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10




「っうううううぅううううう」

 はじめに感じたのは吐き気がするほどの頭痛だった。
 容易には目を開くことすらままならず、シャルロ=カラマイはこめかみにきつく爪を立てる。けれど、頭蓋を内側から破らんばかりの激痛は一向におさまらない。いったいここはどこで、いつの時代なのか。痛覚をなだめすかしながら薄く目を開いて、あたりを探る。安穏とは言い難い長い時間を生きる中で染み付いた、彼の癖のようなものだった。周囲は暗く、明かりらしいものは格子の向こうの石壁にくくりつけられた蝋燭くらいしか見当たらない。鉄格子。正しく、彼がいるのは牢の中であるようだった。石床はぬめり、湿った腐臭が充満している。この上ない悪い目覚めであったが、幸いにも手足は縛られておらず、頭痛以外の負傷もないようだった。
 汗の滲む額に触れて、順繰りに記憶をさかのぼる。それでようやく、朝もやの中響き渡る銃声が蘇った。

「お目覚めかい、時渡る魔術師」

 こつ、と靴音を立てて男が現れる。
 ニヴァナ、と呟いたのが声になったかは定かではない。乱れた呼気はぜえぜえと咽喉を鳴らすばかりで、身体を起こすだけの気力もなかった。石床に頬をつけたまま、格子の前に立った男を睨む。

「本当に“死なない”んだな」

 ニヴァナ=リシュテンは苦笑交じりに呟き、随身の少年ルタが持ってきた椅子に腰を下ろした。

「君がそのように悶え、呻く姿ははじめて見るよ。よっぽど人間らしいじゃないか、クロエ」
「――……っの……」

 この悪趣味が。
 吐き捨てたいのをこらえる。ひとつ言葉を紡ぐだけでも、今の彼にはたいそうの苦痛を強いた。代わりに、なぜ、とだけ尋ねる。ニヴァナは嗤った。

「わからないのか? 君は案外、愚かなのだな」
「…………を、」
「そうさ。私は『リシュテンの聖女』を取り戻す。君の願いは、聖女の解放と聖音鳥を樹天へ帰すことのようだが、私はそうじゃない」
「な、ぜ?」

『フロウを救いたい』
 問いながら、シャルロ=カラマイはひとつの光景を思い出していた。
『あの子は呪いを受けた。右腕を聖音鳥に傷つけられたんだ』
 フロウ=リシュテンは、ニヴァナ=リシュテンの実妹で、今代の聖女が失踪したあと、代わりに聖音鳥に差し出された次代の聖女候補だった。当時、齢十一歳。少し内気なところのある、歳の離れたこの妹をニヴァナはたいそう可愛がっていた。妹を王都へ送る護衛は、ニヴァナ自ら申し出、大きな責務に不安がる幼い妹から片時も離れなかった。その矢先である。聖音鳥は、フロウを拒んだ。シャルロが手を出さなければ、フロウは聖音鳥に食われていただろう。そのとき傷つけられた右腕がもとでフロウは倒れ、その身体は生涯癒えない呪いに悩まされることとなった。
『クロエ』
 薬でようやく眠ったフロウのかたわらで、ニヴァナはうなだれていた。
 怜悧な青年の眸は、このときばかりは赤く腫れていた。
『たすけてくれ、クロエ』
『おねがいだから』
『たすけてくれ』
『何でもする』
『何でもするから』
『だから、クロエ』

「――君には決して、わからないだろう」
「……ニ…ァナ」
「それにしても、不死の呪いとはかくも難儀なものであるのだな。正直、驚いたよ」

 ニヴァナは椅子から降り立ってかがむと、格子に手を差し入れた。ひた、と汗で前髪の張り付いた額に触れる。その手は氷のように冷たかった。

「死ねない。しかし、その回復は非常に緩やかだ。君はもしかして、自分の苦痛を癒す術式ひとつも覚えてないのかい。君はその天才的な才能と千年に及ぶ年月をただ聖音鳥だけに費やしてきたというのか。だとしたら、お笑い種だ」

 ああ、まずい、と思う。
 一度はわずかに意識を取り戻したが、徐々に視界が霞がかり、末端の神経も薄れてきた。確かに、彼の身体はある時から完全に時を止めた。不老であり、不死である。けれど、それは痛覚がないとか、怪我を瞬時に回復できるといったしろものではない。ひどい損傷を受けた場合、彼の身体は相応の長い睡眠を必要とする。ひとの身と同じである。体力をできうる限り温存し、損傷部を補うために一定の眠りが必要とされるのだ。いったい、どれほど眠った。無意識のうちにポケットを探ろうとしたシャルロ=カラマイは、それであるべきものがなくなっていることに気付いた。
 ぱちん、と暗闇に澄んだ音が立つ。ひとつ茨の刻まれた銀製の懐中時計は、目の前の男の手のひらにおさまっていた。

