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04




 王立教会付属大学の寮母、ペンネの朝は早い。
 まだ陽の昇らないうちから暖炉の火を起こし、起きてくる学生たちのために室内を暖めておく。数か月前、ペンネは元気な赤ん坊を出産した。しばらくは臨時で雇った手伝いの少年に任せていたが、近頃は少しずつ寮母の仕事に戻っている。徐々に薪が燃えゆくのを待つ間、ペンネは窓越しに乳白色の霧に覆われた朝の巡礼街道を眺めた。昼になれば、巡礼者で賑わう街道もこの時間はまだ人気がない。

「……あら」

 その中を足早に歩く青年の姿を見つけ、ペンネは眉をひそめる。青年は無骨な鴉色の外套を着こみ、背には少し大きめのずた袋をしょっている。旅人の風体だった。

「ユゥリート! あなた、どうしたの!」

 立てつけの悪い窓を押し開け、二階から声を張り上げる。ちょうど階下の街道に差し掛かったユゥリートは不思議そうにあたりを見回したのち、「こっちよ!」というペンネの声に気が付いて顔を上げた。

「ペンネさんじゃないか。早いね」
「あなたたちを凍えて風邪ひかすわけにはいきませんからね。あなたこそずいぶん早いけど、どうしたの?」

 里帰りにしてもずいぶん早い。第一、クレンツェの飢饉で親兄弟を失っているユゥリートは故郷を持たないはずだった。

「大学をやめたんだ」
「ええ?」

 素っ頓狂な母親の声に、腕の中の赤子が眉根を寄せる。慌ててなだめすかしていると、「リシュテン老にはもう届を受理してもらったよ」とユゥリートが少しずれたことを言う。

「受理してもらったってあなた。どうしてよ?」
「理由は特にないんだけれど」
「……もしかして、シャルロ=カラマイのこと?」

 ユゥリートとよくつるんでいた青年が数か月前、謎の失踪を遂げたのはすでに周知のことだった。ユゥリートは苦笑する。
 
「ちがうよ。ただ、ここで学ぶことには区切りがついたし、私も養父のもとに戻ろうかと思って」
「確か、あなたをこの国に連れてきた方だったわね」
「うん。どうやら身体がよくない状態らしい」
「まぁ……それは心配でしょう。お父さまはどこに?」

 慣れ親しんだ青年の横顔が何故か、玻璃のように果敢ないものに見えて、ペンネは眉をひそめる。そのとおりであって、これはペンネと『ユゥリート』の最後の会話であった。
 しばし考え込むような間をおいてから、ユゥリートは微笑んだ。

「わからない。まずはソラミラに向かおうと思ってる」





 七大老リンゼイ=リシュテンのもとへユグド王スゥラ=コークランが訪問したのは、ちょうど日曜のミサのあとだった。スゥラは明日王都を発ち、山岳地帯であるハザ公国を抜けて同盟会議の開催地クレンツェ王国に向かう。当初はイルテミーシアの港から直行の船に乗る予定であったが、クレンツェ商人による港封鎖が思ったよりも長引いたため、陸路を取ることになった。

「加減はどうだ! リンゼイ」

 リンゼイは、寒波のやってきた十日ほど前から体調を崩していた。突然の訪問にいそいそと寝台から起き出したリンゼイに、スゥラは「そのままでよい」と手を振った。侍従の少年が用意した椅子にどっかと座る。リンゼイは苦笑した。

「あなたはいつも唐突に現れますな。陛下」
「約束を取り付けると、決まっておまえは逃げるからな」
「そのような不義理はいたしませんよ」
「どうだか」

 肩をすくめ、スゥラはリンゼイが注いだ葡萄酒の杯を取った。
 ユグド王スゥラ=コークランと七大老リンゼイ=リシュテンは大学時代の同級である。まだ二十代に差し掛かったばかりの青年時代、スゥラとリンゼイは出会い、同じ学び舎で数年間を共にした。常に騒動の中心となるスゥラと物静かなリンゼイはまるで異なったが、不思議に気が合った。のちにスゥラはユグド国王、リンゼイは教会の若き七大老となったが、その娘ルノと息子のニヴァナが婚約関係にあることもあり、繋がりは続いている。

「イルテミーシアは荒れているようですね」
「鴉片禁止令がな。少し性急に進め過ぎたか」
「イルテミーシアはジュダ老の領地でもありますから」

 ジュダ老とは、鴉片の密輸により追放された元長老である。領地である港からクレンツェ商人と組んで鴉片を流し込んでいたらしく、禁止令に抗議しているのもそれらの商人たちが中心だった。
 
「ジュダのじじいめ。鎮圧にてこずっていると寄越すばかりでまるでやる気がない。いっそ身ぐるみを剥いでやるか」
「相変わらずお口が悪い」

 リンゼイは緩やかな眉を下げ、温めた葡萄酒に口を付けた。その表情がやけに老いて見えたのは、病ばかりのせいではあるまい。

「今日ここへ来たのはな」
「ええ」
「ほかでもない聖女の件だ」

 王族にだけ現れる蒼の眸は、窓のほうを見据えている。

「クロエが消えた件は聞いているな?」
「カラマイ伯爵が本物を連れて現れたときには騒動になりましたから」
「あいつが見つからない現状、聖女制度の廃止は難しい。……わるいな。おまえとの約束だったのに」

