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12




 目を覚ますと、閉じたカーテンの隙間から朝の乳白色の光が射していた。それが男の閉じられた睫毛を滑り、琥珀色の影を落としている。ルノはぼんやりと枕元に落ちたヘイズルの髪に手を伸ばした。指で梳くと、柔らかな心地よさが伝わる。思わず笑みがこぼれてしまって、それから朝の光の眩しさに目を細めた。
 寝台脇に置いた椅子に腰掛けたまま、朝まで眠ってしまったようだ。身体に掛けられたブランケットに気付き、マルゴット先生かしら、と考える。くだんの女医は、深夜に一度やってきてイジュを診ていたが、今は見当たらない。月白宮は早朝のせいか、まだ静まり返っており、父王スゥラ=コークランの足取りについてもおそらく進展がないのだろう、とルノは察した。
 変な姿勢で眠っていたため疼く肩を鳴らして身を起こし、ルノはカーテンを開いた。マルゴット先生が処方した薬には睡眠薬も入っていたらしく、室内が明るくなってもイジュが目覚める気配はない。ほのかに紅潮した頬に触れ、額に載せられたタオルを白磁の盥で濡らして再び置いた。熱は未だ引いていなかったが、呼吸は幾分落ち着いたようにも見える。ルノは男の額にかかった前髪を指先で撫ぜた。

「“翠の妖精の宝物”」

 シミューズドレスのポケットからルノが取り出したのは、銀製のカフス釦だった。表面には、一流の彫師によって彫られたのであろうひとつ茨が描かれている。リィンゼント通りの橋のたもとで物乞いが拾ったという釦だった。調べさせたところ、これは確かにリシュテン侯爵家のお抱え彫師のみが作る釦であるという。また、娼婦アンネと親しかった物乞いたちからいくつかの話を聞くこともできた。

「道理で見つからないわけだわ。私は最初からそれを持っていたのだから」

 眠る男を見据え、覚えておきなさい、とルノはわらった。

「お前は私のもの。ずっと、このルノ=コークランだけのものなのよ」

 だから、わたしはまだ戦える。





 スゥラ=コークラン王不在のまま、千年祭にあたる聖夜はひと月後に迫っていた。このような非常の事態である。ルノとニヴァナの結婚の発表も延期するべきであるとの意見が出たが、否、このような時期であるからこそ発表の必要があるのだ、という意見もあり、結論はまだ出ていない。無事、ハザ公国へ渡ったレント青年からは、スゥラ王とハザ公一行が消息を絶ったのはひとまず確からしい、という情報が入ったきりで、こちらの進展も芳しからずであった。王都周辺には万一に備えて兵が配備され、大学から呼び戻されたウル王子が不機嫌面で王宮に居座った。
 ルノはニヴァナとともに、七大老リンゼイ=リシュテンを見舞っていた。偽聖女騒ぎやユグド王の失踪などで心身を疲弊させたらしい未来の義父は、床から離れられない日々が続いていた。

「お久しぶりですね、リシュテン老」

 寝台から身を起こそうとしたリンゼイをとどめて微笑むと、何か思い出すところがあったのか、「お父君にますます似てこられて」とリンゼイは済まなそうに目を伏せた。

「陛下のことで、お辛い日々が続いておりましょう。姫君」

 皺の刻まれた白くひんやりとした手のひらが、ルノの両手を大事そうに包む。その手は病床に臥せっていたひととは思えないほど力強かった。未来の義父にあたるひとであるものの、リンゼイとルノは顔を合わせたことがさほどなく、言葉を交わすにいたっては数えるくらいしかない。そうであるのに、このように労りの声をかけてくれるリンゼイをルノは好ましく思った。

「ありがとうございます。父上のことですから、きっとハザの珍しい驢馬か何かに心惹かれて追いかけたところ、迷って帰れなくなっているんでしょう。けろりとしたお顔で戻られますよ。猊下こそ、はやくお身体を治してくださいね」
「ふふ。あの陛下も貴女にかかれば、形無しですね」

 苦笑し、リンゼイは茶器を運んできた少年に、砂糖菓子を用意させるよう命じた。目を瞬かせたルノに、「いつも、こっそり買いに行かせているのですよ」と片目を瞑る。
 そのあと、ほんの短い間であったが、少しだけ先日の『皇女ジェーダ』の舞台の話もした。もともとは、踊り子たちの援助をしているリンゼイから贈られたチケットである。七大老の身分にあるひとが踊り子の援助というと、奇妙にも思えたが、彼女たちを語るリンゼイの眼差しは温かく、心からの敬意が感じ取れた。「何故バレエがお好きに?」と尋ねると、リンゼイは肩をすくめて、「昔、愛した女性がバレリーナだったのですよ」と懐かしそうに眦を細めた。

「父上、そろそろ」
「おや。もうそんな時間だったか」

 ルノがリシュテン老と話す間、ニヴァナは別の用事があると言って席を外していた。用事を終えて戻ってきたらしいニヴァナに、リンゼイは時計を見上げて残念そうに言った。このひとときが終わってしまうのはルノも心惜しかったが、これ以上長居しては病身に負担をかけてしまうだろう。ルノは淡いスカイ・ブルーのペチコートを摘まんで立ち上がる。裾を繊細なレースチュールでふちどった、シンプルなドレスだった。

「姫君」

 辞去の挨拶をして歩き出そうとしたルノをリンゼイの手が捉える。瞬きをしたルノに、「どうか、神の祝福が貴女にありますよう」と胸にかけたロザリオを握ってリンゼイが囁いた。その横顔が何故か果敢なく思えて、あなたにも、と力強く手を握り返し、ルノは部屋を出た。



 馬車が緩やかに動き出す。
 リシュテン老が身体を休めていたのは、王都の郊外にある城館のひとつだった。麦の穂を刈り終えた畑は一面白く、丸い積み藁たちも薄く雪をかぶらせていた。道脇に伸びた糸杉たち。まだらに黒い枝葉ののぞく木々の立ち姿を車窓越しに眺めていたルノは不意に「止めて」と言った。

「姫?」
「ここで降りたいの。少し歩きませんか、侯爵」

 それきり口を閉ざし、ルノは馬丁にステップを下ろさせ、地に降り立った。びゅうと吹きつけた風が冷たい。毛織のショールを巻いて、秋枯れの糸杉の間を歩き出した。しばらくいぶかしげにしていた侯爵や、ヒヒをはじめとした護衛たちも遅れて追いかけてくる。

「君の気まぐれも考えものだな。それで、何に心惹かれたんだい、姫」
「ふふ。ついてくれば、侯爵にもわかりますよ」

 雪のかぶった枯れ枝を踏みしだいて、木立を抜ける。とたんに視界が真っ青に開けた。水音が微かにする。下をのぞくと、遥か下方に濃霧に包まれた森が見えた。河はおそらくあの間を流れているのだろう。

「この景色が見たかったのかい?」
「……いいえ」

 ルノは振り返り、侯爵を見据えた。背後には、ヒヒと幾人かの護衛たちが並んでいる。侯爵のそばには、随身の少年ルタが侍るだけだ。

「侯爵。私たちは遠からず夫婦になるのでしょう」
「ああ」
「ですからその前に、ひとつはっきりさせたいことがあるのです」

 おもむろにルノは握ったこぶしを侯爵へ差し出した。眉を寄せた侯爵に向けてゆっくり開く。そこに握られていたのは、銀製のカフス釦だった。

「リィンゼント通りの橋のたもとに血痕とともに残されていたカフス釦について。私があなたに聞きたいのはそれだけです、侯爵」


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