「ニヴァナ!!」
「そのような顔をするんじゃないよ。クロエ。来客があってね、君に邪魔をされるわけにはいかないんだ。君の扱う術式には、これが必要なんだろう?」
「どう、して」
「喜ぶといい。『聖女』が私のもとに帰ってきたらしい。君の育てた魔術師に手を引かれてね」
「ニヴァナ!」
「『何でもする』『お願いだから』。次は君の番だなクロエ」

 わらっていた。
 男はうっすらと、微笑んでいた。
 ――ああ、ほんとうに。おわらいぐさだよ『エン=フォームント』。
 お前は何度同じ目にあえば、気が済むんだ。

「畜生」

 何もできない手で鉄格子を殴りつけた。
 彼は再び。愚かな狗のごとくに。

 



 シュロ=リシュテンが見つかった。
 少し前にもたらされた報せに、地下牢から外に出たニヴァナは薄く唇を歪めた。さすがクロエの育てた魔術師だと感心する。天賦の才を持ち、そして主人に狗のごとく忠実だ。

「それで? 彼女はどこだ」
「術師とともに、控えの間で待たせています。呼んで参りますか」
「ああ。頼む」

 随身の少年ルタを見送り、ニヴァナは椅子に深く腰掛けた。リシュテン邸の窓から、王都の見慣れた夕空を眺める。思いのほかあっさりと見つかったな、というのが正直な感想だった。
 今代のシュロ=リシュテンは、異端の聖女だった。まず、他の聖女とは異なり、生まれながらに聖音鳥自ら言祝ぎの歌をうたった。聖女は数年で役目を引き継ぐのが慣例であるが、今代に限ってはすでに十年をゆうに過ぎている。聖女の交代を聖音鳥が拒んだためだ。さらに、十年に渡る失踪。これについては十年前、クロエがシュロ=リシュテンをさらい、聖音鳥に見つからないよう術をほどこした上で隠したとされている。この理由をクロエが明かしたことはない。何から何まで異端の聖女であった。クロエに恩こそあれど、その弟子であるオテルの説得くらいでそうそう王都へ戻るようにも思えなかったが。
 ――だが、あれはとても父を愛していたと聞く。
 父リンゼイは、病の床にある。あるいは心境の変化でもあったか。
 窓外に目をやりながら、ニヴァナはぼんやりと考えた。

 こんこん。

 扉が外から鳴った。控えめなノックは随身の少年ルタとは異なる。入りなさい、と返しながら、咽喉が少し震えていることに気付く。どうやら柄にもなく気が昂っているらしい。扉が軋む音がして、シュロ=リシュテンなる女がそっと頭を下げた。頭からフードをすっぽりかぶっているが、こぼれるのは柔らかな亜麻色をした巻き毛で、首筋や指先は雪のように白い。

「あなたが、シュロ=リシュテンか?」
「はい」

 尋ねると、女は細い顎を微かに引いた。
 ニヴァナはそれを注意深く見つめる。

「オテル術師は?」
「控えの間に残りました。呼びましょうか」
「いや、いい」

 控えには、随身の少年ルタもいる。問題はないだろうと考えた。

「さっそくだが、シュロ=リシュテン。証を見せてほしい」
「証、でございますか……?」
「あなたこそが、シュロ=リシュテン。今代の聖女であるという証さ。服を脱げ」

 手を振ると、侍女たちが下がって扉を閉める。
 聖女の乳房には、聖音鳥の噛み痕がある。引き攣れた三本の爪痕、というのは言い伝えであって、実際は聖音鳥の嘴が胸を淡く噛むだけだ。真偽の判別はたいていそれでできたし、万一クロエからオテルに噛み痕のことが知らされていたとしても、位置や形状などまで再現するのは至難の業だ。
 もしも、偽の聖女を差し出したとすれば。
 撃ち抜くまでだ、とニヴァナは残した護衛に目配せをした。

