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08




 俺のもっとも古い記憶はいつも、巡礼街道から北に離れた寒村の孤児院と下手くそな讃美歌から始まる。



「にじゅうはち!」

 ザイン村にひとつきりしかない孤児院の朝は、子どもたちの讃美歌で始まる。揃わない歌声、調子の狂ったオルガン、下手くそったらない。塀のそばに生えた林檎の樹にまたがりうたた寝をしていた“二十八”は、飛んできた小石に目を開いた。すんでのところでひょいとよけて、樹下の少女へ一瞥をやる。

「なーんだ。“十二”か」
「なんだじゃないよ。あんたはいつも朝の礼拝をさぼって。悪い子! 神父様も怒っていたよ」
「だって、つまんないんだもん。俺はここで昼寝しているほうがいい」
「二十八!」
 
 十二は孤児院の子どもたちの中では年長のほうで、何かにつけ二十八の世話を焼きたがる。ネル神父に代替わりしてから、十二番目に拾われた子だから“十二”。二十八は二十八番目に拾われた子だから“二十八”。ザイン村の孤児院では、拾った子どもひとりひとりに名前なんてたいそうなものはつけない。昔はつけていたこともあったようだけれど、そうすると誰がどの名前なのかごっちゃになってしまうし、どちらが先に入った子どもでどちらが後なのかもよくわからなくなってしまう。二十八がネル神父に引き取られたときはすでに子どもたちは皆番号で呼ばれており、二十八もそれに不満を覚えたことはなかった。
 俺はにじゅうはち。二十八番目の拾われっ子だから二十八。
 ――第一、その頃の俺にとっては、名前なんかよりもずっと、腹減りのほうが深刻な問題だった。目を覚ましてしまうと、昨日パンを半切れ詰めたきりのおなかがぐぅぐぅと音を立て始めたので、二十八はポケットに突っ込んでいたざら紙を開いて鳥の形に折り直した。そのざら紙はずいぶん昔に、孤児院へ施しにやってきた老貴婦人が子どもたちへ配ったもので、中にはひとかけのチョコレートが入っていた。それを口にしたときの、舌が痺れるような甘さ。溶けてざら紙にくっついていた部分をしゃぶったあとも忘れられず、二十八は未だにざら紙を持ち歩いて、腹が減ってくると鼻をくっつけて、もう薄らいでしまったにおいを思い出してみたりなどする。大きくなったら俺、腹いっぱいチョコレートが食べたい。それか、チョコレートを毎日くれるうちの子になりたい。と、その頃の二十八は真面目に考えていた。
 
「“さぁ、はなようたえ”」

 二十八はよく、暇つぶしにこのざら紙を使った。
 そうでなければ、ひもじくて死んでしまいそうだったから暇つぶしだって必死だった。教会の古い壁画に描かれていた“聖音鳥”。その形を模して折ったざら紙をすいと空へ掲げる。

「“かぜよいわえ、しゅくふくをしめしたし”」

 そうして天へ放つと、ざら紙でできた鳥は二枚の翼を羽ばたかせ、ぐんぐんと空高くへのぼっていく。風に乗ったという様子ではない。まるで紙そのものが意思を持って動き出したかのようだ。十二が気味悪そうに眉をひそめた。

「やめなさいよ二十八。神父様も言ってたじゃない」
「どうして。俺の目が金色だから?」

 わざとらしく小首を傾げてみせると、十二はまるで言ってはいけないことを口にしたみたいに「二十八!」と声を荒げた。親の顔を二十八は覚えてはいないが、自分が捨てられたのはこの両目の色のせいなんだと、ネル神父は繰り返し言ってきかせた。鮮やかな金の虹彩は、栗色の眸の多いこの国では明らかに異質だった。おまけに髪は鴉の羽と同じ昏色で、色素の薄い膚とあいまって、おまえはまるで化け物だと。それに二十八は、確かにその目でほかの子どもたち、大人たちには見えないものが見えていた。
 『それ』をちょうちょ、と二十八は呼んでいる。
 誰かが教えたわけではない。ただ形がちょうちょに似ているので、そう呼んでいるだけだ。天に、地に、樹に、雨に、空気のすみずみ、ありとあらゆるものの間を『それ』は舞っており、ところどころに濃い吹き溜まりや、希薄になった場所などがある。死臭漂う者からは離れ、生まれたばかりの赤子のもとには集まる。意思はないらしい。当然喋ることも、触れることもできない。ただ、まるで生き物のように膨らんだり、萎んだりをそこかしこで繰り返している。先ほどの鳥だって、その流れを読み解いて、少しいじってやっただけだ。――そんな風に説明してみたところで、十二もネル神父も気味悪そうな顔をするだけなので、彼も今さら話そうとは思わないけれど。
 ネル神父に無理やり伸ばされた前髪を摘まみ、二十八は息をついた。

