「私、箒と塵取りを持ってくる。イジュ、破片に触れちゃだめよ」 侯爵と随身の少年を見送ったあとのリラは手際がよかった。てきぱきとイジュに言いつけて、自身は膨らんだペチコートを翻す。けれど、聞いていたのかいないのか、リラの足音が遠ざかってしまうと、イジュは何事もなかったように床の上にかがんで破片を拾い始める。ルノは緩く結んだショールを握り締めたまま、それを見つめた。沈黙の中、破片を拾う乾いた音ばかりが響く。その白い指先につ、と細い血の筋が伝うのを見つけて、ルノは部屋を横切り、イジュの手首をつかんだ。 「……どうして、勝手なことをするのよ」 吐き出した声には思いのほか、苛立ちが籠もっていた。 「勝手なこと?」 「そうよ」 苛立っている。 そう、苛立っていた。ルノは、イジュに。 己を妨げたこの男に、激しい怒りを感じていた。 「別に、たいしたことじゃないわ。ぜんぜん、たいしたことじゃない。おまえが心配するようなことなんて、なにひとつなかったのよ」 「嘘ばっかり」 男が低く喉を鳴らす。ルノは思わず息をひそめた。 「嘘ですって?」 「あなたのほうこそご自分がぜんぜん、分かってないらしい。震えてらしたのに? 怯えて、今にも泣き出しそうな顔をして、幼子のように目を瞑っていらしたのに?」 「嘘言わないで!!」 右手を振り上げる。それを反対につかまれた。あまりにたやすくつかみ取られてしまい、ルノは一瞬瞑目する。背を、わずかに開いたままだったアカンサス彫の扉に打った。はずみに閉まった扉に手首を押し付けられ、眉をひそめる間もなく噛み付かれた。――ように、ルノは感じた。唇に唇が触れた。ただ、それだけだった。それだけであったのに、ルノは喉笛に牙を突き立てられる心地がした。ころされる。そう思った。ころされる、と思った。だから、ルノはイジュの胸を押しのけ、今度こそ力の限りにその頬を張った。ぱしん、と鋭い音が鳴る。 「何を、するのよ」 ルノは男を睨む。 苛立ちではない。すでにそのようなものではない。 猛烈な憎悪すらも、感じていた。殺してやりたいとそのように。 頬を張られたイジュもまた、翠の眸に冷ややかな何かを湛えていた。 正しくそれもまた、憎悪であったのだろう。 「嫌なら、殴ればいいんです。……このように」 「なによ」 「このように殴ればいいと言ったんです。何故、あなたはあなたを殺すんですか。泣いているのに。傷ついているのに。たすけて、とか細い声で叫んでいるのに!」 「わたしは……わたしは、おうじょよ。ルノ=コークランよ!」 「そんなものはどこにもいない!!!」 イジュは思いっきり顔をしかめて吐き捨てる。その顔が何故か。泣いて、傷ついて、その傷を手当することすらできずに途方に暮れて、たすけてたすけてとばかり叫んでいる幼子に思え。ルノは知らず、口をつぐんだ。 「どこへ行くんですかあなたは……」 荒く息を吐いて、イジュはルノの肩に額を押し付けた。 「ご自分すら潰して、捨てて、ひとりでいったいどこへ? わたしの手のとどかないばしょにいくんですか。ひとりでかってにいくんですか……」 「イジュ?」 異変に気付いた。押し付けられた額が熱い。とてもひとの熱のようには思えなかった。背も、触れた手のひらも、どこもかしこもみんな熱くて。どうしてこの男はこんなに汗をかいて、呼吸も苦しげで、どうしてどうして。握った手のひらが力を失っていくのか。ルノは小さな悲鳴をあげた。 「イジュ、イジュ、イジュなんでこたえないのなんで目を開けないのイライア、カメリオ誰か来て、誰か……、嫌よ嫌、いじゅがしんじゃう、しんじゃう!! だれかきて!!!」 ソラミラは北方シャルロットから王都ユグドへ至る巡礼街道のちょうど真ん中に位置するのどかな農村である。森と川以外には何もない、というのが村人たちの言で、けれど、彼らはそのふたつきりの宝を大事に守って慎ましく日々を送っていた。 「リシュー!」 河原で薬草摘みをしていた女は、弾けんばかりの呼び声にふわりと琥珀色の睫毛を震わせた。このあたりでは珍しい、北方めいた容姿をした女性である。ふんふんとうたっていた鼻歌を止めて、リシューと呼ばれた女は腰に飛びついてきた少女を受け止める。 「リシュー。また、へたくそな歌!」 「失礼ね、聖歌のひとつです。どうしたの、アリア。あんたいつも、この時間は水汲みの仕事をしていたでしょう」 「うん。でももう終わっちゃった。おねえさんが手伝ってくれたの」 「おねえさん?」 アリアの後ろに黒ローブの女性がたたずんでいることに気付き、リシューは眸を眇める。鴉色をした黒ローブは長い間雨風をしのいできたものなのか、ところどころがほつれ、色褪せてしまっている。女性の身なりはこのあたりの村娘といった風ではとてもなく、旅人にしてもどこか異質であった。来なさい、と鋭い声でアリアを引き寄せ、警戒をこめた眼差しを送る。女は漆黒の眸をしばらく眇めていたが、やがて「私はオテルと申す者」とその場に跪いた。 「クロエの遣いで来た。もしものときはあなたを頼るようにと。シュロ=リシュテン。その名に違いはないか?」 シュロ=リシュテン。 それは、かつて女が捨てた名であった。 捨てたと思った。されど、消えかけた鳥の噛み痕が未だ呪いのごとくに己を苛む。きりりと疼いた左胸に手をあて、リシューは肩をすくめた。 「それであたしがシュロ=リシュテンだと言ったら? あんたは何するっての」 一転して挑戦的な視線を投げかけたリシューに、オテルと名乗る女は「頼みがある」と呻いた。 |