「どうした?」

 ためらうようなそぶりで、シュロ=リシュテンが俯く。突然のことに恥らっている風にも見えたし、思案をしているようにも見えた。

「仰るとおりにしなければ、いけませんか」
「王都では偽の聖女事件があったばかりなのでね」

 冷淡に告げると、女は諦めたように小さく息を吐いた。細い指先が震えながら、釦をひとつひとつ外していく。外套の次は、ブラウス。女の指先はさらに遅くなった。

「生憎とそういった趣味はない。安心しろ」
「……ですけれど」

 首を振る女に苛立ち、ブラウスをつかんだ。不意に窓の外で、鴉の啼く声が聞こえた。驚いた女が身をよじったはずみに、柔らかな亜麻色の髪がフードからこぼれ落ち、みどりのきれいな眸が瞬く。さらされた女の顔に、しかしニヴァナは絶句した。

「何故。あなたが、何故ここにいる」
「ニヴァナ様?」
「亡霊か。あるいは、幻か? リシュー! 姉上!」

 シュロ=リシュテン。
 確かに、女はまごうことなきシュロ=リシュテンである。
 否、だった、というべきか。それは彼の姉、リシュー=リシュテン。今代のシュロ=リシュテンに役目を継いで死んだはずの先代であったからだ。

「――――驚いたろ?」

 くっ、と女が白い咽喉を鳴らす。
 あっ、と思ったときには遅かった。リシューの細腕が閃き、女とは思えない力で首を引き寄せられる。護衛たちがとっさに銃を構えはしたが、リシューがニヴァナを身体の前に突き出すようにすると動揺が走った。

「撃ってみろ。こいつの身体に風穴があくぞ。私はそれでも一向に構わんがな」

 先ほどと声が異なっていることに気付く。羽交い絞めにされたまま視線だけを上げたニヴァナは、背後に回った女の姿に細く息をのんだ。オテルだった。柔らかな亜麻色の巻き毛は黒に変わり、みどり色の眸もまた、切れ長の黒眸に変じている。術で外見を変えるのは、オテルの得意とするところだと知ってはいたが、このように別人に成り変わってしまえるとまでは思わなかった。

「だが、下手を打ったな。オテル術師。これではクロエは返ってこない」
「以前の私であるなら無理だった。この屋敷の構造も知らないし、あいつがどこに隠されているかもわからなかったから」
「どういう意味だ?」
「そうだ、ニヴァナ=リシュテン。私の『ルタ』は上出来だったろう?」
「何を……」

 ルタなら、控えの間にいるはずだ。
 オテルとシュロ=リシュテンを控えの間に案内したのはルタであったから。
 けれど、ならば何故オテルはここにいて、ルタはやってこない?

「百年早いんだよ。お前ごときが私を使おうなど」

 小さく嗤い、オテルはニヴァナの背を蹴った。はずみに傾いだ身体を護衛が受け止める。すぐに別の護衛が銃を撃ったが、すでに遅い。オテル術師であったものは一羽の鴉に変わり、窓から飛び去っていた。

「侯爵!」

 そのとき、部屋に幾人かの護衛たちが飛び込んでくる。その顔が一様に焦燥を帯びているのを見て、ニヴァナは舌打ちをした。

「ルタが縛られて……地下牢ももぬけの空です!」

 魔術師め、と呻いて、窓枠に手を這わす。
 空の彼方に消えたか、すでに鴉の姿は見当たらなかった。

 ――のちに判明したことだが、やってきたオテルと聖女を屋敷へ入れ、控えの間に通した直後に、ルタはオテルに襲われ、意識を失っていた。オテルはルタに成り代わり、ニヴァナに同行して地下牢へ下り、聖女を呼んでくると言って別れたあとに、今度は見張りの男らを外させ、地下通路を使ってクロエを外へ逃がした。協力者が他に何名かいたと思われる。そのうちのひとりは、屋敷内外の事情に精通していたはずだ。リシュテンの家の者か、使用人か。試しに何人かあたってみたが、それらしい者は見つからなかった。
 クロエを逃がすかたわら、次はリシューに成り代わり、ニヴァナの前に立って時間を稼ぐ。服を脱げと言ったとき、ためらうそぶりをしたのはわざとだろう。あのとき聞こえた鴉の声は、屋敷を無事脱出した協力者からのおそらく合図だ。あとはリシューの顔を見せてニヴァナが驚いた隙に、オテルもまた逃げ出す。
 とんだ寸劇だった。

「まったく君はどこまでも私の邪魔をする」

 落日の王都を眺め、ニヴァナは懐中時計をぱちん、と鳴らす。
 しかし、このとき。両者の思いもよらぬ場所ですでに事態は動いていた。




「ひらいた」

 銀色の眸を甘くゆるめ、聖音鳥は鳥籠をとん、と押した。


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