うことが、聞けないの?」

 真正面から凄まれ、イジュは閉口した。わかりましたよ、と半分ふてくされたように呟くと、「侯爵には私から言っておくわ」とルノがうなずいた。一度は受け取った上着をイジュの肩にかけ直す。それでも少女の横顔から目を離せないでいると、気付いたルノが小さく笑った。

「何よ。そんな顔しなくたって、私は平気よ」
「……なら、いいんですけど」
「さ、戻るわよ」

 イジュの腕を取って、引き立たせるのと同時に、ルノもまたしゃん、と背を伸ばした。前を見据える双眸も、鮮やかに色を変える。彼の姫君は近頃、時折このように彼が知らない娘の顔をする。それがカレーニョ夫人の舞踏会の後からであることにイジュは薄々感づいていた。

「ルブランも一緒のほうがいいかしら?」
「ひとりで問題ありませんって。あなたの護衛を私につけてどうするんですか」
 
 失笑交じりに首を振って、ひとまずルノをホールへ送る。ルノはああ言ったが、自ずからニヴァナ侯爵にうかがいを立てたのち、カメリオに先に戻っている旨を告げる。先ほどは目を三角にして怒っていたこの侍従長はほら見たことか、と朗らかに笑い、イジュの頭をくしゃくしゃと撫でた。本当にいろいろと、この侍従長にはお見通しで困る。

 秋の西陽が射して、長い柱影を作る回廊を抜け、まだ落日には早い空の下に出た。千年祭が近づいているためか、巡礼者の数は多い。旅装に身を包んだ男女、老人から果ては母の腕に抱かれた乳飲み子までが教会の門の前で列を作って中へ入るのを待っている。
 教会に隣接する付属大学には、休校の立て看板が出ていた。
 ――リシュテンの聖女は正か偽か。
 初夏頃、ちまたの見せ物小屋から始まった論戦は若い学生たちを熱中させ、ついには教会の七大老に聖女の真偽を問う訴状までをも突き付けたと聞く。寮からあぶれた学生たちが盛んに論戦を交わしあうカフェは道半ばまで丸テーブルと椅子とがせり出し、その合間を押し合いへし合いする巡礼者たち、彼らに物を売る露天商や物乞いとで巡礼街道はいつも以上にごった返している。この様子だと、街道を突き抜けるルートを使い、王宮に戻るのは難しいだろう。イジュは早々に街道を出て、裏道に入った。
 抜け出し癖のある王女について幾度となく歩いた場所であるから、このあたりの道はすでに熟知している。脳裏に王宮の方向を描きながら、いくつかの角を曲がって、水路沿いの商館街に出た。運搬用のやや幅広の水路は、果ては巡礼街道のメガネ橋へと繋がっている。
 “リィンゼント通り”。看板を見つけたイジュはそこでふと足を止めた。止めてしまった。微かな違和のようなものを感じて、ちょうど水路にかかった橋のたもとのあたりに目を向ける。

「おや。あんたも、例の事件の見物か?」

 たもとのちょうど対面には簡素な荷揚げ場があり、その脇にいくつかの木箱が重ねられている。もぞり、とその箱のひとつが動いて、襤褸を纏った物乞いらしき男が身を起こした。いぶかしむようなイジュの顔を見て取ると、「なんだちがうのか」と物乞いは残念そうにしわぶいた。

「例の事件ってなんです?」
「タダじゃあ話せないねえ」

 木箱の上に禿鷹のようにしゃがむと、男はイジュのほうへ手を差し出す。まともに相手にする必要などないのだけれど、なにとはなしに気になるところがあって、イジュはポケットを探り、一番安い銅貨を男に渡した。

「数か月前の朝さ。俺の仲間がリィンゼントの橋のたもとで血だまりを見つけたんだ。死体はない。ただねえ、おびただしい血糊だけが橋のちょうどさ、このあたりを赤く染めていたって。ここいらじゃ、ちょっとした事件だったんだよ」
「血、ですか」

 ああ、あまりよくないことを聞いた、とイジュは後悔する。
 胃の腑が熱っぽくねじれるのを感じたからだ。

「結局死体は見つかったんです?」
「さぁねえ。そのあとのことは知らねぇわ。ああ、見せ物小屋でリシュテンの偽聖女をやってたアンネなら、暴れ馬に踏みつけられて死んじまったけどね。少し先の角だよ」
「……そうですか」
「ちょっと、あんた。顔色悪いよ。平気か?」
「へいき、です」

 さなかに、膝からくずおれる。胃の腑が細く痙攣した、と感じたときには、地面に伏して嘔吐していた。大丈夫か、とおろおろと背をさすろうとする物乞いの手を弱く払う。吐き出すものなんてもうあまりないはずなのに、一度端を発してしまうとなかなかおさまらない。耳鳴りがした。割れるように頭が痛む。乱れた呼気ばかりがうるさくて、痺れた手足はままならない。
 数か月前から、唐突にそれは始まっていた。
 朝だった。頭を何かで思い切り殴られたような衝撃があり、使用人部屋の寝台の上で飛び起きた。夜着代わりのシャツは汗でぐっしょりと肌に張り付いており、わけもなく涙が溢れて止まらなかった。それからだ。耳鳴り、頭痛、嘔吐、発熱。昼に、不意に意識が遠のいて、くずおれかかったところで危うく我に返ることもたびたびあった。イジュは。おかしくなる、と思うことがあり。怯えて、恐れて、泣き出したくなって、そうしてとめどないそれらに蓋をするように、引っ張り出したナイフを己の手首に突き立てた。
 ――そして、『彼女』が、泣く。恐ろしく、でもどこかで愛しくもある『彼女』が泣くから。イジュは血が苦手。悲しくて、寂しい気持ちになるから。


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