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06




「――眠ったよ、ルノ姫」

 マルゴット先生が寝室から出てきたのは、ちょうど日告げの鐘の響くさなかだった。俯きがちに椅子に座っていたルノは、弾かれたように顔を上げる。

「マルゴット先生! イジュは? 平気なの? 何か悪い病気に罹っているの!?」
「姫、姫。落ち着いて、順を追って話すから」

 おっとりと両肩に手を置いて、マルゴット先生は立ち上がりかけたルノを椅子に戻した。ひと揃えの寝台が備えられた診療用の寝室の隣にあるのは診察室で、奥はマルゴット先生の私室に繋がっている。先生は、用意した茶器に慣れた手つきで沸かした湯を注ぎ、ふんわりと優しい香をくゆらせたハーブティに蜂蜜をひと匙垂らした。

「カモミールだ。気分を落ち着かせる効果がある」
「先生、イジュは」
「原因は、私にもわからない」

 マルゴット先生が目配せをすると、ずっとかたわらで寄り添っていたリラが椅子を立った。大丈夫ですかルノさま、と尋ねられる。恐慌状態にあったルノを落ち着かせ、この女医を呼びに行ったのはリラである。平気よ、とうなずいて唇を引き結ぶと、リラは半ば落ちかけた毛織のブランケットを丁寧にルノの肩にかけ直して、辞去の礼をした。
 注意深く扉が閉じられる。息をつき、マルゴット先生がハーブティを口に含んだ。

「結論から言おう。イジュの身体はまったくの正常だ。調べてみたが、どこも悪いところは見つからない。……ただ」
「ただ?」
「姫は、寄生虫というのを知っているかい」
「牛や馬なんかにつく血吸虫のこと?」
「そうだね。寄生虫の中にはひとの身体の内部に棲みついて、大きくなるのもいる。イジュの場合それとは違うんだが……、なんというか彼の身体に別の何かが棲んでいるといった風なんだ」
「別の何か?」
「あるいは、高感度の共鳴とでもいうべきか。どうしてか、彼は普通に息をしているだけなのに、ひどく消耗してしまう。まるで別の誰かのぶんの消耗を引き受けてしまっているみたいに。発熱、耳鳴り、嘔吐、頭痛。薬は渡していたんだが」
「先生は知っていたんですか。イジュのこと」

 つい詰問じみた口調になると、マルゴット先生は「悪かった」と肩をすくめた。

「ずいぶん前に教会で彼が倒れてしまったことがあったろう。あれからたまに診ていたんだ。誰にも言わないでと彼がね、懇願したから。でも姫には話しておくべきだったかもしれないね」
「先生」
「実は、もうひとつあるんだ、君には言わなかったこと。聞く気はあるかい?」

 眼鏡の奥の眸を光らせて、マルゴット先生は尋ねた。



 音を立てないように気を配して扉を開く。
 マルゴット先生の言うとおり、運んだときよりは幾分落ち着いた様子で、イジュは寝台の上で眠っていた。椅子を引き寄せてきて、かたわらに座る。額に触れると、やはり熱い。汗で張り付いたヘイズルの髪は、いつもの柔らかさを失い、傷んでいるように思えた。少しの間それをいじってから、ルノはシーツの上に腕を載せ、ことんと顔をうずめる。火は点けていなかったので、窓辺からほそぼそと差し込む月光ばかりが明るい。

「誰よ」

 虚空を睨んで、呟く。

「これは、私のものなのよ。好き勝手しないで頂戴」

 無理に強がった声は群青色の闇の中へ、しん、と溶けた。
 もしも、誰ぞやがこの男の身を脅かしているというのなら、ゆるさないのだから、と思う。瑕ひとつだって与えるのはゆるさない。だって『これ』は、見つけたときからずっとわたしのものであるのだから。

『いいかい姫。彼の手首にはね、痕が』

 痕がある。それは六年や七年、ともすれば十年以上前の古い傷跡であり、ごく最近に毟ったかさぶたの痕であった。どうして、と思った。それらがどうやってできたかわからないほどルノは愚かではない。けれど、どうしてなのか、わからなかった。だって、ずっと、そばにいたのだもの。わたしたちはおよそ十年という月日、いつも隣で歩き、息をして、喜びや楽しみ、あるいは怒りや悲しみといったものも皆分かちあって、生きてきた。生きてきた、と思っていた。互いのことはすべて知悉しているとそのように。