「二十八!」

 孤児院のほうへ戻ろうとしていたはずの十二が、急に慌てた風に声を上げる。見れば、塀沿いの道を数頭の馬が歩いており、先頭の黒ローブを纏った男の脳天に先ほど二十八が飛ばした“鳥”が突進しようとしているところだった。しまった、と二十八は舌打ちする。

「“とまれ”」

 二十八が命じるのと、黒ローブの男が目を上げるのは同時だった。いや、実際には一瞬だけ黒ローブの男のほうが早かった。男が短く何かを唱える。ちょうちょたちが激しくさんざめくのを二十八は感じた。ほとり、と“鳥”が足元に落ちる。振り返った男の目が、樹上の二十八で留まった。

「あ」

 男の目の色を見て、瞬きをする。直後、またがっていた枝から足を滑らせた二十八は、十二の引き裂くような悲鳴をどこか遠くに聞きながら樹下へ落下した。



 ひもじい。腹が減った。
 ずきずきと疼く後頭部の痛みより先にひもじさのほうが蘇って、二十八は目を覚ました。かたわらでは十二が寝台に身体を投げ出して寝入ってしまっている。文句を言いながらも、何かと世話焼きが治らない十二。二十八は小さな身体をもぞもぞと動かして、薄い毛布を十二のほうへ押しやると、寝台から滑り出た。ぶつけたせいなのか、それとも単にひもじいからなのか、ぐらぐらする頭を押さえて、階段をおりる。
 もう遅い時間らしい。ほかの子ども部屋からも子どもたちの寝息が聞こえ、窓辺にのぞく群青の空には銀色の月が架かっている。階下から微かにネル神父の声が聞こえた。誰かと話しているようだった。

「ですが、フォームントの星詠み師様。二十八はまだ子どもですよ」
「城には三つになったばかりの子どももいるさ。王都では、ああいう子どもは乳飲み子のうちに差し出される。俺もそうだった。両親の顔なんざ覚えちゃいない」
「ですが……」
「金なら払うさ。いくら欲しい?」
「星詠み師様。二十八のことはずっと周囲から隠してきたのです。あなたさまの前で、このようなことは言いにくいのですけれど、“金目の子ども”がザイン村から出たと知れれば、何と言われるか……」
「ネル神父。あいつは曲がりなりにも自分で『術式』を使っていた。このことがわかるか。ここにずっと置いておくほうが、危険だ」
「しかし、あの子だってまだ承知したわけでは……」
「なら、今ここで聞けばいい。なあ、二十八? いるんだろ」
 
 突如話を向けられ、柱の影にしゃがみこんで耳をそばだてていた二十八は目をぱちぱちと瞬かせた。ネル神父が顔をしかめて、「そこにいるんですか二十八」と鋭い声で問う。抜き足差し足で逃げ出そうとしたが、背後から伸ばされた腕に羽交い絞めにされた。

「盗み聞きとは、いい度胸じゃねぇか。なあ二十八?」
「はなせ! おまえだれだ!」
「ザイ=フォームント。この国の星詠み師さ」
「……ほしよみし?」
「時をはかり、天を詠み、女王陛下をお助けするご意見番だよ。どうだ、二十八。お前には俺と同じ『しるし』がある。一緒に来ないか」
 
 回していた腕を外すと、フォームントの星詠み師はかがんで、代わりに大きな手のひらを差し出した。『しるし』とはおそらく自分とこの男に共通する金の両目のことだろう。二十八は思い切り顔をしかめて、目の前の手を睨んだ。

「いやだね」
「ふうむ。何故だ?」
「だって、しわくちゃの女王陛下なんか、俺は仕えたくないもの。だけど」
「だけど?」
「女王陛下は、チョコ―レートくれる?」

 そのときの二十八にとっては、そちらのほうがずっと重要だった。二十八は、チョコレートは高貴な女性がくれるものなんだと信じ込んでいた。初めに施しをした老婆があたりでは有名な男爵家の未亡人だったからだろう。ほのかな期待をこめてじっと星詠み師を見つめると、しばらく呆けた顔をしたのち、男は口を開けて笑った。

