「いったい何の話だい、姫」 カフス釦を見ても、ニヴァナの碧眼はちらとも揺らがなかった。ルノは小さく息をつく。できるだけ平静を保ち、ルノもまた微笑んでみせた。 「私に街のお友達がたくさんいるのは侯爵もご存じでしょう? そのひとりが拾ったというのです。数か月前の朝に、リィンゼント通りの橋のたもとで血痕に沈んだこの釦を」 「ほう、見せてくれ」 侯爵の手の上に釦を載せる。しげしげと陽光に照らしたりなどしてそれを確認した侯爵は「確かに私のもののようだ」とうなずいた。 「なくしたと思っていたのだがな。まさか見つかるとは思っていなかった」 「侯爵」 「それで、姫? 君は私に何を聞きたい。血痕をつくったのが私だとでも?」 「いいえ。その血痕のことなど、私にはわかりません。死体すら見つかっていないはなしですから」 「それなら」 「侯爵。ですが、偽の聖女を仕立てたのはあなたのはず」 ルノは侯爵の手のひらからカフス釦を摘まんでポケットに入れた。 「偽の聖女だと?」 「ええ。リィンゼント通りの娼婦アンネ、それから相棒のヨセフ。あなたの随身が彼女のもとにたびたびやってきたのを私のお友達は見ています。そして、彼女が王都を旅立とうとした朝に亡くなったことも。そのすぐそばに、あなたのカフス釦が落ちていたことも。侯爵。あなたは、いったい何をされようとしているのです」 ルノを見つめ返すニヴァナの眼差しはどこまでも静かだった。疑念が頭をもたげる。リィンゼント通りの娼婦アンネ。偽のリシュテンの聖女と、聖女の異母兄であるニヴァナ=リシュテン。ある朝、アンネは事故で死に、そのそばには彼のカフス釦が残されていた。何もないと言い切るにはそれらは繋がりが深く、けれど、何かがあったというには決定的に足りない。 「……まったく君ときたら」 困り果てたようにニヴァナが手で顔を覆う。 男の咽喉を小さく鳴らしたのは苦笑だった。 「ほんとうに負けん気が強く、自信家で、そしていとおしくなるくらい畏れ知らずなのだから。エヴァが厭うのもわかるな」 ぱん、と。 銃声が爆ぜた。 大きく瞠られたルノの眸に映ったのは、ニヴァナの背後で倒れるヒヒの巨体だった。木陰からいくつもの火花が散り、数少ない護衛たちが足を撃たれて倒れる。代わりに糸杉のあいまからいざり出たのは、シャルロットの私兵だった。 「君は、果たして考えなかったのだろうか」 侯爵の手がルノに伸びる。頬に触れられた。 手袋越しのそれは、凍りつくような冷たさを持っていた。 「君と同じように、私が君に疑念を抱いていたことに。ずっと君の様子をうかがっていたことに。この可能性に。郊外の王都から離れた地に君を連れ出して、私が考えていたことに。少ないユグド兵に。なんの疑問も抱かなかったのか、ルノ=コークラン。この国の王女よ」 頬に触れられている、ただそれだけであるのに身じろぎひとつすることができない。正しくルノは動揺していた。見る間にあたりを血の海に変えた銃声は、まったくそれを知らずに育ったルノの思考を奪った。 「ルノさま……」 「ルブラン!」 足を撃たれて倒れていたヒヒが身を起こそうとする。随身の少年が拳銃を構えたのにルノは気付いた。侯爵の手を振り払って、駆ける。ヒヒの肩に触れた、さなかに熱い塊がかすめて、足がくずおれる。気付けば、ルノは雪にぬかるんだ地面に倒れており、焼き鏝を直接あてがわれたかのような激痛が肩に走った。思わず押さえた手のひらが赤く染まる。撃たれたのだとわかった。 「ルタ。やめろ」 随身の少年をたしなめ、ニヴァナがルノの前に立つ。立ち上がることもできずにそれを見上げた。激痛で遠のきそうになる意識の端で、頬に靴先が触れたのがわかった。 「ルノ」 と、ニヴァナは言った。 靴先が頬をなぞって、こめかみを踏みつける。それを跳ね除ける力も残っていなかった。ただ乱れた呼気を幾度ものみこむだけである。 「私に命乞いしてみせろ。さすれば、助けてやらないでもない」 ルノは薄く開いた眸をニヴァナのほうへ向けた。睨みつける。視線でひとを殺せるというのなら、そうしてやりたいと思った。