『姫。姫は天に絶望したことはあるかい』

 けれど、そうね。
 わたしはおまえの本当の名前すら知らない。
 イジュ。あのとき名無しと言ったおまえは、本当は名前を捨てたかったの。





 北方シャルロット。
 城内に響く微かな鈴の音を聞きつけて、エヴァ=リシュテンは重ねたペチコートを翻した。五百年以上前の城を補修等を加えながら、未だにそのまま使っているリシュテン侯爵家は、寒波の襲うこの時期は特に隙間風がひどく、細身のエヴァなどはペチコートを嫌になるくらい重ねなければ到底、生きた心地がしない。されど、膨らんだペチコートは足取りを鈍くする。階段を降りるたび、よろけそうになるのに、せっかちなエヴァは苛立ち、しまいにはペチコートの裾を持ち上げた。あらわになった真白の足が眼前を通り過ぎるのに気付いた青年従者がぎょっと目を剥く。

「エヴァ様。何事ですか」
「ニヴァナから便りがきたんだよ」

 ニヴァナとは現在王都に滞在しているリシュテン侯爵家の今代当主であり、エヴァの五つ下の弟である。リシュテン家は代々聖女を輩出している名家で、都合分家は四十を数えるが、ニヴァナとエヴァはその正統筋の本家の血を引く姉弟だった。
 すでに齢三十五になるが、どこの家にも嫁がず、侯爵家で悠々と暮らしているエヴァはリシュテンでもいちばんの変わり者として、祖父や祖母たちには煙たがれている。確かにこの女性、奇行は多い。しかし、頭が切れた。リシュテン侯爵家の若き当主ニヴァナを影となり日向となり支えているのはこの姉であるというのが周囲のもっぱらの評である。
 遣いから奪うようにして手紙を取り上げたエヴァは、赤々と火を燃している暖炉の前の長椅子にどっかと座って封を破った。青年従者が黙然と茶を用意する。それに昼から火酒を並々と注ぎ、エヴァはあっという間に飲み干した。いつものことであるので、青年従者は眉ひとつ動かさない。

「それで、ニヴァナ様はなんと?」
「首尾は上々。オテルが動いている。『妹』が我が元へ返るのも近いな」

 ふふん、と機嫌よく唇を舐めて、エヴァは空にしたコップに酒だけを注いだ。

「そうたやすく戻りますかね」
「頼みのクロエは、ニヴァナの手の内ぞ? 魔術師どもも何もできまい」
「オテル術師はバレエ鑑賞の折、お父上に牽制をされたそうですよ」
「はっ、平和主義の魔術師がいかにもやりそうなことだ。忠告すれば、聞きいれられると思っている」

 そのとき、ひゅうひゅうとむせぶ隙間風に交じって、微かな呻き声が聞こえた。「ああ、また……」と青年従者が沈痛そうな面持ちをし、エヴァは酒瓶を置いた。整った横顔に一瞬、人間らしい苦悩がよぎる。

「かわいそうに。フロウがまた苦しんでいるのか」
「発熱、耳鳴り、嘔吐に頭痛。聖音鳥に拒まれ、傷つけられたあの日から、フロウ様を苛んでやまない呪いです」
「いたわしいことよ。聖女の代わりにならんと目を輝かせて王都に旅立ったあの子であったのにな」
 
 呟き、エヴァは呻き声のした部屋へ向かう女中のひとりを呼び止めて、鎮静剤を足してやるよう命じた。フロウ=リシュテンは、母こそ違うものの、エヴァやニヴァナとともにこの城館で暮らした異母妹である。今年で十六。七年前、不在の聖女に代わり、この代役をせんと七大老に乞われ王都に向かったが、聖音鳥に拒まれ、その身に癒えない呪いを受けた。

「ああ憎らしい。七大老も、コークランも」
「そのスゥラ王ですが、ハザ公国へ入国したようです」
「ふん。娘の王女のほうはたいそう扱いづらいらしい。あのニヴァナが手を焼いている」

 薄く嗤い、エヴァは長椅子の肘掛に長い脚を載せて寝転がった。ペチコートから見え隠れする白い脚を暖炉の炎が染める。青年従者は目をそらした。

「さて、どうしてくれよう」
「また何かよからぬことをお考えですね」
「王子がいるなら、王女は必要あるまい。そうは思わんか」

 それに、とエヴァは丸めた文を暖炉の炎の中に投げ込んだ。

「わたしは、女は嫌いなんだよ」



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