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 スゥラ=コークラン王及びハザ公一行は、ハザ山脈の赤の火口付近を通過中、消息を絶った。ハザ公国は、険しい山脈に囲まれた土地である。前日麓の村を出て、道案内の者とともにその日の逗留地に向かうさなかに起きた出来事だった。スゥラ王のみならず、ハザ公、護衛にあたっていた主だった武人たち、小姓や馬たちのたぐいも皆姿を消したのだという。事態を重く見たユグド王国宰相職にあたる星詠み師レント伯は、ただちに息子をハザへと遣わせた。
 力強くうなずいて発っていく青年をルノはこぶしを握り締めて見送る。天からひらめいた粉雪がたたずむ王女にしんしんと、降った。





 『彼女』はいつも、かなしい、かなしい、と泣いている。
 あのひと、はどこにいるんだろう。あのひと、はどこへいってしまったんだろう。そっと首筋を撫でてやるとき、『彼女』は眸を心地よさげに細めながら、そのような嘆きを彼にだけ打ち明ける。泣かないで。泣かないで、***。わたしが、そばにいるから。ずっとそばにいるから。だから、泣かないで。抱き締めて囁くと、『彼女』はうれしそうに頬ずりをした。

『それではきみはなんと呼べば?』
『名無し』
『ノーネーム。自分から名無しという子供には初めて会ったな』

 金の眸を細めて、男は嗤う。

『待ってください。あなた、誰です?』
『――キェロ』
『きえろ?』
『キェロ=ツェラ。今はね。なぁに覚えることはないよ、どうせ次会うときには変わってる』

 めぐる。
 めぐる。
 ほどけゆく。
 繰り返す。

『あなたは、誰です』
『――クロエ』
『くろえ……?』
『今はね。はじめまして。会えてうれしいよ』

『それで、俺は君をなんと呼べば?』
『わたし。わたし、は――』





「イジュ!!!」




 突如として耳に飛び込んだ声に、彼は目を開いた。
 ぼんやりと焦点の定まらない視界に、心配そうに眉根を寄せる少女の顔が現れる。これは誰であったのかと熱で浮かされた意識を探る前に、唇が馴染んだ名前を紡ぎ出していた。ルノさま、と。そうして明瞭になる。自分がイジュであることや、この少女の所有物であることなどが。

「えー……と。どうされたんです」

 此処がどこであるとか、自分はどうしたのかということより、あるじの表情のほうが気になって、イジュは身を起こそうとする。

「イジュ」

 ルノの手がとどめようとしたが、無理に半身を起こすと忘れていた強烈な頭痛と吐き気が蘇ってきた。汗の滲むこめかみに爪を立てる。記憶をたどると、直前に自分がこの少女に何を言って、何をしたのか、そういったことも皆思い出された。ああ。ばつが悪くなって、よそへと視線を逃がす。こめかみをつかんだ手にそっと別の手のひらが重ねられた。それはたやすく強張った指先を解いて、額のあたりに触れる。

「熱がまだあるわ」

 ルノが口にした言葉は端的だった。
 汗で張り付いた前髪を梳いて、枕のほうをぽんと叩く。

「眠っていなさい。マルゴット先生に薬湯を作ってもらうから」
「ルノさま」
「なに?」
「……ここに」

 指先が王女のシミューズドレスの端をつかんだ。

「ここに、いてください」

 懇願する。くだらないことを、と嗤いたい心地になった。指先が離れる。さらりと水音のごとき衣擦れを立てて落ちるシミューズを裁いて、ルノはイジュへ向き直った。銀の睫毛がふわりと揺れて、蒼天を思わせる双眸が困った風に細まる。薄氷がほどけるような微笑い方だった。

「どうして泣いているのよ」

 指摘されて、頬のあたりを指で触れるとぬるい水の感触がある。
 困惑して、イジュも苦笑した。気付きませんでした、と呟く。

「お前はいつもぴぃぴぃと泣いてばかりだわ」
「ぴぃぴぃってなんです。いつの話をされているんですか」
「ふふん。今も泣いているじゃないの」
 
 ルノは口端を上げ、こちらへ手を差し伸べた。
 不意に、閉じたカーテンの隙間から射し込んだ月光がたたずむあるじの姿をあらわにする。イジュは眉をひそめた。月光にふちどられた少女が、ひどく果敢なく見えたからだ。肩も腕も細く、首筋のあたりに蒼く浮いた血管が痛々しい。憔悴しているようにも、傷ついて疲れ果てているようにも見えた。
 
「る……」
「わたしが、欲しいなら」

 口をついて出かけた言葉を遮り、ルノは言った。
 伏せられていた銀の睫毛が震え、蒼の眸がはっきりとイジュを捉える。
 燃える、ようだった。
 果敢なく少女を形作るすべての中で、精気を帯びた蒼眸だけが異様な輝きを増し、ひとかけの炎のようだった。炎。そう、炎だった。

「欲しいなら。お前がこの手を取りなさい」

 だから、イジュは手を。
 手を、伸ばした。

「愛してます」

 こわしてしまう、と恐怖する。
 このように力任せに引き寄せたら、彼は彼女を壊してしまうと。

「あいしてます、あいしてますあいしてますルノさま」

 そうであるのに、引き寄せた体温が心地よいと思う。腕の中にこの存在を閉じ込めたことに歓喜する。歓喜すら。

「私はあなたを愛している」

 咽喉が震え、溢れた涙が頬を伝った。
 どうしてなのだろう。うれしくて、うれしくてたまらないのに、ああ、死んでよいと。この瞬間に死んでしまってよいと、イジュは思った。


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