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03




「“妖精の宝”?」
「そう。ひとつに花の妖精が愛するもの、ふたつに翠の妖精が愛するもの、みっつに風の妖精が愛するもの、最後に水の妖精が愛するもの。これらすべてを集めると、花嫁に幸せを運んでくるという昔ながらの言い伝えさ」

 教会の中庭では、ちょうど秋咲きの薔薇たちが開いている。目を細めて語るニヴァナの穏やかな声を隣で聞きながら、ルノは回廊に落ちるまだらの影を見つめた。
 
「すてきね。はじめて聞きました」
「花の妖精が愛するものだと、たとえばポプリや匂い袋。風の妖精だと、羽根をあしらったアクセサリーを選んだりね。水は連綿と流れる血をあらわすから、家族からもらったものがいい、なんていうひともいる」
「お詳しいんですね」
「姉や妹が嫁いでいくのを何度も見送ったからね」

 侯爵の横顔はどこか懐かしげだ。
 ルノは曖昧に顎を引いて、肩にかけたショールを引き寄せた。

『撤回してください、ニヴァナ侯爵』

 バレエ観劇の折、イジュのことで侯爵を相手に啖呵を切ったのはもう数か月前になる。あれからニヴァナとの仲は回復することもなく、けれど必要以上に険悪になることもなく、平行線を保っている。
 それとも、とルノはあとになって考えたりもした。
 夫婦仲とは案外こんなものなのかもしれない。物心ついた頃にはニヴァナ=リシュテンを婚約者と定められて育ったルノは、御伽噺のような恋に胸をときめかせる少女時代をとっくの昔に過ぎ去っていた。カメリオなどは、とっくの昔もなにも、幼き頃より兵士たちの凱旋歌を口ずさむほうが好きだった姫君ではありませんか、と息をつくに決まっていたが。
 ユグド王国では、王子王女の別なく王位継承権を持つが、通常、身体の疾患等がなければ年長の男子が継ぐことのほうが多い。現在の王太子は、兄王子ウルである。他国の王族との婚姻は、ユグド史上しばしば行われてきたものの、五十年前に近隣諸国で友好同盟が結ばれてからは減り、ルノについてはスゥラ王たっての希望でリシュテン家のニヴァナに降嫁することが決まっていた。
 リシュテンは北方最大の諸侯であり、ニヴァナの父にあたるリシュテン老は次の教皇とも目される人物である。この婚姻には、長く反目しあった王室と教会を結びつける意味合いがあった。

「そういえば、陛下の出発はまだ遅れているのかい?」
「ええ。鴉片の輸入禁止令が出たでしょう? ユグド在住のクレンツェ商人たちの一部がこれに抗議して、港を封鎖させているのです。長引くようなら、陸路からハザ公国に抜けるしかないかもしれませんね」
「千年祭に間に合うといいが……」
「それは問題ないでしょう」

 ユグド王スゥラは、隔年ごとに開催される同盟会議に向け、先日イルテミーシアの港より出立予定だった。陸路を取れば、馬車や警護の上でいくつか難点は生じるが、それでも往復のできない距離ではない。

「――侯爵」

 そのとき回廊の柱からいざり出る影があり、ニヴァナが足を止めた。側付きの護衛たちよりも小柄な影は、随身の少年のものである。ニヴァナがシャルロットから連れてきた随身は何人かいたが、この少年は異国じみた浅黒い肌に琥珀色の眸、右腕には刺青がほどこされており、ひときわ目を引いた。

「姫。申し訳ないが、私はここで失礼をするよ。どうやら呼び出しを受けてしまったらしくてね」
「ああ、そうでしたか」

 呼び出し主がちらと気にかかりもしたが、詮索することはやめてルノは顎を引く。

「悪いね。身体を冷やさないようにしておかえり」

 ルノの肩にかかったショールを引き寄せるようにすると、ニヴァナは随身の少年とともに回廊を引き返した。シャルロットの一領主でもあるニヴァナである。それがこの数か月王都に滞在しているのだから、何かと不都合も多いのだろう。そう考えるにとどめて、ルノもまた側付きの者たちを従え、歩き出す。
 回廊の一部は、付属大学と交差している。
 そのちょうど対面の廊下を足早に歩く影を見つけ、ルノは瞬きした。

