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09




「今日からお前はエンと名乗れ」
「えん?」
「そうだ。ソレイユ様が考えた。お前だって、二十八じゃ何かと不便だろう?」

 ザイ=フォームントはそう言って、「エン」の綴りを紙に書いた。数字じゃない、俺だけの名前。はじめての名前は口にすると何やらこそばゆく、「エンなんて、へんなの!」と舌を出して、ザイに殴られた。
 エンの後見人にはザイがなった。ザイは早くに妻を亡くした男やもめで、子どももいなかった。フォームント家は、小さいながらも領地を持つ貴族である。ザイの養子になったエンは、屋敷の執事に、ユグド文字の読み書きや計算といったものから、礼儀作法、立ち振る舞いの仕方などを朝から晩までみっちり教え込まれた。さらには、ユグド王国の歴史、古語、異国語、政治学、治世学、数学、植物学、天文学などありとあらゆる学問、果ては護身術といったものまで。フォームントの城館には、隠遁した元・星詠みや学者たちが多く棲んでいて、この手の“教師”には事欠かない。ちなみに、ひときわ困難を極めたのは言葉遣いの矯正で、生意気な口を利いては執事のタフィに頬をつままれて叱られ、膨れ面をして言い返すのを繰り返した。

「タフィがぼやいていたぞ。口汚さはやはり生まれなのかってね」
「うるさいなあ。ワタシはどうせ孤児院で育った卑しい餓鬼でございますですことですよ、ああ面倒くさい」
「お前はそれを楽しんでやるところがよくない」
「そう? 俺もこれで我慢してんだよ。第一言葉遣いなんて、ザイもぜんぜんだめじゃんか」
「……言われてみりゃあ、そうだな」

 気が付けば、フォームント家に引き取られ、五年の月日が流れていた。
 十一歳の少年に成長したエンは、久しぶりに帰城した主を使用人たちとともに迎えた。フォームント家は代々星詠み師を輩出している家柄であるが、この役職は世襲ではない。星詠みの素質を持った子どもを見つけ、養子に取り、今代の星詠み師が自らの手でもって育て上げる。ザイもまた、幼い頃に先代の星詠み師に見出され、この家に連れてこられたのだという。
 
「ところで、エン。いい報せがあるぞ。星詠みの塔への召喚について、女王陛下の許しが出た。来年にはお前も星詠みのひとりだ」
「ふぅん。そう」
「なんだ、あまりうれしそうじゃねぇな」
「だって、星見は好きだけどさ。俺は城仕えなんてたぶん向いてないよ」

 エンは城館の頂にある星見台から、宙を仰いだ。晩秋だった。息が白い。ユグドラシルの天には、北から南へ銀の河が流れ、無数の星たちが煌めいている。
 星詠みとは、星たちの声に耳を傾け、天河の流れを詠み、未来をはかる者。王都にある星詠みの塔では、星詠みたちが日夜星見を行い、この記録は塔のあるじたる今代の星詠み師によって、女王陛下へ献じられる。また、塔には歴代の星詠みたちが編んできた数々の術式があり、それらを解いて、国のために使うのもまた、星詠みの仕事であった。
 魔術師。星詠みたちをひとは呼ぶ。
 否。学者に過ぎないと、ザイは語る。

「さて、エン。この天の配置をお前はなんと解く?」

 ぱちん、と懐中時計の蓋を弄って、ザイは問うた。
 ひとつ茨の紋章の刻まれた銀製の懐中時計は、ザイが先代の星詠み師からもらった大事な形見であるのだという。考え事をするとき、蓋を弄るのがザイの癖だった。
 うーん、と考え込んで、エンは東方の星を指す。

「東に羅針盤、それに海鳥たち、船が揃っている。針が海原を指しているから航海の準備だね。風向きは安定。南のほうからもう一艘、船が見えるから、応援があるんじゃないかな。おおむね、良好。女王陛下が思うまま、進むがよろしい」
「悪くない」
 