このおとこを。ころしてやりたいと。しかれども、ニヴァナにあるのもまた、冷たく重い何かなのだった。 「私は知っているよ、ルノ」 男はかがんで、ルノの首に手を回した。 「君は、本当はとても脆く、傷つきやすい女の子で、そんな自分を隠そうと必死だ。君はいつも命がけで、己を騙っている。己を偽っている。そう思うと、ルノ=コークラン。私たちはとても似ているのかもしれないね」 首に回された五指が濡れている。そこへとめどなく伝うのは、自分の涙だった。幼子のようにルノは泣いていた。声を殺して泣いていた。悔しかった。とても悔しくて。悔しくて。痛くて、怖くて、ほんとうはとてもこわくてこわくてこわくてこわくてこわくてたまらなくて。泣いている。ただの少女みたいに。 「おまえを」 ルノは言った。 「おまえを、ころしてやりたい」 首を絞める手のひらがふと緩んだのを感じ、ルノはニヴァナのもとから滑り出た。傷ついたヒヒのそばに誰のものかは知れない拳銃が転がっているのを見つける。すがりついたのは半ば本能といってよかった。このようなものの扱い方など無論ルノは知らない。知らなかったが、ルノは転がるようにしてそれを拾い上げ、呆然と見つめるニヴァナのほうへ銃口を構えた。撃つ、そのことにためらいはなかった。震える指先で引き金を探して、指の腹を押しあてる。 ぱん。 乾いた銃声が鳴った。ルノは驚愕に目を見開く。火を噴いたのはルノの握り締めた拳銃ではなかった。随身の少年の銃であり、その銃口はまっすぐルノへ向けられていた。衝撃を受けた身体がぬかるんだ地面を転がる。おちる。不意に遠くへ身を投げ出された気がして、ああ、とルノは思った。視界いっぱいに真っ青な天穹が広がる。そよ、と風に揺れる崖上の草に伸ばそうとした指先は空をかき、何もつかめずに終わった。嫌。いやよ、しにたくない。だって、わたしはまだ。まだなにも。涙が溢れて、目を瞑る。たすけて。たすけて、いじゅ。つたない嗚咽は誰にも届くことなく、やがて途絶えた。 荷車の上で呻き声ひとつ立てずに寝入っていた男は不意に目を覚ました。あまりにも唐突だったので、隣で怪我人を看ていたオテルは眉をしかめる。 「平気か? 馬鹿師匠」 「――もどらないと」 「は?」 「あの子のところに戻らないと」 まだ記憶が混濁しているのだろうか。けれど、シャルロ=カラマイの口調は明瞭で、血迷った風でもない。ただ、金の眸に浮かぶのは激しい焦燥と苛立ちだった。 「あの子って誰だ?」 落ち着き払った声でオテルは返した。男の気質は十二分に知悉している。下手に取り繕いでもすれば、次は怒声が飛ぶだろう。 「“シュロ”」 「……聖音鳥?」 「違う、聖女のほうだよ。きみは気付かないの、オテル」 苛々と痛むらしい頭をおさえてシャルロ=カラマイは、今はすでに遠くにある世界樹の方向を指差した。 「解けたんだ、俺が聖音鳥にかけてきた術式がすべて。ちっくしょう俺のせいだよ、聖音鳥があの子を見つけてしまう」 そのとき、イジュは跳ねるように身を起こした。 いったい何があったのか、何が起きたのか。とめどなく涙が頬を伝い、胸が軋む。頭痛や嘔吐、発熱といったものがけれど、すっきりと消えていることに気付く。いぶかしみながら胸を押さえて、窓を開いた。とたんに、突風が巻き起こる。薄絹のカーテンをはためかせ、ふわりと何かが窓の桟に舞い降りた。 それは、少女だった。 白い翼を背に持つ、銀の眸の小鳥であった。 「みつけた」 銀の眸に歓喜の色がよぎり、白い腕がイジュの首に回される。 みつけた。みつけた。みつけた。 少女が歌をうたう。聖音鳥が祝福の歌をうたう。 「わたしの。わたしの、王――!」 ・ ・ 『それで、俺は君をなんと呼べば?』 『わたしは――。わたしは、“しゅろ”』 ・ ・ シュロ=リシュテン。 それが踊り子の母を持ち、リシュテンを父に持つ彼に与えられた最初の名である。
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