「ユゥリート!」

 思わず声を張り上げると、黒ローブの青年がつと顔を上げる。端正な容貌に浮かんだ表情が思いのほか翳りを帯びていたため、ルノは眉をひそめた。護衛のルブランや側付きのリラにしばらく待っているように言うと、中庭を横切っていって「ユゥリート」と今一度声をかける。

「久しぶりね。元気にしていた?」
「ああ……あなたか」

 伏せがちの双眸はどこか引き留めることを拒むかのようだ。

「ごめんなさい。急いでいた?」
「いや。姫こそ、どうしたんだ? そんな恰好をして、まるで花嫁衣装みたい」
「ふふ。もうすぐ花嫁になるのよ、私」

 冗談めかして微笑み、ルノは周囲へちらりと視線をやった。

「それで? あなたの気まぐれな友人は、今日は一緒じゃないの?」
「シャルロ=カラマイのことか?」
「ええ」
「あいつなら、いない。残念だけど」
「……いない?」
「もう三月前になるかな。ペンネさんに蜂蜜タフィをもらって早朝に抜け出したきり、姿を消してしまっている。大学は大騒ぎさ。そのあと……、騒ぎを聞きつけたカラマイ伯爵がやってきてね。あなたがたの探しているシャルロ=カラマイは私の息子ではない、別人だって言うんだ。金髪の、似ても似つかない男を連れて、ここにいるのが私の息子だと。信じられないだろう? 私たちの前にいた『シャルロ=カラマイ』はそれきり、姿を消してしまったんだよ」
「まさか」
 
 ルノは一笑したが、それでいて胸のうちでは、ああやっぱりそうだったのね、と納得してしまっている。

『シャルロ=カラマイ。その前はキェロ=ツェラ。その前はクロエ』

 男の言が正しいならば、ユゥリートの話にあった金髪の似ても似つかない男とは、おそらく本物のシャンドラ領カラマイ伯爵の子息シャルロ=カラマイだろう。あの男は語った。シャルロ=カラマイから四年間、『名前を借り受けた』のがワタクシ、だと。

「でも……」

 ならば少々おかしい、とも思う。四年間。それが対価なら、男は与えられた四年を何としても全うしようとするだろう。半年ぶんを残してしまっては割に合わない。三年半での突然の退場はあの男らしくない、とルノは思ったのだった。

「姫。姫はカレーニョ夫人の舞踏会に招かれていたんだろう。あいつも同じ招待状をウル王子からもらっていたんだ。舞踏会で、あいつに会わなかったか? 何か言ってはいなかった?」
「言う、といっても……」

 そもそも、ろくと会話を交わしていない。
 ただあの男は最後に、自分を狗だと。
 愚かな狗のようだと、不似合いな自嘲を吐いた。

「姫」

 不意に手首を引き寄せ、柱へ背を押し付けられる。突如のことに顔をしかめたルノの耳元にふっと唇を寄せて、

「“ルノ=コークラン”」

 とユゥリートは囁いた。
 とたんに身体が枷でもつけられたかのように動かなくなる。息を喘がせたルノへ、「こたえろ」とユゥリートは言った。

「あらいざらい、話すんだ」
「――姫」

 針のように己を捉えていた視線が不意にそれる。四肢を拘束するくびきから放たれた心地がして、ルノは深く息をついた。肩に触れる手のひらに気付いて目をやれば、別れたはずのニヴァナであった。

「どなたか知らないが、この方は私の伴侶となる女性だよ。私の目の届かぬところで誘惑などしないように」

 肩を引き寄せられる。常ならば拒むところだが、四肢の未だ強張る身体はたやすく侯爵の腕のうちにおさまった。荒く息をつく。ユゥリートは殺意にも似た眸をニヴァナ侯爵へ向けていた。