 眼差しに反する声のやわさに、リンゼイは瞬きをする。若葉を思わせる眸はやがて柔らかに細まった。

「やっぱりあなたは変わりませんね。陛下」
「そうかね。俺は変わったし、おまえも変わったと思うが。――ああ、でも『アレ』だけは変わらんなぁ」

 棚に飾られた古いトゥシューズを見やって、スゥラがわらう。
 その持ち主は、リンゼイが最初に育てたバレリーナだった。

「……あの子は元気にやってますか」

 呟いたリンゼイに、スゥラは「ああ」とうなずいた。

「彼女にますます似てきた。ときどきおまえに見せたくなるよ」





 王都は例年になく冷え込んだ。
 秋は駆け足で過ぎ去り、葉を落とした木々が木枯らしに身を震わせている。霜を纏わせる窓に触れ、息を吹きかけていたルノは、絨毯を踏む微かな足音に目を戻した。

「何を見ていたんだい? 姫」

 いつの間にか隣に立っていたニヴァナが窓に手をつく。
 晩餐のあとの思い思いの時間である。かたわらではリラとイジュとが銀食器を片付け、熱い茶を注いでいる。翳りを帯びた窓硝子には、暖炉の炎が映って赤く燃えているように見えた。

「星です。イル、トルタ、サイ。神様の手のひらから生まれた三つの星」
「ああ、悪いハリネズミとひとりサボテンの話か。いつか話してくれたことがあったね」
「ハリネズミ祭の折でしたか」
「君は神様はひどい、サボテンがかわいそうだと言った」

 懐かしげに目を細め、ニヴァナは広げた羊毛編みのショールでルノの少し冷えてしまった身体を包んだ。腕をショールと一緒に胸の前で交差させて、抱き寄せるようにする。

「ああ、おまえたちはもう下がっていい」

 背中を通して響いた声は物慣れない体温とあいまって、常とは違って聞こえた。いったい侍従たちがどのような顔をしたのか。リラが困惑した様子でこちらをうかがう。

「ルノ様……」
「いいわ。下がって」

 顎を引くと、ルノは己を腕の中に閉じ込めた男を見上げた。大きな手のひらが頬に触れる。肩にかかる髪をいじる指先がくすぐったくて目をよそにやると、「ルノ姫」とニヴァナが呼んだ。

「君はとびきりきれいになった。幼子の君が戦ごっこと称して私に馬乗っていた頃を思うと、複雑な限りなのだが」
「いったいいつの話をしているのです、侯爵」
「本当に。姫。どうか、あかしを」
「あかし?」
「仲直りのあかしだよ」

 苦笑し、ニヴァナは言った。

「いらぬことに口を出した。君は今までも、これからも君の心に叶う人間をそばに置けばよい。それが君を輝かせるのなら」
「侯爵」
「姫。私は嫌い?」
「そんなことはありません」

 それは真実心からの言葉であった。
 十年。この男と文を交わした。そこに綴られた言葉たち、触れた感情や育った思いがすべてまがいものであったとは思わない。
 それにもう、決めたから。
 舞踏会の日に決めたから。

「……すきですよ」

 わたしは戻らないと。
 伏せていた眸をすっと上げて、男を見据える。許しを得てニヴァナはルノの手の甲を持ち上げた。跪いた男が唇を押し当てる。臣下が礼を取るがごとき口付けは、やがて柔らかな手のひらに触れ、腕に落ちる。
 ――おどれ。
 と、ルノは思っていた。カレーニョ夫人の舞踏会でやってみせたように、踊り、舞え。道化、あるいは芸妓、あるいはそれしか知らぬ憐れな愚者のごとく。ルノ=コークランを演じる。一分の隙もなく完璧に振る舞う。そうすれば、きずつくことなんて、ひとつもない。

 ガシャン!

 派手な破壊音に、ルノはいつの間にかぎゅっと瞑り込んでいた目を開いた。瞬きをする。扉のあたりで、いかにもわざと落としたという風の茶器には目もくれず、こちらを睨んでいるのはイジュだった。

「君はつくづく、私の邪魔をしたいらしいな。イジュ。下がれと言わなかったか?」
「下がっている最中にそこの茶器が割れたんですよ」

 ちょっとイジュ、とたしなめるようにリラが袖を引くが、青年のほうはまったく意に介した風ではない。嘆息をして、ニヴァナがこめかみを揉む。そのわずかな間に、例の浅黒い肌をした随身が滑り込んできた。

「侯爵」

 言葉少なにニヴァナの耳元で何かを告げる。何故、この随身はルノに聞かせたくないとでもいうようにいつも声をひそめて報告をするのか。問い詰めたくなったが、その前に「済まない姫」とニヴァナが言った。

「故郷から火急の遣いが来たらしい」
「何か、あったのですか?」
「一部いさかいを起こしている地域があってね。君が気を病むようなものではないが……、今晩はこれで。君もゆっくりと休むといい」

 落ちかけたショールをルノの胸元で緩く結び直すと、ニヴァナは随身の少年を伴って部屋を出ていく。ドアを足蹴に閉めて、イジュはそれを見送った。無言ではあったが、青年が甚だしく気を害していることだけは見て取れる。
 イジュは、怒っていた。


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