「そんなもん陛下でなくとも、王都に来れば山ほどあるさ。何なら俺が買ってやろう。なんだおまえ、そんなものが食べたかったのか」
「うん。買ってくれるのおっさん。ほんとうに?」
「本当さ。約束する」
「なら俺、おっさんと一緒に行く」

 最初の拒絶などきれいさっぱり忘れた顔で、差し出された手を取る。二十八には他に捨てて困るものなどなかったし、そのような思い出も何も、ザイン村の孤児院には見当たらなかった。最初は体面がどうのと渋っていたネル神父も、星詠み師が金額を書きつけた紙を渡すと、荷造りを手伝った。

「お別れが必要だろう」

 フォームントの星詠み師は言ったが、二十八は首を振った。ただ、星詠み師から「先払いだ」と言ってもらったチョコレートを眠る十二の枕元に置く。うるさくて世話焼きで煩わしかった十二。ばいばい、と耳元で囁くと、二十八は孤児院を出て、たいした荷物も入っていないリュックを星詠み師の馬にくくりつけた。


 王都への道のりは長かった。
 少なくとも、それまでザイン村から出たことのなかった二十八にはたいそう長く感じた。途中幾度か馬を替え、巡礼街道を西へ進んでいく。ザイン村を出たときはまだ春の盛りの季節だったが、旅のさなかに春は過ぎてあたりは徐々に夏めき、王都の門をくぐる頃には夏至を過ぎていた。
 王都ユグドラシル。その美しさから、花と風の祝福を受けた楽園、と吟遊詩人たちに謳われる、豊かな街。蒼天に伸びる世界樹の青々とした枝葉を仰いで、二十八は知らず息を漏らした。道中も、遠い地平の彼方にたたずむ樹影は見えたが、近くで仰ぐと本当に大きく、そして美しい。
 世界樹には、神の使いである聖音鳥が住まうという。微かな歌声が聞こえた気がしてあたりを見回せば、「聖音鳥だよ」とフォームントの星詠み師がにやりと笑った。

「朝の訪れを歌っている。日によってはひとの子の姿を取り、樹下におりてくることもある」
「ほんとうに、いるんだ」
「もちろん。まずは、城へ向かおう。女王陛下に報告がある」

 フォームントの星詠み師はそう言って、馬首を返した。
 ユグド城は、世界樹の根元近くにひっそりと寄り添うようにして立っていた。白亜の石で造られた城は、あおい木漏れ日に包まれ、それそのものが天上にあるかのようだ。厩番に馬を預けた星詠み師は内門をくぐると、二十八を連れ、同じく白亜の石で作られた長い階段をのぼった。最上階に城の入り口があるのだという。ひとつひとつの段が高いので、小さな二十八はのぼるのに苦心して、道半ばの踊り場のあたりでへこたれそうになってしまう。そのときである。

「ザイ! 帰ったのか!」

 ひらり、と視界端で白のドレスが翻るのを感じた。軽快な足音を立てて、階上から誰かが降りてくる。少女であるようだった。柔らかそうなヘイズルの髪を揺らして、こちらに向かって駆けてくる。

「ソレイユ様」

 気付いたフォームントが膝を折る。
 
「遅かったな。待ちくたびれたぞ!」
「ザイン村で拾い物をしましてな。手紙でも書きましたでしょう?」
「ああ、金目の子どもだったか」

 うなずいた少女がこちらを見やる。
 翠の眸と目があった。
 何故だろう。不意にどうしようもないくらいの切なさが押し寄せてきて、二十八は咽喉を詰まらせる。はじめて出会ったはずの少女であるのに。言葉を交わしたことはおろか、まだ名前すら知らない。なのに、ずっと昔から俺はあなたを知っていて、あなたに出会うために生きていたんじゃないかとすら思った。
 瞬きを繰り返していた翠の眸がふんわり凪いで細まる。

「見つけた」

 と、彼女は言った。

「見つけた。わたしの。私の『星詠み師』――……!」

 花咲けるがごとくに破顔した少女が二十八を抱きしめる。
 それが、のちのユグド王国最後の女王ソレイユ=リシュテンとの出会いであり、そして千年を数える旅路の約束めいた始まりでもあった。
 エン=フォームント。俺の最初の名前である。


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