霜の張った馬車窓の外では、今年初めての雪が降り始めていた。 不在のユグド王に代わり、カレーニョ夫人との会食を終えた帰りである。御者がランタンを掲げた馬車に揺られながら、ルノは外を眺めていた。北方シャルロットほどではないが、王都でもそれなりに雪は降る。積もってしまわないといいけれど、とルノは首に巻いたファーをかき寄せ、窓にふっと息を吹きかけた。鎧戸を開けているせいで、触れると氷のように冷たい。煙突が目印の家を薄暗がりに見つけ、窓を開いて、御者の少年に声をかけた。 「サズ。ここで止まって頂戴」 「ですが、姫様。月白宮はまだ先ですよ」 「いいのよ、ここで降りたいの。リラ、ついてきて。――ああ、お前もここで待っているのは寒いでしょう。中に……」 「いや、俺は馬のそばにいます」 御者の少年が首を振ったので、ルノは首に巻いていたファーを押し付けて、「すぐに戻るわ」と言った。無骨なオーク材のドアに『開店中』の札がかかっているのを確認して、ノックする。返事はすぐに返った。ほどなく扉が開いて、中から白髭を豊かにたくわえた初老の男が顔を出す。 「おや、姫じゃないか。いらっしゃい」 「久しぶりね、おじいさん。お身体は変わりない?」 「こう寒いと、節々が痛くなってしまっていけないねえ。そら、中へお入り。立ち話じゃ、私の身がこたえる」 淡いブルーの眸を弓なりに細めて、おじいさんはルノたちを中へ招いた。 かつて諸国をめぐり、吟遊詩人として名を馳せた老人である。さる事件のために一時この国を離れていたが、周辺国を旅した末、半年ほど前に再び王都へ戻ってきたのだという。手紙でそれを知ったルノは、以来この家に時折足を運んでお茶をするのが楽しみになっていた。 とはいえ、今日の目的は少し違う。 「頼まれていたものだろう? 今持って来よう」 温めていたケトルを傾けて、茶器に注ぐと、おじいさんはエプロンの紐を解いて奥のほうへと引っ込む。まもなく戻ってきたおじいさんの手には、羽根と紺青のビーズに紐を通して繋ぎ合わせた腕輪が載せられていた。 「クレンツェの宝石鳥の羽根さ。それから、青石には古くから魔除けの意味もある。災いが君をのけ、祝福が訪れるように。祈りをこめておいたよ」 「きれい。ありがとう、おじいさん」 一粒一粒ビーズを通して作ってくれたのだろう。大きさはふぞろいで、どこか不恰好でもあったけれど、蜜蝋に照らされたビーズたちはおじいさんの眸と同じ、どこか優しい青色をしている。 「“風の妖精の宝”か。まさかあなたが花嫁になられる日が来ようとはね。月日が流れるのは早い」 「“風の妖精”なら、きっとおじいさんだわって思ったの。“花の妖精の宝”はリラたちが作ってくれたポプリ、“水の妖精の宝”は母上の形見のベール。“翠の妖精の宝”はまだどうしようか悩んでいるのだけれど」 「翠は、木々をあらわすからね。変わることのない愛の証に、最も親しき友人や家族にもらい受けることが多いと聞くよ。たとえば、首飾りや耳飾り。宛はあるかい?」 「そうね……」 答えを探しながら、気付けば意識が遠のいてしまう。 近頃のルノはずっとそうだ。カレーニョ夫人との会食でも、リラにさりげなく足を踏まれなければ、延々と夫人のペットの子豚と見つめ合っていただろう。 「姫?」 再び物思いにふけりかけていたルノは、目の前に紅茶が置かれたことで伏せがちだった眸を上げた。 「ああ、ごめんなさい。考え事をしていたの」 「顔色がよくないな。考え事は構わないが、きちんと眠っているのかい」 「……だいじょうぶ。いただくわね」 「姫」 カップを引き寄せると、おじいさんは険しい顔をしてルノを見つめた。 そのとき、家の裏口の戸が荒々しくノックされる。ルノとリラは顔を見合わせたが、おじいさんは物馴れた様子で「またおまえらか」と呆れ混じりに戸を開けた。襤褸を身に纏った物乞いらしき男たちが中へ転がり込んでくる。どさどさどさ。音が重なって一瞬判別がつかなかったが、どうやら三人いるらしい。 「だってよう!」 「寒いんだもんさ!」 「パンの耳でもいいから恵んでくれよう!」 のっぽと中くらいとちびとで、代わる代わるに言い募る。