 ザイは満足げにうなずいて、西天の端を指差した。

「ただし、あそこにハリネズミがいる。つまり、裏切りには注意だ」
「ああ、本当だ。気付かなかった」
「見えにくいところにあるだろ? だから余計に注意が必要なのさ」

 ぱちん、と鳴らして懐中時計をしまうと、ザイは星見台の笠木に腰を下ろした。エンもまた隣にあぐらをかく。ユグドラシルの秋天は澄み渡り、北から吹きつける夜風は少し冷えた。ふるりと震えたエンをローブのうちに招いて、ザイは火をつけた葉巻をうまそうに吸う。「俺も吸いたい」とザイのポケットに手を伸ばすと、「餓鬼にはまだ早ぇよ」とチョコレートを口に突っ込まれた。もう六年も経つのに、ザイは未だに帰城するたびチョコレートを山ほど買って帰って、執事のタフィに叱られる。舌に広がる、痺れるような甘さに、エンはこっそり破顔した。この粗野で適当で、そのくせ妙なことには生真面目な養父のことがエンは大好きだった。
 なあエン、と煙を吐き出していたザイが呟いた。

「星詠みの塔に入る前に、お前に一個話しておくことがある。星詠みが、決してしてはならないことについてだ」
「酒に煙草に? ザイはいくつ破ってんの?」

 笑うと、うるせえ、とザイはエンの頬をつねった。

「王宮じゃ吸っちゃいねぇよ。――いいかエン。お前は馬鹿だが、馬鹿とは何かを知ってる餓鬼だ。ひとの言うことはさっぱり聞かんが、分別はある。ゆえに先に言っておく。『禁術』には、決して手を出すな」
「キンジュツ?」
「星詠みの塔にはそう呼ばれるいくつかの術式がある。お前もいずれは口伝されようが、これは決して使ってはならない類の術式だ」
「使うと、何が起こるの?」
「わからない」

 大賢者と呼ばれる男は、葉巻を口端に咥えてゆるく笑った。

「わからねぇんだ、誰にも。『魔術』なんぞと言われているが、俺らの扱う術式はすべて、実験と計算によって積み上げられた理論であり、ただの計算式だ。無から有は生まれない。導き出される結果は常に、あるべくしてある、そうでなくてはならない。だが禁術というのはな、エン。お前のその身体と魂とを担保に、通常の計算式では導き出せない結果を引き起こす破壊の式なんだ」
「身体と魂を担保する」
「ああ。よって、通常の術式とは比べものにならない力を生み出すが、当然、術者はその反動を同じぶんだけ負うことになる。死か、あるいは別の何かなのか。エン。だから、覚えていてくれ。この先何があろうと、禁術だけは使ってはならない」

 金の双眸がエンを見る。いつになく真剣な眼差しに口をつぐんで、それからエンは苦笑気味に肩をすくめた。

「そんな似合わない顔しないでザイ。しないよ。約束する」

 答えれば、「そうか」とだけ呟き、ザイはまた葉巻を吸った。
 あとになって考えることがある。星詠み師ザイ=フォームント。とびきりの先見の目を持った養父はあるいは、この先の自分の選択すらも正しく詠んでいたのではないのかと。だけど、ねぇ、それならザイ。なんであんたは、俺を選んだの。





 翌年、エン=フォームントは女王陛下の許しを得て、正式に星詠みの塔に入った。
 ユグド歴七六三年。ユグドラシルの現王は、三年前、二十歳で王位を継いだソレイユ=リシュテン。ソレイユは公務の合間に、しばしば星詠みの塔へ足を運んだ。

「どうだ、私の星詠み。星見ははかどっているか」
「誰があんたのですか。はかどっていますよ。明日にはザイがあんたのところに報告に行くんじゃないですか」

 星見台でそれぞれの星の動きを記録しながら、エンは返す。つれんなあ、と女王はヘイズルの髪を揺らしてエンの隣に腰かけた。眸の色にそぐわった若葉色のペチコートが花ひらくように広がる。今年、御年二十三を迎えた女王は、三年前海岸寄りの小国を治めるコークラン王と婚姻を結び、この領土を共同統治の名目で、実質ユグドラシルに併呑した。胎にはふたりの第一子、この国の次の後継者となろう赤子が宿っている。癖なのか、膨らんだ胎を撫ですったソレイユはふと何かを思いついたように手を止めて、エンを見やった。

「どうだ、星詠み。私の子は、おのこかおなごか。お前には見えるのか」
「陛下。いつも申し上げているでしょう。ワタシは占い師じゃあ、ないんです。あんたの胎の子にモノがついてるかどうかなんて、生まれてみりゃあすぐわかること。あと数か月お待ちなさい」
「つまらん、ザイにますます似てきおって。じゃあ、よい。エン。お前、どっちだと思う」