「申し訳ありませんでした。大事な友人がいなくなり、動転していたようで」
「痛ましいことだ。君のご友人に神のご加護がありますよう」

 舌打ちし、ユゥリートは黒ローブを翻す。遠ざかる青年の姿を目で追いながら、未だうまく咽喉を使うことができず、ルノは胸をつかんだ。

「大丈夫かい、姫」
「……、き、です」
「まだ苦しそうだな」

 ルノの瞼に大きな手のひらを置いて、「吐いて。それから、吸って」とニヴァナは優しく説く。そのとおりにすると、呼吸はいくぶん楽になった。

「まったく君の護衛は何をしていたのやら」
「私が、離れていてって言ったんです」

 視線を鋭くしたニヴァナに慌てて告げると、ため息をつかれた。

「君はもう少し、身の振りようを考えたほうがいいな」
「申し訳ありません」
「……いや、言い過ぎた。用事が思ったより早く終わったんだ。一緒に帰ろう」

 手を繋がれる。それが迷い子にそうするような仕草で、ルノは脈絡もなく、出会ったばかりの頃、離宮の庭で迷子になったルノをまだ青年であったニヴァナが探しに来てくれたことなどを思い出した。あのときニヴァナは仕立ての良い上着を棘茨でぼろぼろにして、幼い婚約者を見つけてくれた。その手は温かかった。
 裏門を使って教会の外に出る。待たせておいた馬車に乗ると、ルノは背もたれのクッションに寄り掛かって息を吐いた。巡礼街道の群衆を押しのけて、ゆっくりと馬車が動き出す。
 
 ――リシュテンの聖女は真か偽か。

 流れる景色にいくつかそう走り書かれた看板を見つけ、ルノは車窓に手をあてた。リシュテンの聖女は真か偽か。そういえば、以前大学に足を運んだ折、ユゥリートに突き付けられた問いでもあった。

『あなたはシュロ=リシュテンじゃない。私こそが本物のシュロ=リシュテンよ』

 そう言って左胸の傷を見せる聖女を模した見せ物は一時、宮中でも話題にのぼるほどの流行を見せたが、しばらくするとぱったりと耳にすることはなくなった。ルノ自身も結婚の準備に追われ、すっかり忘れていたが、未だにあの話は大学を賑わせているらしい。

「リシュテンの聖女は真か偽か、か。面白い議論だね」
「……偽、などと」

 ニヴァナ=リシュテンは今代の聖女の異母兄にあたる。偽などと叫ばれて気持ちのよいはずがない。ルノが眉をしかめると、「実際のところ、どうなんだろね?」とニヴァナは意外なことを言った。

「彼女がずっと公に姿を見せてないことは確かだ。偽だと叫ぶ気持ちもわからなくもない」
「あなたの実の妹君ではありませんか」
「正直のところ、見たことすらない妹に情は湧かないね。会ってみたい、とは思うが」
「私は今代の聖女に会ったことがあるそうですよ」
「ほう?」
「覚えてはいないのですけど、父上がそうだと。私のこうべを水で洗い、祝福を与えたのは彼女なんですって。そう言われて考えてみると、不思議に覚えている光景があるんです。彼女は窓を見ている。一心に何を見ているのかと思えば、鳥を見ているんです。どこにでもいるような、普通の鳥を。そういう光景です」
「……そうか」

 言葉少なにうなずき、ニヴァナもまた外へ目をやる。
 ふと、男の折り返された右袖のカフス釦が鉛色のものに変わっていることに気付いた。几帳面なところのあるひとである。釦はどれも磨き抜かれ、ひとつ茨の紋章が描かれたものと決まっていたのに。

「釦、なくされたのですか」
「……ああ」

 尋ねると、ニヴァナは袖口を見やり、小さく笑った。

「どこかで落としてしまったらしくてね。王都では同じものが手に入らないものだから、別のものをつけさせたのだが……、やはり目立つかな」
「いえ。よく見たら、左も一緒に替えてらっしゃるんですね。それなら、わかる者もいないでしょう」


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