声の調子も似ているせいで、注意深く聞いていないと誰が言ったかわからない。 「その前に仕事をしろといつも言っているだろう」 「しているさ」 「しているけれどほら」 「見世物の仕事は終わっちまったろう」 「おまけにあいつら死んじまって」 「俺には一銭も入らなかったのさ」 「あわれ」 「あわれ!」 「――見世物って、リシュテンの聖女の?」 「姫」 持ち前の好奇心に駆られて、口を挟む。ちびのほうの物乞いが不思議そうにルノを見やると、「こちらのお嬢さんに近づくんじゃないぞ」とすかさずおじいさんが凄んだ。ルノは苦笑する。 「私が話しかけたのよ、おじいさん。リシュテンの聖女の見世物なら、私も見たわ。盛況だったわね。今はもうやめてしまったって聞いたけれど……」 「やめたんじゃないよ、死んだのさ」 答えたのは、のっぽの物乞いだった。 腕を組んで、にんまりと黄色い歯を見せる。 「手伝ったぶんの分け前を俺にもくれるって言ったのによう。畳んだ幌を荷車に積んで、早朝に逃げ出しやがった。それで、ちょうどリィンゼント通りの橋のたもとんところで暴れた馬が事故を起こしたのよ。娼婦のアンネも相棒のヨセフも頭が潰れて死んじまった。俺よ、あのあと橋のたもとで銭を拾ったんだぜ。てっきりあいつらが分け前置いて行ってくれたんだと思って。でも使えねぇの、やんなっちまうよなあ」 ぼやいて、物乞いはポケットから取り出した銭をくるりと回す。その丸い、見覚えのある形を見て、ルノは瞬きをした。 「それ、見せてちょうだい」 「えっ。嫌だよう。俺の銭だもん」 「なら、交換よ」 目配せを送ると、リラはしぶしぶといった様子でポケットから銀貨を出した。「これでどう?」とのっぽの手のひらに載せる。目を輝かせたのっぽは、先ほどまで手のうちに握り締めていたものをルノに渡してくれた。 「姫様それは……」 遅れて気付いたリラが眸を揺らす。 何故かしらね、とルノは呟き、のっぽの前にかがんでじっと目を合わせた。 「教えてほしいの。あなたはこれをどこでいつ拾ったのか」 摘まんだ指先で光るのは、銀製のカフス釦。 表面にひとつ茨の彫られたそれは、北方シャルロット、リシュテン家の紋章であるはずだった。 いつしか、雪は大降りに転じていた。 途中で車輪が雪にとられて動かなくなってしまったため、ルノは馬車を降りて、リラに傘を差し出されながら、護衛たちを連れ月白宮へ向かう。しかし常であるならば、門前にて整列し、迎えるはずの衛兵が何やら騒がしい。常駐している兵は少なく、残った兵たちも宮殿とこちらをせわしなく行き来している。 「何かあったのでしょうか?」 「そうね。ルブラン!」 兵たちの中に、ひときわ大きな隊長格の男を見つけ、ルノは声をかける。その豪胆な体格から「ヒヒ」とあだ名される近衛隊長はルノを見つけるや、雪に足をとられそうになるのも構わず駆けてきた。 「姫様!」 「どうしたの? この騒ぎは何?」 「それが……」 「ルノ姫様!」 話していたところに侍従長のカメリオが割り行ってくる。普段は月白宮を取り仕切る侍従長が門前まで出てくることなどめったにない。自然眉をひそめたルノに、「今、迎えの者を寄越そうとしていたところです」とカメリオは上がった呼気を整えながら説明する。 「何か、あったのね?」 「ええ。姫様。ひとまず、中へ入りましょう」 「いいわ。ここで話しなさい」 「ですが」 「いいから」 衛兵たちのこのざわめきを見れば、事の大きさは知れた。ルノが引かないのを見て取ると、カメリオは顔を歪めて、「わかりました」と息をついた。 「では、ご報告します。一刻ほど前ですが、ハザ公国より火急の知らせが星詠み師レント様宛に入りました」 「公国はなんて?」 「ハザ公国の赤の火口付近にて、スゥラ王及び同行していたハザ公一行がすべて消息を絶ったとの由。詳細は確認中ですが、相手はハザ公弟。確かな筋の情報です」 風向きか、不意に吹きつける雪が強さを増した。 舞い上がる銀髪を押さえ、ルノは蒼の眸を眇める。 ――のちにユグド王国史上、最大の屈辱と言われるこの事件は、ルノにもまた、数奇な運命を呼び込むこととなる。 |