 まちを取った黒ローブの袖を引いて、ソレイユが問う。翠の眸に浮かぶ悪戯めいた光を見つけて、この女王様は、と息をつき、「おんな」とエンは投げやりに言った。

「姫君じゃないですか。あんたに似た。あんたに似た姫君に纏わりつかれて邪魔をされている俺の姿が今見えた」
「ほう? さすが私の娘。だが、お前は私のものだぞ」

 決まりきったことのように、ソレイユはエンの鼻先に指を突き付けて胸をそらす。袖を引き戻すと、エンは天球図に星をふたつ書き込んだ。

「陛下の言い草が、俺にはさっぱりわからない。そんなに俺が欲しいですか」
「ああ、欲しいよ。ひとめ見てすぐにわかった。これは私のものなのだと。お前の金はな、エン。このソレイユ=リシュテンのものなんだ」
「俺は自分の主くらい、自分で決めますよ」
「それが私なんだよ。ふふん見ていろ。今にお前は私を選ぶから」
 
 ソレイユはほつれたヘイズルの髪房をかきやって、エンをゆったり見据えた。十二も年上の女。隆盛極めるこの国の女王。けれど、はじめて出会った姫君の頃からちっとも変わらず、夫であるコークラン王のほか、幾人もの愛人を侍らした今も、何故か時折ひたむきで気の強いあのときのままの少女の横顔がよぎる。エンは、真正面からソレイユを見つめるのが嫌いだった。引きずり込まれるから。引きずり込まれて、戻れなくなるから。そして、あなたは俺を望むけど、俺もあなたを選ぶかもしれないけれど、決して手に入りはしないのだと、その不毛さを突き付けられる心地がするから。

「陛下」
「うん?」
「どうして、俺に『エン』ってつけたの」

 星見台のベンチに、ソレイユに背を向けるようにして座る。外でなら、こんな不敬は許されない。星詠みの塔は、星詠みたちのほか、女王しか入れない。ゆえにこそ許された会話であり、ひと時だった。引き寄せた膝に顎をうずめて小さく問うたエンに、ソレイユはくつくつと笑い声を立てた。

「なんだお前、二十八のほうがよかったのか」
「ちがうよ」

 ちがわない。
 こんな面倒な想いを胸に飼うなら、二十八でいたほうがずっと楽だった。
 何者でもないのなら。何者にも縛られることだって、ないじゃないか。

「ふふ。エンというのはな、東の異国で『めぐる』を意味する言葉なんだそうだ。めぐりめぐる、まるい輪。ひとの作る絆のことだよ。なあ、エン。お前も私も、めぐりめぐりて同じ時代、同じ場所で出会った。まるで奇跡のようだと、思わないか?」

 花かおる風にヘイズルの髪を遊ばせながら、ソレイユは樹天を仰いだ。あるいはそうなのかもしれない、とエンもまた思う。あなたが俺を見つけたのも。俺があなたの翠に出会ったのも。この天と樹と地の織り成す円環のなか、めぐりめぐりてこぼれおちた奇跡なのかもしれない。だって、俺もあなたをはじめて見たとき、ああ見つけた、と。そう思ったのだ。見つけた、あなたは俺の唯一の王。




「――エン」

 そして、最期の時に彼女は言った。
 ヘイズルの髪はすでに切り落とされ、ドレスは襤褸のように身体に纏わりつくだけだ。頬はこけ、膚は老婆のごとく生気を失い、爪は伸び、眸ばかりがぎらぎらと異様な精気を帯びて燃えている。ソレイユ=リシュテン。王位はすでに彼女の手になく、今は磔を待つだけの女だった。
 ソレイユはその骨と皮ばかりになってしまった細腕できつくエンを抱き締めた。

「いいか、お前は生き抜いて、見届けてくれ。私の最期を。このソレイユの身が灰と化すまで。その金色の眸に焼き付け、焦げ付かせ、決して、決して忘れるな。エン。お前は私のもの。私だけの金色」

 エン、

(いやだ)

 エン、

(いかないで)

 エン、

(いかないで、ソレイユ)



 ――――エン!!!



 激しく鳴り響いた呼び声に、彼は金色の眸を開いた。


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